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「いや、悟は」
コンコン、と周一郎は咳き込んでから、ハインツのことばを訳した。
「悟はおそらく玲奈が殺したのだろう。悟と最後に話していたのは玲奈だとわかっているし、彼女なら敏人の命令で殺すこともあり得る。敏人自身、或いは男なら、悟に近づきにくかっただろうが、玲奈なら、始めは金でカタをつけようと話しかけ、言うことをきかないと見たら隙を見て、殺すこともできるだろ……っ、こふっ」
「おい」
俺は咳き込む周一郎に向き直った。
「お前、顔色悪いぞ」
「大丈夫、ですよ」
「大丈夫じゃないって!」
周一郎の額に手を当てる。咄嗟に体を引きかけた相手にぴったりと掌をおしつけると、じんわりと、けれどはっきり温度差がわかる熱さが伝わってきた。
思わず立ち上がる。
「熱があるじゃないか!」
「滝さん、まだ事情聴取が」
「んなもん知るか! ヘル、ハインツ! エァ、えーと、エァハストフィーバー!(彼は熱があります)」
ハインツは一瞬非常に困惑した顔になった。ピラミッドの碑文を音読されたような表情で俺と周一郎を交互に眺めていたが、わずかに顔を紅潮させている周一郎の様子に気づいたのだろう、頷いて席を立ってくれた。俺は慌ただしく差し出された手を握り返すと、周一郎を引きずるように部屋から連れ出した。
「滝さん、ちょっと…」
「ちょっともくそもねえ! 苦しいなら早めに言えって言ってるだろうが! お前はマゾか!」
廊下をずんずん歩きながら、マリーネを見つける。
「おら! 先に着替えてベッドに入ってろ!」
驚いた顔のマリーネにくるりと向き直る。
「マリーネ! エァハストフィーバー! えーと、え、エァ、ケルトゥング!(風邪)」
「Ach,so!」
両手を口に当ててマリーネは重ねて驚き、急いで廊下を走り去る。
「通じたか…?」
懸念は不要だった。数分後、すぐに彼女は一人の男を連れて戻ってきた。小さな黒い鞄を下げ、きびきびとした仕草で部屋に入っていく。
「医者か!」
ほっとして俺も後から部屋に入る。
さすがにへたっていたのだろう、周一郎はぐったりした顔でベッドに座っていた。
「Was felt Ihnen?」
「Ich habe Husten…」
「Husten?」
「…ja…」
医者は周一郎を覗き込み、脈を取り、聴診器を当て診察していたが、やがてマリーネに向き直ると何かの指示を与え、急ぎ足に出て行った。周一郎を振り返る。
「なんて言った?」
「風邪らしいです。肺の音に少し問題があると。けれど、投薬するほどでもないだろうと……暖かくして」
マリーネがさえずるように周一郎に話しかける。俺は慌てて口を挟んだ。
「付き添いなら、俺がやるからって」
「はい…」
弱々しい笑みを返した周一郎は、彼女にうまく伝えてくれたようだ。マリーネがにっこり笑って、俺の手にいつの間にか準備してくれた氷枕を渡してくれた。そのまま部屋を出て行く。
「これをあてるんだな。で、後は暖かくする、それから?」
「しっかり眠って休養をとること。若いのに人生に疲れているようだと苦笑されました。食べ物はマリーネが準備してくれるそうです」
「わかった、それじゃ寝ろ」
氷枕を準備されていたタオルでくるみ、枕にのせてゆっくり周一郎が横たわるのを手伝う。
部屋の灯を消してやると、まるで入れ替わるように、周一郎がぱっちりと瞳を見開いたのがわかった。
暗闇の中、微かな光を全て吸い込もうとする、猫のような目。
「…眠る気がないな?」
「無理そうですね」
周一郎は苦笑を漏らした。
「……滝さん?」
「ん?」
「すみません」
低い声が謝って首を傾げる。
「何が」
「また、こんな事に巻き込んでしまって」
「慣れてるよ、厄介事にぶつかるのは」
どうせ俺は厄介事吸引器なんだ。
そう続けかけたが、落ち込みそうになったのでやめて、話を変える。
「……玲奈さん」
「え?」
「いや、お前……ひょっとして、玲奈さんが悟を殺したのを知ってたのか?」
ふと、空港での周一郎の態度、敏人殺害で玲奈が悟に罪を着せようとしたのだという俺の説に同意しなかった周一郎が甦ってきた。少しのためらいの後、周一郎は微かに頷いた。
「いつ?」
「空港で。あの時僕は、玲奈の向こうに本田悟の姿を見ていたんです。悟の事は知っていた………だから、あそこで騒ぎが起こった時、すぐに玲奈を疑ったんですが、本当に殺したのかどうか確証はなかったし……玲奈がどういう手を打ってくるかもわからなかった。だから………黙っていたんです」
にじみ出るような苦さがある口調だった。きっと、俺が玲奈に魅かれているのも知っていただろう、周一郎なら。
じっとベッドに横たわった顔を見つめる。
「けどさ、敏人と玲奈を殺したのが悟じゃないとしたら……誰が?」
「そう…僕は…」
コン、とまた周一郎が咳き込み、我に返る。
「……と、寝ろ、周一郎。あんまり楽しい話でもないし、今は体を治すのが先だ」
額にうっすらと浮かんだ汗を、用意されていた濡れタオルで拭ってやる。周一郎が目を閉じ、小さく呟いた。
「すみません」
「いいか、周一郎」
びたん、と濡れタオルを絞り直して額にのせる。
「次謝ったら、友達の縁を切るぞ」
「…はい」
くすりと笑った周一郎の唇は、しばらくすると静かな眠りに解けていった。




