1
船は滑るようにラインの川面を進んで行く。風が少し冷たい。両岸に次々広がる美しい自然と古城や廃墟に、船の中から歓声とも溜め息ともつかぬものがあがる。
「凄いな」
見上げた蒼く澄んだ空、その空を映して青く輝くライン川、両岸の幾重もの緑が重なり合い、あの迷路を思い出させる。
ライン下り。
完全な『ライン下り』は、スイス国境のバーゼルから河口に当たるオランダのロッテルダムまでの1300kmだが、俺と周一郎は、その中でも特に美しい、賊に『ロマンティック・ライン・コース』と呼ばれるマインツからコブレンツに至る、約90kmのライン下りを楽しんでいた。
一つ、また一つと現れる城に、玲奈の面影が重なり、朋子の顔が過っていく。既にこの世にいない人々の思い出が、この風景には妙に合う。
河の中央に立つプファルツ城塞を過ぎると、隣に居た周一郎が一枚の便箋を封筒から取り出した。
「何だ?」
「マリーネの書き置きです。死ぬ寸前、僕へ書き残していることがあるからと言っていました。僕なら、全てを理解してくれるだろうと」
どこか苦しげな声は淡々と事実を伝えてくる。
「そういえば、よくハインツは納得したな、マリーネの事を省いての説明で」
「…納得してはいないでしょう」
さらりと周一郎は応じた。
「でも、朋子は『事故』で落とし穴に落ちてしまったのですし、敏人殺しは今となっては『迷宮入り』です」
「『迷宮入り』な。確かに『迷宮』に入っちまった」
「マリーネの行方不明も、よくあることで片付くでしょうしね」
これと言う身寄りもなかったようですし。
というより、身寄りを明らかにしていなかったのだろう、と周一郎は付け加えた。
「何で書いてあるんだ?」
「……マリーネはレモタント・ローゼ城の直系のようです。父母が継ぐはずだった城を、事業の失敗につけ込まれて海部に奪われ、酷く哀しい想いをした、とあります。その後、父母は事故で死んだことになっているが、私はそうは思わない、とも」
周一郎の声が静かに手紙の内容を読み上げる。
「……父の事業の失敗は海部が仕組んだものだったことを知っている。それに気づいた父が法的に闘おうとしていた矢先の事故など都合が良すぎる。私は父母の仇を討つ。そのためにこそ、素性を隠してここへ入り込んだのだから」
おさげ髪の少女の無邪気な笑みの後ろに何があったのか、俺が見ていなかった部分、周一郎が見つめていた部分の暗さにぞくりとした。
マリーネはローレライを口ずさみ、明るい笑顔で城の中で働いていた。本当ならば、自分こそがこの城でかしずかれるべき存在だと思いながら。
いつか、必ず思い知らせてやる。
そんな想いなぞ、俺は全く気づかなかった。
その声を、表情を、周一郎はいつから見つめていたのだろう。
「あなたがこれを読む頃には、全てが終わっているだろう……Schöne Rise.」
「しぇーね、らいぜ?」
どういう意味だった、と首を傾げると、周一郎は遠い視線を彼方に向けた。
「よい旅を」
「よい旅、か」
この手紙をハインツに見せなかったのは、マリーネの事を知らせなかったのは、どうしてなんだ、そう聞きたかったが、虚ろな表情で手紙を裂き始める周一郎の横顔が、余りにも寂しそうで聞けなかった。
指先ほどになるまで細かく千切って両手を開くと、紙片がぱらぱらと季節外れの雪のように風に舞って散っていく。気づいた旅行客の数人が指差したが、誰も、それがどこから飛んできたものかはわからなかったようで、騒ぎは一部の客のみで済んだ。
船は進む。
緩やかに蛇行するライン河、それでも日本の川に比べればうんと幅広い、その流れの中を、漂い流される笹舟のように。
運命という河を、俺達もまた、流されていく。
身じろぎした周一郎が俺を見やり、低い声で促した。
「ローレライの岩です」
「へえ…ほんとにあるのか」
ごつごつした岩が、まとわりつく緑を裳裾のように絡ませた鮮やかな姿でそそりたっていた。船内にローレライの曲が流れ、それに合わせて、人々の間から『ローレライ』の歌声が溢れ始める。
その声に、マリーネの高く澄んだ声がふと混じったような気がして、俺は船内を見回した。
マリーネ、君は本当にそれでよかったのか。
本当は、城とか父母のこととから離れて、もっと自由に生きたかったんじゃなかったのか。
もちろん、マリーネの姿はない、幻にさえ現れていない。
俺は溜め息をついて、ローレライの岩を見つめた。
「人を惑わす魔女、か…」
呟きは輝く陽射しに溶ける。
春へと向かうドイツは、限りなく美しかった。
おわり




