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「あ、ド、ドイツって」
突き刺さってくる沈黙に耐え切れず、俺は急いで話のネタを探した。
「古城で有名なんですよね」
「ええ、よくご存知ですわね」
他にもワインやソーセージなどもありますけど、と気持ちを切り替えたのか、玲奈は明るく続けた。
「社長の『レモタント・ローゼ城』の周囲にもたくさんのお城がありますわ」
歌うような調子で紡ぐ。
「ライン川流域でしたら、オーストリア皇帝から宰相メッテルニッヒに贈られたヨハニスベルク城、モイゼトルム、ラインシュタイン、ライヒェンシュタイン、ゾーネックの城趾、川の中央のプファルツの古跡、グーテンフェルズ・シェーンブルクの廃墟、ブルク・カッツ、ブルク・マウス、ライフェルズ、リーベンシュタイン、シュテレンベルクの古城跡、マルクスブルク城、ラーンエック、シュトルツェンフェルズ……ライン下りで最も美しいと言われるマインツからコブレンツにかけて、20以上の古城がありますわ。時期がもう少し遅ければ、ライン下りも楽しんで頂けるんですが、観光船運行の時期を外れてしまっていますから」
立て続けに上げられた城の名前は、同じような音が繰り返される古い詩のようで、ぼんやりと聞き流しているうちに終わってしまう。
「す…凄い量ですね」
何とか相づちを打つと、景色が美しいというだけでなく、それだけここが要所であったということなんでしょうね、と返されて、改めて『城』である意味を感じた。
そうか、そうだよな。
確かに居宅として造ったのもあるかもしれないけれど、写真や画像で見たドイツの城はがっちりごつごつした建物も多かった。フランスの瀟酒な城よりは、確かに戦で使われたものという感じがしたのを思い出す。
『古城』なんてロマンチックなことばだけど、つまりそれは、そこでたくさんの血が流されたということでもあるんだ。
「そんな所で暮らしてるのか…」
俺だったらあまり安眠できそうにないが、金持ちの考えることはまた違うんだろう。
車はいつの間にかアウトバーンに入っていた。車窓の景色が吹っ飛ぶように流れていく。速度の制限が緩やかで、時速100kmでもどんどん追い抜かれていく、そうガイドブックに書かれていた。
こういうのはすとんと頭に入るんだが、どうして講義はああも見事に頭を擦り抜けてってしまうんだろうな。
(留年、だもんな)
やっぱり、納屋教授の講義の単位が取れなかったのが致命傷だった。……まあ、あれで単位がとれたら、それこそ机でもベンツでも食ってやるが。
「レモタント・ローゼ城は、守りの城でも攻めの城でもありませんでした。作戦本部を収容していたこともあるようで、戦線から離れた働きをしていたようです。中世期には諸候が入れ代わり立ち代わり住んでいたようですわね。16、7世紀の宗教戦争、三十年戦争、17世紀末のフランス国王による放火、18世紀のフランス革命の際の革命軍による破壊……数々の波乱の時代を潜り抜け、比較的美しいまま残ってきました。もちろん、傷一つないと言えば嘘ですけど…」
玲奈は肩越しに微笑を投げて来て、艶やかな唇を綻ばせた。周一郎とやりあった時の冷たいイメージは、跡形もない。
「いろいろな破壊の度に、修復がユーモアをもって行われました。童話の中にあるような、ちょっと不思議なお城、と申しておきますわ」
「はあ」
頷くしかない俺の視界の端で、周一郎はなぜか沈んだ横顔を見せていた。
「着きましたわ」
奇妙な沈黙が続いた車で、ようやくアルトの声が響いた。
「う、わ」
促されて車から降り、唖然とする。
舗装された道は止まったベンツの数m先から細くなって地道になっている。緑が鮮やかに萌え始めた木々が両側を飾り、道の先は古びた黄褐色の石段へと変わっていた。ところどころに深緑の草が生え、周囲を縁取る黄緑の木々の色に遮られながら、石段はじりじりと上へと伸び上がっていき、ゆるやかに蛇行して斜め上にある城へと続いている。
城は凄まじいまでにがっちりとした石造りのものだった。そびえ立つ尖塔はあくまで高く天を目指し、強固な壁面はチンピラ強盗なぞ触れることも許さないと言いたげに地面に根を生やしている。ところが、幾つか暗い口を開けた窓の周囲には、妙に愛らしい感じの浮き彫りが施され、一部には改装を施したのか、繊細な出窓が取り付けられていた。中世と近世が微妙に入り交じってかろうじてバランスを保っているような、確かに不思議な雰囲気の城だ。幼稚園ぐらいの子どもが、TVと物語と想像をごっちゃにして描けば、こんな感じになるかもしれない。
(童話の中にあるような城、か)
ことばで聞けばメルヘンだが、童話の中に出て来る城というのは、結構ややこしい役割を担っていたり、不気味な仕掛けがあったり、怪物が潜んでいたりするものじゃなかったか?
「車で入れるのはここまでですの。少し歩いて頂かないといけませんわ」
玲奈が促した。
ベンツは俺達が降りると、するすると後じさりして去っていく。
俺は理由なく玲奈の高いヒールに目をやった。あんな靴で、この石段を上っていこうというのは、よっぽど行き来し慣れているか、チャレンジャーかだよな。
「?」
玲奈に着いていこうとして、周一郎が車を降りて数歩進んでから、固まったようにそこを動かないでいるのに気づく。
「周一郎?」
サングラスを外し、食い入るように城を見つめている周一郎の顔には驚きと賛嘆、それから奇妙な強張り…畏怖、のようなものがかわるがわる、現れては消え、消えては現れている。
「おい?」
「、はい」
物に憑かれたような目で一瞬こちらを見た周一郎は、急に寒さを感じたようにぶるっと体を震わせた。それでもまだ、半分夢をみているような手つきでサングラスをかけ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「どうした?」
「……」
「気分でも悪いのか?」
「…いえ」
周一郎は俺を見上げて、珍しく少し微笑んだ。硬い、能面のように生気のない笑い方だ。対照的に表情を消したサングラスの奥の瞳が、どこか不安げに見えた。
(何かに気づいた?)
もう一度、城とそこへ続く石段、しとやかに高いヒールの足下をよろけさせることもなく上がっていく玲奈のきれいな後ろ姿を眺める。
どこにも危険な物はないように見える。見えるが、俺より周一郎は鋭いのだ。
「…滝さん?」
「あ、はいはい」
どうなさったの、と呼ばれて、俺はへこへこと玲奈の後を追った。