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「迷惑、かけちゃった…」
強いてにっこり笑って見せるのが痛々しい。黙っているのは慰めて欲しがっているのかも知れないが、生憎というか当然というか、俺にそんな度量はない。慌てて話題を探す。
「あ、あのっ」
朋子の足下には薄茶の猫がくるくると尻尾を彼女の足に巻き付けつつ、体をくねらせている。
「猫っ」
「猫?」
「その、猫、カッツェって言うの?」
ほらよく言うじゃないか、見知らぬ他人との間で一番無難な話題は天気とペットの話だって。
「あ、うん、そう」
朋子は笑み綻ばせた唇をすぼめ、足下にじゃれつく薄茶の小猫を抱き上げた。
「面白いでしょ、日本語で言えば『ネコ』だもの」
くすっ、と笑う。
「猫を『ネコ」って呼ぶの」
「みぃん」
カッツェは主人の頬にそうっと顔をすり寄せた。主人の悲しみを読み取ったかのような仕草に、朋子はもう一度小さく笑い、思い出す口調で言った。
「悟さんが、いつもそう笑っ…て…」
きゅっと小猫を抱き締める指が白くなった。また強張ってしまった表情、苦しそうに寄せた眉、俯いた朋子の唇が次のことばを紡ぐ。
「悟さん……手紙もくれない……きっと迎えに…来るって…言ったのに…」
自分の父親が悟らしい男に生命を狙われているのを、朋子は知っているんだろうか。知らないんだろうな、きっと。
ぽとりと、カッツェの艶やかな毛並みの上に光るものが落ちる。
「げ」
これだから一般論は嫌なんだ! 肝心なところで効きやしねえ。
「あ、あの」
泣かないでくれ。泣かれると困る。どうしたらいいだろう。目の前でもう一階派手にこけてみるか? いやもしそんなことをやって、部屋のある高価そうな絨毯や調度品を傷つけでもしたら? 笑い事にならなくなる。おい、神様、今こそ働く時だぞ、いつもいつもおかしなことばかりやってないで、たまにはちゃんと役に立ってくれ!
俺の祈りが天に通じたのか、朋子はきゅっと歯を食いしばって顔を上げ、アホの等身大模型のようにただただ突っ立っていた俺を見つめた。
「顔洗ってくる。周一郎さんの事、聞かせて」
軽く指先で濡れた目元を拭う。微笑んだ瞳は俺への気遣いに溢れている。こんなに若くても、浮かんだ表情はどこか聖母じみていて、女って言うのはたいしたもんだと思う。
「あ、ああ」
「おいで、カッツェ」
部屋を横切り、扉を出て行こうとする朋子が、何を思い出したのか、唐突に立ち止まり肩越しに振り返った。
「滝さん?」
「は?」
「滝さんって……悟さんに似ている」
「え」
「優しいところも」
「……」
絶句する俺に少々悪魔的な笑みを投げて、朋子は扉の向こうへ姿を消した。
「おい…」
女ってのは全く……。
「まいったなあ」
涙とか、その後の目線とか、付け加えられた微笑みとか、ああいうのに簡単に振り回されちまうのも何だか情けない。男ってのは仕方がない……じゃなくて、単に俺が仕方ない男なのか?
取り残され、どうも居心地悪くもじもじしていた俺は、落ち着き先を求めて部屋を見回し、朋子の机の上の写真立てに気づいた。
笑っているピンクのワンピースの朋子と、その肩に手を回している黒づくめの服の男。濃い眉、しっかりした顔立ちの浅黒い肌。背の高い少年の足下の部分に、どうやら朋子の手によるらしい『Satoru』の文字が入っている。
「さとる…」
とすると、こいつが本田悟、か。
「俺とどこが似てるんだ?」
この写真はどう見ても『精悍』とか『ワイルド』とか、そういう表現が合う男のように見えるんだが、俺のどこにそんなものがある?
女の審美感はどうもわからん、と首を傾げた途端、突然鋭い悲鳴が響いた。
「きゃあああーっ!!」
「っ?!」
今の声は。
部屋を飛び出した。左右を見回す。
「滝さーんっ!!」
(朋子?!)
再び響いた声の方向に走る。左脚を引きずってたせいで、かたつむりに加速装置を取り付けた程度だったが、歩くよりはましだろう。
「朋子さん?! どうしたんだ?!」
「滝さんっ!」
廊下の前方から声が戻り、薄闇の中から走って来た朋子が、驚く間もなく、蒼白な顔で俺にしがみついてきた。
「おとうさんが……おとうさんが!!」
「おとうさん? 海部さん?」
「おとうさんが!」
叫びながら手を背後へ伸ばす朋子の肩越し、廊下の中央に深藍のガウンを羽織った男が倒れ、その少し先の廊下を黒づくめの服の男が走って遠ざかる。朋子の叫びに引き寄せられたのか、たちまち増える足音に速度を上げ、あっという間に闇に消えていく。
(悟?!)
あちらこちらから走ってくる数人のボディガードらしき男達、やや遅れて周一郎も現れる。
「滝さん!」
「お、おう!」
立ちすくんだ俺の目に、床に倒れた男の頭部に広がった鈍い紅が映った。みるみるじんわりと体の下に広がっていく色に気づいて、周一郎が男の頭部に屈み込み、検分して顔を上げる。暗い表情で俺に向かって首を振って見せた。
「どうなさったんですか?!」
ここからだと自室が一番離れた場所のせいか、最後に玲奈が駆けつけた。色っぽいガウン姿だが、その場の状況を見て取ると、すぐにてきぱきと指示を出し始める。
「警察がまもなく来ます。城の警備を固めて下さい。出入りする者は警察が来るまで止めておくように………大丈夫でした? 滝さん、朋子さん」
気遣う玲奈の背後、周一郎は妙に静かに男の屍体に眼を落としている。その冷ややかな気配に、ぞくりとしたものが背中を走った。