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古城物語 〜猫たちの時間4〜  作者: segakiyui
8.レクイエム

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2

「Nein!」

 はっと息を呑んだ周一郎がどこか悲鳴じみた声で叫ぶと同時に、マリーネの白い手が思い切り鎖を引くのが見えた。ごりごりと鈍い音、きしるような音が碧緑の間に満ちる。ずるずるっ、どしんっ、と俺達とマリーネの間を再び壁が分ち、ガタンッと音が聞こえたかと思うと、小部屋の中から微かな悲鳴が響いた。数瞬後、どずっ、と胸の悪くなる不愉快な音、かき消すように引き絞る絶叫が耳を襲う。

「げっ」

 何、何だ、おいまさか、ひょっとして。

 頭の上から落ちて来た氷柱に貫かれたような気分の俺に、周一郎が目の前を閉ざした美しい碧の石の壁を見つめながら、凍てついた声で呟いた。

「落とし穴があったんです、あの小部屋の真下にも」

 ふらりと体を揺らめかせ、すぐ側の壁にすがりつく。振り返った顔からは一切の感情が削ぎ落とされている。

 気づいた、理解した、得心した。

 あまりにも惨い出来事に向き合うと、人はことばの無力に気づく。訴えることの虚しさを理解する。そして、わかってしまう、想いなんて意味がないと。

「城主が追い詰められた時の…自害用に……っ」

「おいっ!」

 手を伸ばすより一瞬早く、周一郎は壁を伝って力なく崩れた。はっ、はっ、と忙しく荒い呼吸、俺を見返した目が見る見る焦点を失っていく。掴んだ手足は竦むほど熱かった。しかも、まだ熱を上げていこうとするように、ぶるっ、と何度も体を震わせる。

 まるで、目に見えない何かの炎に周一郎自身が焼き尽くされていくようだ。

 ぞっとした。

「ルトっ!」

 喚いた。

「道を教えろ! 周一郎をこっから連れ出すんだ!」

「にゃっ!」

 わかった、と言いたげに青灰色の猫は身を翻した。俺が周一郎を背負うのを待って、床石に軽い足音を響かせ始める。鏡がなくなったせい、ひょっとすると、二人もの人間の血を吸ったせいだろうか、緑の床石は暗く陰惨な色を包み込んでいる。

 ルトの仄白い反射を見失うまいと必死に走った。さっき無茶をやったせいか、未だに脚ががくがく震え、全治しないままに捻りっぱなしの左足首がじくじくと熱を持ち出している。

 だが、それより何より背中の周一郎ははるかに熱っぽかった。四十度を越えていなけりゃもうけものなのだろう、なにせ、北海道ぐらいの気候のドイツの夜、冷えて凍てつく地下室にパジャマ一枚で放り出されていたのだ。おまけに、迷路の中を半分意識のないままに彷徨い続けている。倒れないほうがおかしかった。

「ええい、このくそ迷路!」

 俺は乱反射するルトの青灰色の影を追いながら喚いた。角に潜む影、口を開ける落とし穴。頼むから俺の前に現れてくれるな。祈りながら走り続ける。曲がる角、角、角、通路が歪む。ルトの姿が緑と青に溶け入りそうだ。

「ここを出たらぶっちらばってやるからな!!」

 誰をだ? 皆死んでしまった。ドイツで出逢った人間が次々、手を伸ばすたび崩れる砂山のように、ざらざらと脆く塵になっていく。いや、周一郎までそっちに連れていくなよ、女城主。お前の遊び相手はもう十分揃ったはずだ。走れ右、次は左だ。ルトは? ああ、そこにいる。

「ちょっとは……人間の…速度を考え…」

「滝さん…」

 ルトに懇願しかけた矢先、ぐいと背中で手を突っ張られてぎょっとした。

「歩け…ます」

 周一郎の掠れた声にかっと頭が熱くなった。

 歩けます、が聞いて呆れる。どこらあたりが『歩ける』って言うんだ? みみずの方がまだ早い。

「黙ってろっ!」

「降ろして…下さ…い」

「うっさい!」

「大…丈夫…ですから」

 おんぶされてて息を切らしてるくせに、大丈夫もないもんだ。俺は喘いで立ち止まった。どうせ飛び込むなら昼飯を食ってから朋子についてくりゃ良かった。

「滝さん」

「お前、ごたごたうるせえんだよ!」

 がうっ、とライオンさながらに喚いてやった。

「病人が健康な人間に意見すんなっ! 死にたいのか!」

「でも…滝さんが…」

 言いかけてぐったりと周一郎は肩に頭を落としてきた。思ったよりも小さな感触、熱を伝えつつ揺れている。かなり苦しいのだろう。

「俺がどうしたって?!」

 不安になって大声で尋ねた。

 冗談じゃないぞ、俺は医者じゃないし、坊主でもない。こんなところでどうにかなるなんて、物騒なことは止めてくれ。

「周一郎!」

「ぼくが……ここに………いた………から……」

「いたから?!」

「滝…さ……んは……ここ……で……迷…て………」

 次第に微かになってくる周一郎の声に冷や汗が流れた。気のせいか,背中の熱が薄れてきた気がする。下がったんじゃない、失っているんだ、体を保つ熱量を。それが命を繋ぐ境界を越えてしまったのなら、待つのは。

 ひやりとして大声で叫ぶ。

「おいこらっ、周一郎! 周一郎っ! ええいくそっ!」

 ルトを追い越さんばかりの勢いで駆ける。ルトが軽く跳ねて尻尾を立て、速度を上げる。

「俺は迷うのが好きなんだ! 遊園地の迷路なんか大好きだ、あそこで暮らしたいと常々思ってたぐらいなんだ、ほんとだぞ!」

 人間為せば成る。喚きながら走れるとは思わなかった。今ならオリンピック強化選手になれるかもしれない。だれかストップウォッチで計ってくれ、日本新記録も夢じゃない。泣きそうになる。

「人探し好きだし、厄介事好きだし、追っかけっこが好きなのは十分知ってるよな?!」

 ふ、と微かに周一郎は背中で笑ったようだった。零れる呟き、けれどことばになっていない。叫び続けてさすがに乱れる呼吸に俺の視界が揺れてくる。

「ルトっ! もっと…楽な道は、ないのかっ!」

 んなもん、あるかよ、と言いたげにルトが一瞬こっちを振り返る。寝かせた耳に周囲の緑が跳ねる。角、右、角、右、直線、ダッシュ!

「っ!」

 ふいに視界が開け、目の前にぼさりと突っ立っているハインツの姿があった。

(抜けた!)

「と、わっ、のけっ、のけよっ!」

 勢いのついた体は止まらない。ハインツが起こりかけている事態に気づいて半身体を捻るより早く、俺はもろに相手に突っ込んでいた。

「ぎゃわっ!!」「Nein!!」「Uaaaaaa!!」

 ハインツと後ろに居た警官ほとんどをなぎ倒し乗り倒し、俺はなおも前にのめった。背中の周一郎は幸いにもしっかり押さえつけていたのだが、警官の最後の一人が運動神経の良すぎる奴で、俺の突進を見事に避けた。

「ば、かあああああっっ!」

 真正面に近づく床に、俺はただ、叫んだ。


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