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その後も、結局夕食まで、朋子にしっかり引っ張り回され、俺はくたくたになって食事の席に着いた。既に食事を始めていた周一郎が、埃だらけの俺と朋子に一瞬目を向け、ちらりと表情を揺らせて食事に意識を戻す。
ここに来た時、それなりに賑やかだった食卓は、周一郎と警察の人間らしい男の二人が着いているだけだった。
「あ…と、どうも」
薄汚れた感じの俺に軽く眉を潜めながらも、給仕は黙々と働いてくれた。
「この人と一緒なら、あたし食べないわ。部屋へ持ってきて」
周一郎の姿を見つけるや否や、朋子は態度を硬くした。これまでも、周一郎と同席するのを好んではいなかったが、最近特に風当たりがきつい。言い捨てて振り向くこともなく、部屋を出て行ってしまう。
慌てて給仕が付き従っていく………あれ?
「日本語で通じてる?」
「簡単な指示や命令ならば、日本語でできるそうですよ」
ぽかんとする俺に、周一郎が淡々と教えてくれた。
「へえ…」
振り回されて腹が減ったのと疲れたので、とにかく目の前の料理に飛びつく。
「ところで、玲奈、さんは」
もぐもぐと口を動かす合間に尋ねると、
「事情聴取中です」
「また?」
俺はごっくんと口の中のものを呑み込んだ。
「同じ事を何度聞いたって、同じ答えしか返らないだろうに」
「警察の見解は違うようですね」
周一郎は皮肉な笑みを押し上げた。何を考えているのか、サングラスを外しているのに表情が読めない。
「あ、そう言えば、お前の客は?」
「部屋で待ってますよ」
「へ?」
きょとんとした。食べ物もしっかり腹に入ってきたし、やっと頭がまともに回転してきた感じだ。部屋で待ってるって、犬や猫じゃあるまいし、そう思った途端に気がついた。
「まさか、客って」
ばたん、と激しい音が響いた。勢いよく閉まった扉、そちらを振り向いた俺の視界に疲れた顔の玲奈が飛び込む。
「……滝さん、周一郎さん……申し訳ありません、ご一緒できなくて」
「そんなこと」
「別に結構です」
大丈夫ですよ、と労りかけた俺を、周一郎が遮るように立ち上がり、じっと玲奈を見つめる。黒い怜悧な瞳が玲奈を捉えると、なぜか彼女が目を逸らせた。
「今度も黙ったままでいるつもりですか?」
「周一郎さん!」
顔を背けたまま叫び返し、すぐさま、叫んだのを恥じるように、玲奈は緩やかに目をあげて周一郎を見返した。
「あなたって人は」
嘲るような声音だ。
「本当に『氷の貴公子』なのね。知ってるんでしょ。知ってるくせに、いつも黙っていて……大悟の時もそうだったわ。一言も言わずに、そのくせ…」
膨れ上がってくる涙の粒を堪えようとするように、軽く首を横に振った。
「そのくせ……人が追い詰められるのを見て、喜んで!」
「……僕には話せないでしょうが」
それとわかるほどの淋しい笑みに一瞬唇を歪めて、俺を見つめる周一郎の目は自嘲を浮かべている。
ほら、僕ってのはこういうふうに見えるんです。
淡々とした立ち姿に、肩を竦めてみせる周一郎が二重写しになって、そんな事ないぞ、と思わず口に出しかけた、が、一瞬早く、周一郎がことばを継いだ。
「滝さんになら、話せるのではありませんか?」
「滝…さん?」
玲奈は俺を見つめた。
「はい?」
ついのせられて、引き攣った笑みを返すと、綺麗な微笑が玲奈の唇に滲んだ。
「滝さん……本当に、信じて下さる?」
相次ぐ事情聴取で疲れ切っているのか、幼い少女のような尋ね方だ。
「え、ええ」
どぎまぎする俺を、あの茶色の瞳で見つめる玲奈に、周一郎が背中を向け無言で部屋を出て行く。それを待っていたように、玲奈が口を開いた。
「悟さんが、あんなことができたわけはないんです」
「あんなことって…」
俺はテーブルについている男をちらりと見た。だが、相手は俺と玲奈の会話を単なるラブ・シーンとしか思っていないらしく、見てみないふりをしているようだ。
「海部さんを殺したこと?」
「ええ」
「でも、あの時確かに、僕らは黒ずくめの服の男を」
「いいえ、いいえ!」
玲奈は激しく首を振った。思い詰めた表情で俺を見上げる。
「だって、悟さんは」
「悟さんは?」
「………だめ…。…滝さん、ちょっと待っていて下さい」
玲奈はふらりと俺の側を離れた。よろめくような危うい足取りで部屋を横切り、入って来たドアの外へ出て行ってしまう。取り残された俺は妙に不安な気持ちを持て余して、突っ立っているばかりだ。
一体、玲奈は何を言おうとしてるんだろう。まさか、敏人殺しを告白する、とか? いやまさか、冗談じゃない、どうして玲奈が敏人を殺さなくちゃならないんだ。朋子の話によれば、玲奈は敏人の愛人だったはずだし……そりゃ、確かに金が必要だったかも知れないけど、あんなきれいな人が人殺しをするなら、世の中の美人という美人はみんな要注意人物だってことにならないか?
ふと思い出した格言がショッキングピンクで点滅する。『綺麗な薔薇には棘がある』。ええいくそ、誰だ、こんなことばを考え出したのは。
「あうっ!!」「わ!」
突然響いた悲鳴と同時に聞こえたどさりという物音を耳にして、俺は飛び上がった。今玲奈が出て行ったばかりのドアの外から聞こえたようだ。左脚をひきずりながら走ってドアを押し開け、倒れている人物に愕然とする。
「玲奈さん!!」
栗色の髪がべっとりと血に塗れて床に散っていた。青白い、妙に安らかな横顔に鮮やかな真紅の筋……俺の後ろから飛び出して来た食堂に居たもう一人の男が、何事か叫んで俺を押しのけて玲奈に屈み込んだが、すぐに重々しく首を振った。
「そんな…」
ぼんやり顔を上げた俺の目に、廊下の曲がり角に消えようとする黒ずくめの服の男が映る。
「あーっ!!」「!!」
俺のわめき声に刑事風の男も顔を上げ、すぐに廊下を走り出した。だが、黒服の男は追手より遥かに足が速いらしく、みるみる姿を消す。
「…なんてこった」
(玲奈さんまで殺されちまった)
俺は茫然と物言わぬ骸と化した玲奈の側に立ち竦む。
「一体…どうして…」
救いを求めた視線の先に、赤く血を浴びたローレライの置物が転がっていた。