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「おい!」
沈黙。
「朋子ちゃん!」
なおも沈黙。
「何だってんだよ!」
ようよう体を起こして喚く。
何で俺がこんな所でぶっ転んで、置き去りにされねばならんのだ。
「一体俺が何をしたって……したって……」
ぶつぶつ言いつつ、足首に未だに引っ掛かっているものに手を伸ばし、それに触れた。
何だろう、細長くて固いもの……わりと軽いけど、何かこう、ぐしゃぐしゃと絡んで、あちこち繋がってるような繋がってないような、しかも布みたいなものも巻き付いてる……?
手にしたものをそろそろと引き寄せたとたん、ぱっといきなり灯が差し出され、手元のものとご対面する。
「ほねーっ!!」
真正面から見据える虚ろな眼窩、叫んだ衝撃で揺さぶられ、かくんと顎が外れて開き、しかもぶらーりと垂れた部分に何やらもぞもぞと動くものが…。
「ひえええいっ!」
絶叫して放り投げると、細く高い声が叫んだ。
「Achtung!」
同時に腕を強く引っ張られ、別方向へ倒れ込んだとたん、間近に積み上げられていたのだろうか、一気にがらがら崩れてきた箱の下敷きになるのを、かろうじてまぬがれる。
「だ、ダンケシェーン」
唯一思い出せたドイツ語、べったり尻餅をついた状態ですぐ側に突き出された顔を振り返る。
顔の両側で三つ編みのお下げが揺れている。驚きに見張った瞳が、箱と、続いて俺を上から下まで眺め、瞬きした。
「Bitte Schön.……Was fehlt Ihnen?」
「え、えっと……どうしたのか、って聞いてくれてるのかな」
ドイツ語だろうなたぶん。けれど意味がわからない。戸惑いつつ首を傾げる。周一郎でも居てくれると助かるのだが、肝心の時にはいやしねえ! わたわたしている俺を見つめていた少女は、少し考え込んでから、そっと口を開いた。
「ダイ…ジョウ……ブ…?」
お、日本語!
「あ、と、大丈夫! 大丈夫!」
急いで立ち上がろうとして、ずきりと痛んだ左脚に顔をしかめる。おい、また左脚を捻ったのか?
「っ、ったく、俺が何をしたってんだ!」
天の高みでサイコロ遊びに興じている奴を怒鳴りつける。
「?」
「あ、いや、君の事じゃない、違う違う」
きょとんと目を見張った少女に慌てて弁解しながら、ふと、相手の顔をどこかで見たような気がした。顔立ちというか、雰囲気というか、何か、うん、どこかで見た顔だぞこれは?
少女は俺の視線の意味を勘違いしたらしい。自分を指差してにっこり笑う。
「マ、リー、ネ」
ゆっくりと日本語風に発音してくれた。
「あ、ああ、君がマリーネなのか。『ローレライ』のうまい」
少女は『ローレライ』という単語だけがわかったらしい。再びにっこり笑うと、小さな声で『ローレライ』を歌い出した。澄んで透明な甘い声……と、いきなり、反対側のドアが開いた。
「滝さん!」
「?!」
軽く息を切らせた朋子が立っている。埃だらけの俺がマリーネに支えられているのを見ると、わっと泣きながら俺にしがみついてくる。
「ご、ごめんなさい、滝さん!」
「うあっ」
首に激しくしがみつかれてもう一度ひっくり返りそうになった。
「あたし、置いてけぼりにする気じゃなくて……ちょっと、腹が立って…」
泣き泣き訴えられるのに、返っておろおろした。何だって今回はこんなにあっちやこっちやで泣きつかれるんだ?
「大丈夫だったから! な! ほら、たいしたことないから!」
「だって…だって……滝さん、周一郎のこと、嬉しそうに話すんだもん……っ」
「はぁ?」
いや俺の心配じゃなくて、そこ?
どうやら、朋子は自分が嫌いな周一郎の事を、俺がへらへら楽しそうに語るのにぶち切れたらしい。いやもう、女の子というのはほんとによくわからない。
「ごめんね、ごめんなさいっ」
「ああ、もういいって、ほら」
暗闇に置き去りにはしたものの、そのうちやってくるだろうと思っていた俺がいつまでたってもやってこない、迷って引き返したりどこかへ行ってしまったんじゃないかと不安になって戻って来たのだと言う。
「こんなとこ、出よ、ね、滝さん!」
側で呆気にとられているマリーネには目もくれず、朋子は俺の腕を抱え込み、引っ張り上げ、引きずり始めた。そもそも連れ込んだのが君だろ、とか、彼女にお礼はいいのかよ、とか、俺の文句は朋子の勢いに呑み込まれてしまう。必死に振り返り、灯を掲げたマリーネに叫ぶ。
「あ、っと、あの、ダンケ・シェーン、マリーネ!」
「Bitte.」
お下げの少女は、不思議に大人びた笑みで俺達を見送った。