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「……直接彼女と会ったのは、その時一回きりです。その後、海部はドイツへ半永住化したような状態になってしまったので、僕も訪ねることもなくて」
ふい、と周一郎は遠い目になった。
「それで、ドイツへその婚約者を訪ねて行こう、ってわけか?」
「そうです」
「でもさ…」
冷めたコーヒーを呑み込む。香りはまだ消え切っていない。
「どうして今頃、そんなことをする気になったんだ? 四年以上も放っといたんだろ?」
と、なぜか周一郎は少し赤くなり、席を立って背中を向けた。
「ただ……気になって……」
窓の外に広がる庭を見つめながら、呟いた。
「え?」
「いえ」
淡々とした声が、きっぱり、呟きを否定するように響く。
「実は海部運輸の動きが思わしくないので、その調査、といったところです」
「ふうん」
やっぱり仕事絡みなのか。頷いた俺を、窓辺で半身振り返った周一郎が、何か言いたげに見やってくる。
「ん?」
「滝さん……今、お忙しいでしょうか」
「お前な」
それは何か、婚約者のいる男が、デートどころか合コンの声一つかからない、春休みだってのに予定の一つもない男への、嫌みかそれとも挑戦か。忙しければ、こんなところでのんびりコーヒー片手に世間話をしてるわけはないだろが。
むっとしながら残ったコーヒーを一気に流し込む。
「忙しそうに見えるのか」
口を尖らせた俺に、なお少しためらってから、周一郎は続けた。
「……ドイツ」
「は?」
声が遠い。少し身を乗り出す。
「ドイツに」
「どいつに?」
文句を言えばいいのかってことか?
「……一緒に来ませんか?」
「へ………わっ!」
どすん!
思わぬ一言に、呆気にとられた俺は一気にソファから滑り落ちた。
「一緒に来ませんか、だぞ!」
俺は身を乗り出した。
「『あの』周一郎が、俺に、一緒に来ませんか、だぞ!」
お由宇の家の居間、相対していたお由宇は上品に眉を寄せて、俺を押し戻すまねをしながら穏やかに続けた。
「そんなに乗り出したら」
「乗り出したらどう…っ!」
どごっ。
「落ちるでしょ」
お由宇は机の下にめりこんだ俺を覗き込んだ。
「確かに、周一郎があなたを誘ったのは大きな進歩だけど」
「だろ! なっ、なっ」
もぞもぞと体を起こしながらにやにやする。ベートーベンの第九でも歌ってやろうか。覚えてもいないのに、そんな気分だった。数メートル先に天国の階段がある気がする。浮いている、完全に浮かび上がってしまっている、おまけにそれを止める気がない。
あの周一郎が。
意地っ張りと頑固と依怙地の塊が、旅行に同行して欲しいと正面から俺に頼んでくる!
「でも、私としては、その前のセリフの方が気に入ったわね」
優しく呟いたお由宇の声に感動に震えるのを一旦止めた。
「何が?」
「ただ気になって、という方」
お由宇は感慨深げにソファに身を沈めた。細めた目の奥でさざ波のような微笑が翻る。コーヒーに手を伸ばし、無地の白いカップを指で包み込む。
「そうか?」
首を傾げて思い返す。そんなに特別な台詞だったか?
「周一郎も女に興味が出て来たってことじゃないのか?」
「馬鹿ねえ」
お由宇は甘い声で俺をけなして、ゆっくりとコーヒーを含んだ。
「そっちこそ、周一郎の一大進歩じゃない」
「どこがだ?」
意味がわからず、焦れて唸る。
「今まで、周一郎ははっきり言って、あなたしか目に入ってなかったのよ?」
俺しか?
俺しかって…猪鹿蝶とは関係ないよな?
「そうね…自分の世界に初めて踏み込んで来たあなたを不思議がり、試してみて、失いたくないと思い…」
お由宇は相変わらず優しい声で続ける。
「…あなたが自分の側に居てくれるのを…信じた。……周一郎の『人』に対する関心は、いつもあなたを中心に広がっていた」
お由宇は唇を笑ませた。
「で、今やっと、他の人間が目に入ってくるようになった、ということよね」
ほ、と小さく吐息をつく。珍しい。お由宇が年相応のちょっと世間知らずな学生っぽい顔をしている。いつも舌鋒鋭く教授さえやりこめられる才媛が、何だか迷子みたいな表情だ。
「今までは生きている人間だと認めていなかった、自分の世界には意味のない人形だと思っていた周囲が、あなたの出現で不意に意味を持ち始めた、と言ってもいいかもね。その手始めが、四年以上放っておいた婚約者に会いに行くということ、かしら」
くす、と小さく笑う。
「……けれど、一人ではまだ『こわい』から、あなたについてきて欲しかった……そういうことでしょ?」
「あのな、お由宇」
相手をねめつける。
「俺にわかるように説明してくれるとありがたいんだが」
「あら」
応えないまま、お由宇は俺のカップと自分のカップを持って流しに立った。
「そうね…」
水音に混じって、お由宇の声が妙に響いて聞こえる。
「やっと『安心した』ってこと、かな」
「安心?」
何に? そう尋ねた胸の内側からふんわりと一つの声が応じる。
きっと、世界に。
自分がここに居てもいいと、少しはそう思えてきた、ってことじゃないか?
なるほど、と俺は頷いた。それなら少しはわかる。
「それで、どうするの?」
水仕事を手早く終えて戻ってくるお由宇の手には、湯気の立つ俺のカップがあった。温かで香ばしい薫り。ちょうど次のが欲しかったから、俺は喜々としてカップを受け取った。
「どうするって」
「ドイツへ行くの?」
「ああ。周一郎も言ってくれてるし」
次んところが非常に大事な部分だ。
「費用は朝倉家持ちだし、外国だぞお!」
思わず声が弾む。
「そうね、ちょうど休学中だし。留年もしたことだしね」
「うぐっ」
思わずむせて咳き込む。
そうだった。きれいに全く完全に、これ以上ないぐらいに忘れてた、俺は留年したんだった。
「お由宇…」
恨めしく睨んだところで、出席日数ぎりぎりのくせして、いつも余裕でトップクラスに居るお由宇に堪えるはずもない。涼しい顔で返される。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「ああ、気をつける」
頷きながらも肩を竦めていた。
大丈夫だろう、俺の厄介事吸引癖も、さすがにドイツまでは追いかけてはこないはずだ。