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石段は、遠くから見ているよりも数段安定した力で足を受け止め、同じ力をじんわりと返す。石段というより岩棚に近い気がする。ちょっとしたトレッキングだ。あたりの空気を風が薙ぎ払い、肌寒さに身を竦めた。
基本的にドイツの気候は夏と冬しかないそうで、気温も日本よりわずかに低い気がする。それでも、ライン川流域というのは、ドイツの中でも明るく温暖なところにあたるそうだ。
上がっていくにつれて周囲の景色が広がってくる。起伏の豊かな、鮮やかな緑色に身を染めつつある自然が、俺達を押し上げていってくれるようだ。川が近いせいもあるのか、見上げた空が大きくて高い。
昔、ここを闊歩した武人達も、甲冑を鳴らしながら、こうやって空を見上げたんだろうか。戦いがいつまで続くのかとか、過ぎて来た戦で失ってきた者のこととか、いつも気合い充分というわけではなかっただろう、へとへとになってこの石段を戻ったこともあっただろう、その時にもやはり、何かを求めて見上げたこの空はこんなに高くて青かったんだろうか。
「あははは……だめよ、カッツェ!」
突然、場違いな華々しい笑い声が響いて、視線を戻した。
「朋子様」
先に立っていた玲奈が、16、7に見える少女に声をかけていた。軽く息を切らせていた周一郎が俺の隣で立ち止まり、同じようにそちらを見上げる。
少女は、俺達をちょうど見下ろすあたりにある、階段の途中にしつらえられた四阿のようなところから出て来たらしかった。薄茶の猫が腕の中でじゃれついて甘えている。
「遅かったから見に来ちゃったわ。その人が朝倉さんでしょ」
いたずらっぽく笑って、少女は大きな目を見張った。白い肌に薄い焦茶の虹彩がよく似合っている。
「側の、誰?」
「朋子様! 失礼ですよ!」
「だって知らない人だもん、名前も知らないのにどうしろって言うの?」
おどおどしたところなど一切持ち合わせがない、小生意気な表情で少女は俺を眺めた。なるほど、これが周一郎の婚約者ってやつか、と頷いたその矢先、
「あ、だめ、カッツェ!」
どうしたはずみか、小猫が身をもがき、ずるりと腕から滑り出た、と思う間もなく、俺の立っている所から数歩後ろへ零れ落ちた。
「カッツェ!!」「っ」
とっさに振り返りながら、薄茶の塊を受け止めようと手を伸ばす。いや、わかってる、相手は猫だ、くるりと体を捻って無事に地面に降り立つはずだ。だが、落ちたものを受け止めようとしてしまうのはもう、俺の本能に近い、それがたとえ、自分の能力以上のことであったとしても。
「滝さん!」「滝さんっ!!」
玲奈と周一郎の警告はちょっと遅かった。
「へ……ぅわあああっっ!」
石段はしっかりしていた。充分な幅はあった。けれど俺の靴の下には砂ももちろんあって、体を奇妙に傾けた俺の足下が滑り、空中へ放り出されたと思う間もなく、一気に十数段階段を転げ落ちていた。
目の前に星が飛び、カラスがあほーと鳴き、ついでになぜかエイリアンだのゾンビだのが並んでスキップをしていく場面が入り交じってちかちかする。もろに打ち付けた背中の痛みと足の痛みが、ようやくのろのろと脳味噌に達する。
「い…たあ……っ」
「滝さん!」
周一郎が駆け下りて来て、ぶっ倒れたままの俺の側に膝をついた。
「大丈夫ですか?!」
「た…ぶん…」
「滝さん!」
周一郎の後ろから、顔を強張らせた玲奈と朋子が覗き込む。
「滝さん、どこか…」
周一郎が俺のことで青くなっているのを見るのは気持ちよかったが、あんまり心配させてやるのも可哀想で、もそもそと起き上がって首を振ってみせた。
「大丈夫大丈夫、それより猫、と…」
みぃみぃとか細い声を上げて、猫は俺の腹辺りに爪を立てている。
「よしよし、怖かったんだよな……いっ」
立ち上がりかけた俺は、ずきん、と頭の天辺まで駆け上がった傷みに思わず眉をしかめた。朋子がびくりと体を引き攣らせる。
「人を呼んで参ります!」
察した玲奈が急ぎ石段を駆け上がっていく。
「…驚かさないで下さい」
ほうっ、と重い溜め息をついて、周一郎が唸った。額に薄く汗がにじんでいる。本当に焦ってくれたらしい。
「そうヤワじゃないさ」
にやにやしながら言い返すと、
「これ以上、お人好しになってもらっては困ります」
猫を助けるために階段から落ちるなんて。
「おい」
「滝さん一人居るだけで、もう十分に厄介なんですから」
しみじみ呟かれて、俺はがっくりした。