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ハンブルク国際空港。
「滝さん」
周一郎の呼びかけに振り返る。
焦げ茶色の三つ揃いに磨き抜かれた革靴、華奢で繊細そうな容姿に濃い色のサングラス、これ以上、薔薇を背負わせようがぺんぺん草を背負わせようが決めようがないほど決まった姿で、携帯をポケットに片付けながら淡々と続けた。
「もう迎えが来ているそうです」
「へえ」
どこにいるのだろうとキョロキョロ周囲を見回す。
光をふんだんに取り入れられる天井、がっちりした金属の構造物。
世界でも有数の航空機メンテナンス会社本拠地でもあるこの空港は、ドイツの空港では最も早く開港したらしい。ドイツ国内では五本の指に入る賑わいだそうだが、正直なもので、海部からの迎えの男よりも、さっき飛行機で会った女性の方を先に見つけてしまった。濃いワインレッドのワンピースに栗色の髪が明るく流れている。上品な横顔は今は少し緊張感があり、やっぱり彫刻のようにきれいだった。
「滝さん、何を見てるんです?」
俺の視線を辿ったらしい周一郎が一瞬動きを止める。
「あれは…」
「え?」
思わず相手を振り向き、周一郎の瞳が奇妙な色をたたえているのに気づいて、慌ててもう一度女性を振り返る。
だが、いつの間にか女性は姿を消している。目立つはずのあのワンピースも、空港を行き来する雑多な人混みに紛れてしまったようだ。
「なんだ? 知り合いか?」
「いえ、知り合いというほどでは」
周一郎は奥歯に物の挟まったような言い方で首を振り、
「好みの女性ですか?」
「うん、まあ」
にちゃりと崩れてしまった顔のままへらへら笑っていると、唐突に後ろから柔らかなアルトの声が優しく尋ねかけてきた。
「Verzeihung…」
「うわっ!」
俺が飛び退いたのに相手も驚いたのか、しばらく澄んだ茶色の目を見張っていたが、気を取り直したように周一郎に向き直った。見覚えのあるワインレッドのワンピース、あの美女だ。
「Was?」
周一郎は相手の美貌に頓着した様子はない。むしろ、どこかうんざりした、うっとうしそうな表情になったが、それも一瞬、親しげに問い返す。
美女は微笑み、蕩けるようなアルトで続けた。
「Ich freue mich sehr, Sie kennen zu lernen. Ich heiße Kamura.」
「香村さん? 確か、海部さんの秘書の方ですね」
周一郎がちらりと俺を見やり、唐突に日本語に戻す。
「はい、香村玲奈と申します。社長代理としてお迎えに上がりました」
相手の女性も平然と日本語に切り替える。
てやんでえ、日本語をしゃべれるなら始めからそうしろってんだ。
エセ下町なまりで心の中で毒づいたものの、美女相手にそんなののしりなどとんでもない。大人しく二人の会話を聞くことにする。
「ありがとうございます」
周一郎はにこやかな営業スマイルを広げた。
「ああ、彼が友人の滝さんです」
「あ、滝志郎です、どうも」
どうもって何だどうもって。
もう少しまともな挨拶できなかったのかと悔やみつつ、ぺこりと頭を下げる。
玲奈はくすくすと深みのある笑い声を響かせ、俺達を空港の外へと招いた。荷物をお持ちしましょうと言われたがさすがに辞退、周一郎の分のスーツケースと自分の着替えを詰めたキャリーカートを引きずっていく。
道路に待っていたのは磨き上げられて傷一つない黒のベンツ、乗り込もうとすると、わあっと空港内で騒ぎが起こって思わず振り返った。
「あれ…?」
人が見る見る集まっていく、数人が駆け出し、空港職員が駆けつけ、警察のような男達も走って行くその場所は、さっき玲奈がいたところじゃなかったか。
「関係ないことですわね、行きましょう」
有無を言わせぬ冷ややかさで玲奈が言い放った。降りて来た運転手が興味深そうにスーツ姿の周一郎と年期の入ったセーターとスラックスの俺を眺めながら、トランクに荷物を片付けてくれる。
俺に続いて周一郎が乗り込み、玲奈も助手席におさまると、運転手は滑らかに車を発進させた。
「よく覚えていて下さったのね、朝倉さん」
嬉しいわ、とそれは語られなかったけれど、華やいだ声音を玲奈が響かせる。
「周一郎で結構です」
隣の少年は愛想も糞もない。
こんな美女を相手にちっとは笑ってみようかという気にもならないのか。これだから端整な奴はむかつく。向けられる好意を当然だと思ってる気がする。俺なんかな、笑ってもらうためにいろいろ大変な心身ともの奮闘を必要とするんだぞこら、と口に出さない俺の罵倒に気づいた様子さえなく、淡々と話し続ける。
「一度見た人は忘れない主義なんです。後で困ったことになりますから」
嘘つけ、一度俺のことを忘れただろうが、と胸の中でののしった。それとも、忘れても困らない相手だったからかおい。ああそうとも、まだまだ文句が言えそうな気がしてきたぞ。
「特に仕事に関係している場合は」
さらりと付け加えた一言は、玲奈にとって特別な意味があったらしい。
「そう。『氷の貴公子』の噂通りですわね。仕事に関係した人間にしか興味を持たない。誰にも心を許さない…」
考え込んだような声が微かに憂いを帯びる。
「周一郎さんは、あの時お幾つでしたの?」
今度の問いかけには、妙に母親じみたものが漂っていた。
周一郎は微かに嘆息し、初めて見る、人の心をその場で凍てつかせるような皮肉な微笑に唇を歪めて、静かに応じた。
「14歳かな。その前の方がいいですか」
「、…」
不自然な沈黙が車の中に膨れ上がった。手で触ったらわしわしと手に食い込みそうな荒々しさだ。
やがて、固い声でアルトの響きが返ってくる。
「結構よ」
どうやらこの二人には、ただの知り合いどころじゃない、俺の知らない、いやどっちかというと知らない方がいい複雑な関係がありそうだ……それもかなり楽しくない、過去。