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「おい、朋子ちゃん!」
「こっちよ…」
信じられないほど早く、距離が開いていくのに泡を食った。慌てて走って追いつくが、朋子の歩速はとんでもなく速い。必然こちらも急ぎ足のまま、何とかまっすぐ前を見ている朋子を覗き込む。
「朋子ちゃん、今なんて」
「どうして、そんなに周一郎のことを心配するの?」
能面のように固まった無表情な顔で、前方一点を凝視したまま朋子が尋ねた。
「心配って……そりゃ、友達だから当然…」
「もっと違う心配」
「もっと違う…?」
朋子のことばがよくわからずに繰り返す。
「いや、俺はただ、あいつがいつも無茶ばかりするから気になって」
「どうして周一郎なの?」
「え?」
「滝さんの心配する相手がどうして周一郎なの?」
「どうしてって…」
朋子の速度に必死についていきながら戸惑った。
「どうしてって……そりゃ……そうなってるっていうか…そう……巡り逢ったっていうか……」
上の方にいる誰かのサイコロ遊びの結果かも知れないが。
「元々俺はあいつの『遊び相手』としてバイトしてたんだし…そっからは…なんていうか……下宿の大家…? 寄宿舎仲間……? えーとつまり……同居してる友人……って感じ……か…?」
答えながら自分でもわからなくなる。
きっと宮田に対してこういう心配をするかと聞かれたら皆無だと答えるだろう。大学の仲間やお由宇に対しても、こういう心配はしないだろう。
俺の心配はきっと、限りなく身内を案じる気持ちに近いんじゃないだろうか。きかん気で意地っ張りで強情で、頭はいいけど世間知らずで、それでも根っこのところは凄く純真で優しいことを知っている……年の離れた弟……みたいな……?
「身内は…いないからなあ……」
この気持ちが親族もしくは家族のものかどうかと聞かれてもわからない。
首を傾げながら、いつの間にか、あの代々の城主の肖像画が掲げられている前を通り、その一番端の女性にふと目を留める。
これが例の女城主か。だが、待てよ? この顔立ち、ごく最近見たことがあるような…。
「それを運命だと思う?」
朋子に問われて慌てて振り向く。彼女は相変わらずまっすぐ前を見たままだ。
「運命…? うーん…」
そうかも知れない。あの時俺が下宿を放り出されていなけりゃ、朝倉家に入ることもなかっただろう。一緒に面接を受けた山根が猫嫌いでなけりゃ、俺じゃなく山根が採用されていたかも知れない。非情な話だが、あの時、朝倉家がごたついていなければ、今もこうして俺が周一郎と関わっていたかどうか。
あの時初めて、俺は、放っておけないという感情を自覚した、のかもしれない。
「あるかもなあ……大きな出逢いってのは…なんかどっかでそうなるようになってるって気もするな…」
「じゃ、もし、その前に、あたしと巡り逢ってたなら…?」
「へ?」
朋子は先に立って湿った石段を下りていく。
「あれ? ここは…」
この石段、ひょっとして例の碧緑の間へ行く道じゃなかったか?
「おい、まさか」
周一郎はあの迷路の中にいるのか?
「ねえ、滝さん」
ゆっくり扉を開ける。重い鉄のドアが開く音に朋子の声がかき消される。
「もしそうだったら、滝さんは、周一郎よりあたしの方を心配してくれた?」
「朋子ちゃん」
中に誘い込まれる。不安を押し返しつつ、俺はそろそろと付き従う。
入って、俺は瞬きした。昨日と何だか雰囲気が違う。水の中にいるようなきららかさがなくなって。まるで深海へ沈みつつある籠の中にいるようだ。
「周一郎よりって……どういう…」
意味だ。
そう続けようとした俺は、固く虚ろな表情を浮かべて、静かに迷路を示す白い指にことばを呑んだ。
「あそこ」
ぽつりと朋子が言った。
「あの中のどこかに周一郎はいるわ」
「!」
ことばに含まれているのは嘲笑だ。はっとして朋子を振り向くと、彼女は唇の両端を軽く上げた笑みのまま、ガラス玉のような生気のない目で俺を見返し、低く嗤った。
「パジャマだけで昨日の午後からずっとここにいるの。ここ、地下でしょ? 夜は冷えるのよ、とても。肺炎ぐらい起こしてるかもね」
一言一言に含まれた毒の響きにぞっとする。
「君が……やったのか?!」
「使用人に手伝わせてね」
くすくす嗤う。
「かわいそうな周一郎。連れてった時、ちょうど熱が高かったわ」
「な…」
背中を氷塊が滑り落ちていき、胃の後ろ辺りで重く沈んだ。
朋子のどこかが崩れてしまっていた。目の前にいるのは16、7歳の娘ではなくて、その背後に重く暗い影を引きずっている何者かで、その影がついに彼女を大口を開けて呑み込んでしまった、そんな感覚があった。
脳裏を掠めたのは、この部屋を愛したという女城主。ひょっとすると昨日ここに居る間に、朋子にその亡霊でも乗り移ってしまったのか。




