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バランスの取れた十分な朝食がすむと、俺は玲奈に誘われ、城の上に上がった。
周一郎は部屋で仕事があると言って来ていない。
「……と…」
吹きつけた風にジャンパーの裾がはためく。この旅行のためにわざわざ買った代物だ。
敏人が殺され、犯人が見つからないままに3日。
俺と周一郎は捜査上の足止めというやつを食らっていた。遺体は司法解剖に回され、後頭部から数回の殴打による頭蓋陥没によって絶命したことがわかった。凶器は遺体近くに転がっていた青銅製のローレライの置物で、指紋は出ていない。
犯人として怪しいのは俺と朋子が見た黒づくめの奴だが、アリバイがないという点では、城に居た誰もがほとんど同じ、ただ俺と朋子は何とかお互いにアリバイを証明できそうだ。
もっとも、どうしてあの時、俺が朋子の部屋に居て、加えて彼女にしがみつかれていたのかについては有り難迷惑な誤解があったみたいだが。
「…なさいね」
「え?」
ふいに話しかけられて玲奈を振り返る。栗色の髪が風に舞うのを片手で押さえ、俺に聞こえなかったと気づいたのだろう、玲奈はもう一度繰り返した。
「ごめんなさいね」
「何が、ですか?」
きょとんとする。今のところ、玲奈に突き飛ばされた覚えも足を引っかけられた覚えも、残念なことに色恋沙汰をしかけられた覚えもない。
「せっかくの旅行なのに……嫌な旅行になりましたね」
「え…ああ」
どう応じていいかわからないまま、頭を掻いた。出逢った時より血の気が失せた瞼の蒼白さ、うっすらと浮かぶ隈が気になる。
「玲奈さんこそ、大変でしょう、これから」
「……」
玲奈は淋しげに笑った。
「あ、そりゃもちろん、海部運輸の方は大丈夫だろうけど…、っと」
つい口を滑らせて慌てて押さえた。頬を叩かれたような顔で玲奈が俺を見返し、やがて緩やかに目を細める。
「朝倉さんから聞かれたのね?」
「あ、ええ、その、まあ」
「……悪い女だと思っていらっしゃるんでしょうね」
再び見開いた玲奈の茶色の瞳が潤んでいた。どきりとして目を逸らせる。
全く今回はどうしたって言うんだろう。出逢う女性出逢う女性が涙ぐむなんて、天変地異だ、大化の改新だ。
「今さら、どんな言い訳もしませんわ」
玲奈は眼下に広がる光景に目を向け、静かに呟いた。きれいだとしか言いようのない彫刻じみた整った顔立ちが虚ろな表情をたたえ、しばらく空を見つめて思い出に浸っている。
俺もまた、手近のざらざらした黄褐色の石に手をつき、目の前に広がる自然の絵画を眺めた。空には白い雲が水彩画のように散り、その下に柔らかく盛り上がる緑は、夏へ向かって眩く輝いている。
高台にあるレモタント・ローゼ城の頂から見下ろすと、俺達を運んできた道路は細くうねうねと曲がって緑の中に消えていく小さな流れだ。流れていく彼方にはがっしりとした建物がある。幾つか重なりあう城壁に、鋭利に天を刺す尖塔ととずどんと突き立った筒のような塔が見える。ブルク・カッツ城、ねこ城だ。
同じ方向には有名なローレライの岩があるはずだったが、乱れ重なりあう山の緑は、どれがどれやらわからなくしている。急斜面の薄灰色、灰緑色の畑、やや濃い緑のブドウ畑を辿って下へ降りた視線は、空の青さと山の緑を跳ねる水面を滑る。
ライン川は日本で考えていたよりもうんと広い川だ。ゆったりとした景色、風は微かに甘い薫りを届け、美しさに声もなく、俺はその風景に魅入られる。
「ドイツが好きですの」
風に紛れるようにアルトの声が耳に響いた。振り向くと玲奈はローレライの岩の方をうっとりと見つめている。
「人を迷わせたというローレライの伝説が息づく、ここが好きですの」
と、いきなり、そのことばを際立たせるように歌声が上がった。高く澄んだ声、俺でも知っている調べ、『ローレライ』だ。
玲奈はびくんと肩を強張らせて我に返り、じっと見つめている俺に気づいて眼下の道を指差した。
「マリーネですわ。ここで働いている者の一人ですけど、あの唄が好きで、いつも歌っているんです」
俺は、玲奈の白い指先に従って再び見下ろした。
どちらかというとやせすぎのように見える小柄な少女が、質素な服を翻らせて裏手へ歩いていく。日の光が鮮やかに茶色のおさげに跳ねている。まだ14、5歳に見える。
「……そう、伝説と言えば」
少女の姿が消えると、玲奈は唐突に明るく切り出した。さっきまでの、人生の疲れに倦んだ女性の顔は既になく、自信と気品と優雅さに満ちた、海部敏人亡き今となっては、その肩に海部運輸という事業を背負う秘書の顔になっている。
「このレモタント・ローゼ城にも伝説があるんですのよ」
雲が陽を遮ったのか、周囲は淡い光に包まれた。




