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瞬間、何を考えたかと言えば、周一郎を深く抱え込めば針は俺にしか刺さらないんじゃないかと嬉しくなり、それでも俺の体を貫いてしまえばやっぱり突き刺さっちまうんじゃないかと不安になり、こんなことならもうちょっと肉を食って脂肪をつけときゃよかったと後悔し、そうだドイツ名物立ち食いソーセージを食っておきたかったと口惜しくなり、とはいえ、そんなこんなももう俺には関係がなくなるんだとがっくりし、結局俺は抜けてるんだろうと嘆息した。
何もドイツくんだりまで来て、こんな複雑な死に方をする必要なんてなかった。日本に居ても、時がくれば『ちゃんと』死ねるものを、何をわざわざこんな外国まで来て死に急いでるんだか。
が。
「どべっ!!」
瞬間、何が起こったのかわからなかった。
俺は針の山に落ちて、背中からぶっすり手痛い歓迎を受けているはずだった。ぎゃあぎゃあホラー映画まがいの叫びを上げてのたうっているはずだった。
だが、現実には周一郎の体重をプラスした重さで冷たい石の床に激突しているだけ、針の一本も刺さっていない。とっさに舌を噛みかけてひやりとする、そんな余裕まであった。
「生き……てる…?」
周一郎を抱えたまま呆然と呟く。のろのろと片手を離し、そろそろと顔を擦ってみるが、確かにこの手で触れる、しかもたいした怪我もしていないようだ。
背中にはしっかりした石の感触がある。さっきまで大口を開けて俺達を呑み込もうとしていた落とし穴は、まさに落ちる寸前、突然閉じてしまったらしい。
「は……ぁ、よかっ…! 周一郎!」
情けなくも全身がたがた震えながら息をつき、薄暗い天井めがけて感謝を呟こうとした矢先、腕の中の物体が何かを思い出した。急いで体を起こす。床に突いた掌の下にざらつくガラスの感触、ちくちくと痛みが走ったが、そんなことはどうでもいい。
「周一郎! おい?! 生きてるか?!」
くったりと力が入っていない相手の体を揺さぶると、息を吐いた周一郎がうっすら目を開けた。
「たき…さん…」
「じっとしてろと言ったろうが! 動く奴があるか!」
怒鳴りつけたのは、俺自身も怖かったからだとわかってる。けど、いいだろう、今ぐらい八つ当たりさせてくれ、俺達は絶体絶命の危機から奇跡の生還を成し遂げたのだ。ぱすぱすと少々手荒く、周一郎のパジャマと髪についたガラスの粉を払い落とす。よく見れば、周一郎には小さな傷があちこちついていて、薄く血も滲んでいる。それでも、周一郎は痛そうな顔一つしない。まるで、心がどこかに吹っ飛んでいるように無反応だ。
「だ、誰なの?!」
突然、ヒステリックな朋子の声が、碧緑の間一杯に響き渡った。
「誰が邪魔したの?!」
そうか。
俺は思わず目を見開いた。
そうだとも、朋子も俺も周一郎も、この迷路の『中』に居たのだ。迷路を動かす鎖は迷路の『外』にある。
なら、誰が一体鎖を引いたんだ?
「っ!」
ふいに腕の中で、周一郎が跳ね上がるように身を強張らせた。
「だめ…だ…っ……、マリーネ…っ」
吐くような叫びは掠れている。俺を見ている、いや、俺の方を向いているだけで、その実、俺を通り越して遠い何かを見つめている目を、俺はよく知っている。
闇を見つめる目。
ルトを通して、人の仮面の裏側を見つめている目だ、だが。
「マリーネ?」
俺は首を傾げた。
マリーネって、あの、おさげの、マリーネだよな?
「え……あ…あなた…」
朋子の怯えた声が俺の思考を断ち切った。
「何……何するのよ……いや…っ、いやあああーっ!!」
耳を覆いたくなるような切羽詰まった悲鳴、続いてどすっ、と何か重いものが落ちてどこかに引っ掛かったような音が聞こえた。ぎゅ、だかぐぅ、だか、表現し難い呻きはすぐに消え、ばしゃばしゃと水音が響き出す。
「おい…」
それが何を意味するか、ついさっきまで自分の未来に重なっていた情景に、朋子を差し替えるのはそれほど難しくなかったが、差し替えた瞬間に音をたてて全身の血の気が引いていくのがわかった。固まってしまった俺から身を起こして、周一郎がもう一度叫ぶ。
「マリーネ!!」
「にゃあん」
まさかのルトの鳴き声が意外に近い場所から返ってきた。
「マリーネって……まさか…」
朋子が陥った状況は想像できる。針の突き立つ死の空間、水道も水路もないはずのこの部屋になぜ『水音』が聞こえ出したのかも。
だが、そこに『マリーネ』が関わっていることが、どうしても、どうしても理解できない。
ゆるゆると周一郎は振り向いた。いつもは静かな落ち着きをたたえて澄んでいる瞳が、熱に浮かされ、コンクリートに零れ落ちた油のような澱みを宿してぎらついている。体はまだ熱かった。下がり切らない熱に唇を震わせながら、周一郎は呻いた。
「彼女…なんです…」
「は?」
「彼女……だった、んです…」
喘ぐ呼吸に口調が乱れた。
「何が?」
俺は呑み込めないまま尋ねた。じれったそうに周一郎が色を失って乾燥した唇を噛み、さすがに苦しくなったのか、少し目を閉じる。額に滲んだ汗が流れ落ち、瞼の色が蒼白く見えた。
「周一……!」
俺のことばは、あの、ごりごりと壁が擦れる音に消された。ぎしっ、ぎしっ、と緩慢な動きで目の前の壁が左右に割れていく。緑色の光の乱反射に混じって、青い色がのたうち、揺らめき、かき回され、しずしずと壁が開いていく。
正面に、あの小部屋があった。そこから離れたつもりだったのだが、いつの間にか、小部屋の前まで引き戻されていたらしい。
美しい貴婦人の肖像、部屋の隅に垂れ下がる鎖、そして、青緑色と碧の絡まるような色合いに輝く石の椅子に一人の少女、薄茶のおさげ髪を解きほぐして、肩に豊かに広げた娘。
「Warum?…」
ぽかんと口を開いている俺の前、周一郎が弱々しく詰る声で呼びかけた。
少女は物寂しそうな笑みを浮かべ、軽く頷く。
「Herr Asakura…」
「にゃあっ」
少女の足下に座っていた青灰色の塊が、いきなりこちらを振り返り、ぱっと身を翻して主人に元に駆け戻ってきた。周一郎の腕から体、しなやかな動きで全身擦りつけて周一郎に甘える。
そのルトにそっと片手を載せて動きを制した周一郎は、肩を支える俺の手を振り払い、よろめきながら立ち上がった。俺も慌てて立ち上がり、今にも倒れてきそうな周一郎の後ろに立つ。
「……Warum?」
再びの周一郎の問いかけに、マリーネは微かに頷き、微笑った。
その時、俺は初めてマリーネと、後ろの女城主の肖像画の驚くほどの相似に気づいた。おさげを解いて肩に薄茶の髪を波打たせたところ、こちらを見返す強い意思力をたたえた青い目なんかは、肖像画が抜け出してきたと言ってもよかった。
どうして俺は今まで気づかなかったんだろう。見比べれば、これほど全てそっくりなのに。あの子ども子どもしたおさげ髪に惑わされたのか。
「……」
マリーネが早口にドイツ語で何かを言った。
はっとしたように周一郎が前へ一歩、踏み出しかけて体をふらつかせる。その一瞬に、マリーネは椅子から立ち上がり、部屋の隅へ歩いて行って、一本だけ色の違う鎖に手をかけた。




