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海部敏人は、自分の娘が、大切な婚約者の友人、つまりは俺、に怪我をさせたことを平謝りした。
「さあ! 朋子! お前も謝るんだ!」
応接室には僅かに暖房が入っている。踝まで埋まりそうな絨毯が広々とした部屋に隅から隅まで敷き詰められ、壁には数々の絵画とタぺストリーが所狭しと飾られている。ソファとテーブルは結構な大きさだったが、それでも部屋のサイズから言えば、ほんの片隅に置かれている感じだ。窓から差し込む夕方の光は弱すぎて、シャンデリアの灯に追われている。
城内にはこういう応接室が幾つもあるらしい。
「、っつ」
「痛いですか?」
口を開いて部屋を見回していた俺は、駆け上がった痛みにひきつりかけた顔を無理に笑わせて、左足首に湿布して包帯を巻いてくれている玲奈に応えた。
「いえいえ、どんでもない!」
美人の前では、どんな情けない男でも英雄になれる。俺も例外じゃない。
「骨は折れていないようですけど」
「折れてても大丈夫です! 俺の足なんか、そのへんのボンドでくっつきますから!」
「ま…」
請け負った俺に、玲奈はふんわりと微笑した。思わず見惚れてしまいそうなきれいに澄んだ茶色の瞳、口からよだれが垂れそうになって慌てて目を逸らせる。
「ほら! 朋子!」
ごま塩まじりの短い顎髭と同色の髪をした敏人は、俺の怪我より、周一郎の機嫌を損ねたことを心配しているようだ。へつらうような目でソファにゆったり腰掛けている少年を見つめ、相手が何の反応も見せないのに苛立ったふうで、またもや娘を叱りつけた。
「朋子!」
「あたしのせいだけじゃないもん」
俯いて、薄茶の猫を抱き締めていた朋子はぽつりと応えた。口調の暗さに興味を引かれたように、周一郎が視線を流す。
「カッツェが勝手に」
「いつまでそんな子どもじみたことを言っている!!」
敏人は再び声を荒げ、怒鳴りつけた。身につけた上品そうなセーターとスラックスの内側から、叩き上げのしぶとさみたいなぎらぎらしたものがにじみ出る。
「仮にも婚約者のご友人だぞ!」
ご友人。俺もえらく持ち上げられたもんだ。
だが、朋子にはそれも不服だったようだ。
「婚約者なんかじゃないもん…」
小さな呟き、きらりと周一郎を見据えた瞳が猛々しい光を宿す。
「悟さんから引き裂いたくせに!!」
「朋子!」
「おとうさんなんて大嫌い!!」
朋子はぱっと立ち上がり、あろうことか猫を敏人に投げつけて、あっという間に部屋を飛び出していった。放り投げられた薄茶の小猫が、怖かったのだろう、敏人の顔に爪を立てる。
「うわっ!」
敏人はぐい、と小猫の首を引っ掴んだ。高々と手を振り上げ、思い切り床に叩きつけようとする。
「げ!」
思わずその下に飛び込んだ。
「きゃ!」「お!」「ってえっ!」
玲奈の悲鳴と敏人の声、そこに足に走った痛みに上げた俺の声が重なった。驚きに手を放した敏人の手から、ふわりと飛んだ薄茶の小猫が空中で体を捻って、床にひっくり返った俺の胸に降りる。
「な、何を!」
「猫にあたることないでしょうが!」
みゅうみゅうとパニックになって胸にしがみつく小猫を抱えながら、俺は敏人に噛みついた。
「いくら絨毯が敷いてあっても、叩きつけられたら怪我するじゃ…っ…」
沈黙にはたと我に返る。
しまった。またしなくていい事をしたのか。
「えーと……怪我するじゃ……ないんでしょうかね」
もぞもぞと続けると、敏人が冷たい目の色で見下ろしてきた。
「…失礼だが、それは我が家の猫だ。余計なお節介は…」
冷ややかに詰られかけたのを、より冷たい声が遮った。
「海部さん」
「は…」
凍りついた敏人に、周一郎が静かに続ける。
「よろしければ、お話ししたいことがあるんですが?」
「え、は、はい」
ことさらに丁寧な口調、敏人はぎくりとした顔で慌てて周一郎に向き直る。年上の男のおどおどした対応を労る風もなく、周一郎は目線で目の前のソファを示す。自宅なのに、まるで周一郎のオフィスに呼びつけられたように、敏人が急いで腰を降ろして畏まった。
「まず、婚約についてですが」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
うろたえつつも、海部はうさんくさそうな視線を俺に向けた。
「香村はいいとして、この方は」
周一郎は冷笑した。
「彼は僕の友人であり、アドバイザーでもあります」
「は?」
小猫を抱えて立ち上がり、思わずそちらを振り向いた。何の冗談だそれは、と突っ込みかけたのを、敏人に向けたと同じような冷ややかな視線で射抜いて、
「様々な決断に対して、よい意見を聞かせてくれます」
ですよね?
見えない声が同意を迫った。はっとして大きく頷いてみせる。
「あ、あ、うん、まあ、そう、だよな?」
「そ、そうでしたか、失礼致しました」
目の前で敏人は赤くなったり青くなったりしながら、俺に謝った。
ふむ、これはかなり気分がいいな? 見下げてきた相手に印籠を出すとか、間抜けなふりをしてたけれど実は天才とか、何かそういう類の気持ち良さだ。
「むふふふ…」
いささか怪しげな笑いを漏らしながら、周一郎の隣に腰を降ろす。胸に抱えた猫が『隠された天才』には不似合いかも知れないが、そこはほら、昔から秘密結社の首領とかはでかい宝石を嵌めた指で膝の猫を撫でてるとかあったはずだ、うん。
俺が妙にふんぞり返っているのをちらりと横目で眺めた周一郎は、軽く溜め息をついた後、至極あっさりと言い放った。
「婚約を解消したいのです」