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「えええっ!」
晴天の霹靂、道を歩いていたら目の前に宇宙人と宇宙船が突然落っこちてきたばかりか、『ナカヨクシマショー』と握手を求められた、そんな顔で敏人は俺を見たが、いやいや俺のせいじゃないって。
「ご存知の通り、この婚約は海部運輸と朝倉財閥の連携を意図している」
周一郎はサングラスを指先で直した。そこにあるのは少年の顔ではない、感情を一切含まない企業人としての顔、朝倉家の若き当主の顔だ。
「朝倉家は海部運輸の海外へのパイプと機動力を、海部運輸は朝倉家の財力を必要として、互いの了解の元に作り上げられていた関係だ」
「…あまりにも直接的ですな…そもそも…」
「僕とあなたの間で慰めあいは不要でしょう」
言いかけた敏人のことばは周一郎に切られた。
「海部運輸の実情を調査しました。ごく最近、ヨーロッパのパイプを立て続けに二本失っていますね?」
「それは……あなたもご存知のはずだ、『SENS』がらみの一件もあって」
「そればかりか、取り返す動きもなく、新たなパイプの設置も見られない」
ああ、なるほど、京都の一件がまだ尾を引いている分野があるのか。
俺の頷きを待ったわけではないだろうが、周一郎はワンクッション置いた後で続けた。
「事業状況を分析してみたが、発展性を欠いている。打てる手も考えてみましたが、社内の人材資材ともに不足しています。海部運輸はどちらかというと、先行きが見えた企業だという判断です」
「いや、それは」
敏人は疲れが見え始めた顔で遮ろうとした。だが、周一郎は止まらなかった。
「朝倉家が必要としているのは、海外への発展性を持ったパイプだ。海部運輸がこういう状態では役員会も頷かない。当方としては手を引く事を考えざるを得ない」
「し、しかし」
「社長、お話しされた方が良いかもしれませんわ」
玲奈が敏人を振り向いた。
「この方は『氷の貴公子』、誠実さや情愛には無縁の方ですし」
「い、いや、それはまずい、まずい…」
唸った敏人は眉を寄せ、何を思いついたのか、居直ったように周一郎を睨んだ。
「朋子はどうしてくれるんだ? あれは4年以上、君を待たされておる」
やぶれかぶれの横柄な口調だった。
「すまないとは思いますが」
周一郎は薄い皮肉っぽい笑みを唇に浮かべた。サングラスの奥の瞳がまた温度を下げてどきりとする。
「もともと、そんなにきれいな話じゃありません」
「しかし娘は」
「本田悟のことは如何ですか?」
「!」
敏人がびくんと体を竦めた。
「そこまでご存知でしたの」
玲奈が開き直ったように周一郎を見据える。澄んでいた茶色の瞳が禍々しい色をたたえ、わけもなく化け猫騒動を思い出した。ざわざわと這い上がって来る嫌な予感、体が無意識に少し震える。
「…朝倉さん」
敏人が疲れた声を出した。
「わかりました、お話しましょう。実は、私は何者かに命を狙われているのです」
(来たっ!)
ほらほら出て来た、おかしなことが。
溜め息まじりに周一郎を見やる。
ドイツまで来て厄介事に引っ掛かることはないと思うのだが、『厄介事』はよっぽど俺に惚れ込んでいるらしい。飛行機内での嫌な予感はこれだったのか。
「お聴きしましょう」
周一郎は動じた様子もなく促した。
「……ってことは」
俺達は与えられた寝室に居た。というより、俺が周一郎の寝室に居た。
旅の疲れと緊張のせいか、例の通り、周一郎は気分が悪くなり、やっとベッドへ転がり込んだのだ。
「その本田悟っていうのは、海部朋子の恋人だったわけか」
「ええ」
額から目にかけて濡れタオルを当て、ベッドに横になったままの周一郎が頷いた。
「でも、1年前といや、もうお前の婚約者だったんだろ?」
「名前だけのね。本田悟はその頃、ドイツに留学していたんです。二人は出会って一目で恋に落ちた…」
「アルトハイデルベルクだな」
本田悟は激しい性格の男だった。朋子より数歳年上だったが、どうしても朋子と一緒にいられないと知ると、朋子を攫っていこうとまでした。だが、海部の力は彼の留学先にまで及び、悟は日本へ帰らなくてはならなくなって、二人は引き裂かれた。
「いつかきっと戻ってきて、どんなことをしてでも、朋子を攫っていくと宣言した……」
周一郎の声には微かな羨みがあった。幼い頃から処世術を駆使して世の中を泳ぎ渡ってきた周一郎にとって、悟のように情熱の赴くまま、周囲を気にせず突っ走ってしまえる激しさは夢物語に近いからだろう。
「ところが最近、海部敏人は、得体の知れない黒づくめの男につけ狙われるようになった……。車のブレーキホースが切られていたり、誰ともわからぬ男に狙撃されたり、それどころか、危うく高台から突き落とされそうになったり。敏人は、それを悟の仕業と考えて怯えていて、事業にあまり身が入らないようですね」
「へえ……それじゃ、今、海部運輸は誰が動かしてるんだ?」
「香村玲奈です」
珍しくぽうっとした虚ろな声で周一郎は応えた。唇を軽く噛み締める。
「玲奈さんが?」
「彼女は切れ者ですよ。大悟を落としたほどですからね」
「へ…え…」
落とした? 朝倉大悟と付き合っていたのか? そういえば、周一郎と玲奈は知り合いのようだった。
「おまえ、彼女を知ってるのか?」
タオルの下に見えている唇が一瞬ためらった。
「周一郎?」
「……はい」
一拍置いて、どこか疲れた声が戻ってくる。本当は話したくないのかもしれない。でも何となく、これは聞いておいた方がいいような気もする。
「どんなひとなんだ?」
「……滝さん、玲奈さんが好きなんでしょう?」
いきなり何だ。
「そ、そりゃ、好みだけど」
ふと思い当たった。こいつ、俺に気を遣ってくれてるのか。
「何が何でも、と言うわけじゃないし」
ふう、と珍しく、周一郎が溜め息を漏らす。
「?」
「大悟の恋人でした」
「え」
「大悟が若子夫人を手に入れる前に、少し付き合っていたことがありました」
低い声で続ける。
「大悟が彼女をドイツから連れ帰った時、彼は彼女を妻に迎えるつもりでした。聡明で、様々なマネジメントにも充分な能力を備えていた上に、朝倉家にふさわしい美貌と気品がありました。どこをとっても、非の打ち所のない女性でした」
気怠げに上がった少年の手がタオルを探るのに、手を伸ばしてタオルを取り、水に浸して絞り直してやる。
「すみません」
「で?」
「もちろん、大悟はそのつもりだったんですが、彼女の狙いはもっと別なところにありました………朝倉、周一郎、に」
「お前?」
「はい」
苦い声だった。タオルに隠れていても端整な周一郎の顔と、玲奈の笑顔を重ねあわせ、がっくりする。せっかく美人と知り合ったのに、やっぱりこいつがメインなのかよ。だが、周一郎の沈んだ声には、まだ何かありそうな気がした。
「まあ…悪い組み合わせじゃないよな」
「まさか」
周一郎は俺のことばのニュアンスを聞き取ったのだろう、冷笑した。
「そんな甘いものじゃありませんよ」
軽蔑の響き。
「玲奈は、朝倉財閥の急速な発展を探りに来たんです」