プロローグ2
そうして、猫は全てを伝えてしまった。
猫と一緒に、世界の果てまで行って、”穴”を開けさせたこと。
終わりの魔女に会ったこと。
僕の右腕の未来を代償に、戦う力をもらったこと。
猫が見たこと、全部だ。
その間、僕はいじけたように、ずっと下を向いていた。
猫の話が終わると、唐突に名前を呼ばれた。
僕は、恐る恐る顔を上げる。
彼女は、上半身を限界まで捻っていた。
そして、その捻りを一思いに解き放つ。
バチン、なんて可愛いものじゃなく、ドンっと、鈍い音が僕の頬で鳴る。
思わず体制が崩れて、仰向けに戻る。
「自己犠牲で救われても、少しも嬉しくない!そんなのは、ただの自慰行為よ!!」
彼女の叫びは、勝利に沸く大勢の中で、やけに響いた。
なんだなんだと、皆が視線を向けた。
力強くビンタされてクラクラとする頭に、彼女の叱責が強く届く。
そしてさらに、何発も何発もビンタしてくる。
「自分はいいよね!悲劇の英雄を気取って!!哀愁に浸って!!自分の傷を眺めて!!昔辛いことがあったんだって、カッコつけて呟くんでしょ!!!!」
今度は、僕に頭を押し付けた。
とん、とん、と僕の胸を叩く。そして、彼女のもう片方の手は、白ばむほどに力を込めて、僕の右腕を握りしめた。
「なんで?なんでよ?なんで・・・!!なんで・・・・」
僕の右腕は、もう君の怒りを受け止めることができない。
そして、バれることは想定外だったが、後悔はしていない。
だから僕は、とりあえず謝っておく。
「ごめん。」
彼女は、僕に抱きついた。その力強さとは裏腹に、弱々しく呟く。
「謝るくらいなら、最初からやらないで。」
彼女はうつむいたまま、僕の胸を叩く。
そうこうしていると、周りに人がたくさん集まってきた。
「どうしたんだ。」
代表して、ハスクさんが難しい顔をしながら、聞いてきた。
彼女は僕を責めているように思えたが、すぐに、それは気のせいだともわかった。
いつも気難しい顔をしていて、実はとても優しい人だと知っている。
最初この世界に戸惑っていた時も。
浮かれていた時も。
訓練から逃げていた時も。
思いあがっていた時も。
抜け殻のようになっていた時も。
覚悟を決めた時も。
いつだって、彼女は一貫して、そんな凛々しい優しさで接してくれた。
僕は口ごもる。
ハスクさんは、眉間の皺を深くした。
それは、不満とかではなく、どうやったら話してくれるかと、僕達を慮ってくれているのだろう。
右耳をポリポリとかく。困ったときの癖だ。
もっとも、右耳は、ずっと昔に削ぎ落とされていて、頭の右側には、小さな穴が空いているだけ。
彼女もただ僕の胸に顔をうずめて泣いているから、どうしたものだと、ハスクさんは呟いた。
「私のせいなんですぅ。」
猫がまた喋りだした。もう隠しきれないなと、そのままにする。
そして、墓場まで持っていこうと思っていた真実は、容易く皆の知るところになった。
猫の話を聞いて、誰もが唖然としている。皆が僕を戸惑ったように見ている。
「お前は、クソだ。」
ハスクさんに、こんなことを言われたのは初めてだった。
少し驚いたが、その程度のことで揺らぐほどの覚悟じゃない。
ハスクさんも、ひとしきり僕を叱れば、満足するだろう。
僕は少しの間、反省したような顔で謝っていればいい。
大きな勝利に比べれば、僕の存在なんて、誤差みたいなものだ。
それに、もう一つの”契約”のこともある。
「だが、君にそんな手段を取らせてしまった私たちは、もっと救いようがないクソだ。」
ズシンと、頭を殴られたような衝撃を感じた。
なぜだ?と思った。なんでそういう発想になるのか、と。
お前は馬鹿だ。とか、皆に相談しろ。とか、そういうことを言われると思っていたから。
「君が傷つけば、私たちも同じだけ傷つくことを理解してほしい。君が自分の腕を犠牲にするということは、私たち全員の腕を犠牲にするに等しいんだよ。」
ハスクさんは膝まづくと、僕の手を取り、その綺麗な顔に押し付けた。
辛そうな、泣きそうな、悔しそうな顔をしている。
見回すと、誰もが同じような表情をしていた。
もう騒いでいる人はいない。
皆、本当に、僕のことを想ってくれていることに気づいた。
僕は、どうしようもない子供だ。
少し頑張ったくらいで、大人になった気でいた。
僕は今度は、心の一番奥から、謝った。
それには、馬鹿なことをしてごめん、という意味と、もう一つの”契約”のことを言えなくてごめん、という意味を込めた。
「ごめんなさい。」
彼女は泣いていた。
笑顔が見たかったのに、僕はまた空回りだ。
見上げる空の青さにすら責められているようで、いたたまれない。
彼女のため、皆のためと自分に言い聞かせながら、僕は他人のことを微塵も考えていなかった。
だから彼女は泣いている。
本当は、ただ恰好つけたかっただけなんだろうか。
しかも、その結果、たくさんの人を悲しませてしまった。
涙があふれてきた。次から次へと、止まらない。
顔をめいいっぱい崩して、赤ん坊のようにわんわんと泣いた。
そして、こんな状況でも、こんな状況だからこそ、僕はもう一つの”契約”のことを話すわけにはいかないなと思った。
どこか冷めた部分を持っている自分に、吐き気がする。
後悔と、自己嫌悪に挟まれて、僕はまた泣いた。
彼女も泣いた。
ハスクさんも、トカニさんも、皆泣いた。
世界を救ったというのに、まるで葬式だ。
ひとしきり泣いた後、猫が涙でぐちゃぐちゃになった顔で、僕に言った。
「すみません。間が悪いですが、実は、今すぐに元の世界に帰らないと、次帰れるのは98年後です。」
驚きはしなかった。
僕が頼んだことだし、時間も決まっていたことだったから。
僕は、すんなりと受け入れて、ぎこちなく立ち上がる。
彼女も手を貸してくれた。
「いくの?」
分かり切ったことを、それでも彼女は聞いた。
「うん。」
僕も、わかりきったことを、しっかりと言葉にした。
「やらなきゃいけないことがあるんだ。」
元の世界の記憶は、ほとんどない。
僕がどこか別の世界から来たこと。
そこに誰かを置いてきたこと。
そしてその誰かは、昔の僕みたいに一人だったこと。
三つだけ覚えていた。
それでも、その誰かに、僕は寄り添いたいと強く思っている。
それは家族か、友達か、恋人か。
それすら覚えていないけど、なぜだか、その人の孤独を分かち合いたいと思った。
そう思えた。
「あなたが好き。」
彼女が唐突に告白してきた。
僕は照れてしまって、顔を背けそうになった。
けれど、もう会えないと思うと、一瞬でも彼女の顔を見ていたくて、なんとかこらえる。僕もまた、真っすぐに答える。
「君が好きだ。」
今度は彼女が照れる番で、顔を真っ赤にしていた。
たまらず、彼女を抱きしめる。
僕は左腕しか動かなかったから、二倍強く力を込めた。
彼女も、強く強く抱きしめ返してきた。
そして、僕の胸の中で呟く。
「お母さまが言ってた。女を待たせる男は、悪い男だって。そして、本当に最低な男は、その会えない時間すら、愛おしく思えるんだって。」
ここで、僕のことは忘れて幸せになってくれ。なんて言えるほど、大人じゃない。
みっともないことに、本音を言った。
「もう会えないけれど、僕のことを待っていてほしい。」
僕を抱く力が、より一層強くなった。
「最低よ。」
僕はただ、うん、と返した。
でも謝らなかった。
「じゃあ、一生私のことだけ愛するって誓って。」
彼女は、顔を上げて僕を見た。
少し不安げな表情をしている。
「僕は死ぬまで、君だけを愛すると誓う。」
彼女の目から一瞬も目を離すことなく、強く言った。
すぐさま彼女も、僕の誓いに答えた。
「私も、あなただけを愛すると誓う。何回生まれ変わっても、どの世界に生まれても、この気持ちを忘れない。」
そして、腕の力を抜いて、目を閉じた。
僕も腕を解いて、今度はその腕を彼女の頭の後ろに回す。
目を薄く閉じて、首を少し傾けて、顔を近づけていく。
そっと、キスをした。
彼女の唇は火傷しそうなほど熱くて、崩れてしまいそうなほど繊細で、それでいて弾力があった。
一生離したくないと思った。
僕は、本当にそうしてしまう前に、顔を離す。
2秒くらいだったけれど、なによりも幸せな時間だった。
「ヒューヒュー。熱いねえ。」
突然、下品なヤジが飛んでくる。
睨むように振り向くと、キハンさんだった。
彼がそんなヤジを飛ばすことにびっくりして、少し沸いた苛立ちはどこかにかき消えた。
彼は責任感が強く、生真面目で、それでいて優しかった。
全く、僕の周りには優しい人しかいない。
彼が普段言わないようなことを言ったのは、全部終わって気が緩んだのかもしれないし、もしかすると、そっちが本当の性格なのかもしれない。
皆、僕の知らない面をまだまだ持っているんだろうと思うと、もっとよく話してみたいと欲が出る。
そして、冷静に周りを見てみると、全員で僕ら二人を囲んで、ニヤニヤとしている。
今までのやり取りを、全て聞かれていたことに気づいた。
余りの恥ずかしさに、僕はうつむく。
彼女は一足先に、うつむいていた。
「顔を上げてくれ。」
キリっとしたいつものキハンさんの声だったから、僕は嫌々ながらそっと顔を上げる。
いつも以上に真面目な顔をしていて驚いた。
「我々の世界を救ってくれてありがとう。この感謝は、およそ伝えきれない。」
僕は、自分の情けなさにウンザリしていたところだったから、なんて答えたらいいか、わからなかった。
結局、口をパクパクさせているだけの僕を気遣うように、キハンさんはそっと微笑んだあと、突如叫んだ。
「敬礼!」
周りにいた全員が、迷うことなく、僕らに向って敬礼をした。
軍人も、軍人でなくとも、全員が、だ。
「色々と思うことはあるだろう。しかし、重要なのは、君のおかげで、我々が救われたということだ。そして、我々は君に感謝している。今のこの光景が、それを証明していると思わないか。」
嬉しかった。
それでも、手放しで喜べるほど、ここにたどり着くまでの道のりは、良いものじゃなかった。
「僕は、何回も間違えて、最低なこともしたし、言いました。むしろ僕の方が、助けてもらいました。」
僕は、皆に向って頭を下げた。
ありがとうございました。
すみませんでした。
「頭を上げろ。人は間違う。自分を蔑むな。君の行動は、誰にでもできることじゃない。お前は誇るべき人間だと、俺が保証しよう。」
それでも納得できずに何か言おうとするのを、キハンさんは手のひらを僕に向けて制した。
「難しく考えるな。じゃあこうしよう。俺がありがとう、と言う。そしたら、お前は、どういたしまして、と言うんだ。」
キハンさんは、僕の返事も待たずに、ありがとう、と言った。
僕がどうしようか決めあぐねていると、周りの皆も一斉に、ありがとう、と言い始めた。途切れることのない、ありがとう、に僕は胸が熱くなった。
「どういたしまして!!」
僕は皆に負けないように、大きな声で叫んだ。
皆のありがとうは、まだ止みそうにない。
「すみません。もう本当に間に合わないので、儀式始めますねぇ。」
猫が割り込んで来た。
こっちに来た頃の僕だったら、空気読めと怒るところだったが、もうそんなことはしない。
尻尾を使って、イソイソと何やら地面に書き始めた猫に、話しかけた。
「猫。ありがとう。君は、他人を不幸にしてしまうことを憂いているようだけど、心配しなくていいよ。僕は今、とっても幸せだ。」
猫は尻尾をピタッと止めて、はっとした顔で僕を見た。
「そんなこと言われたの初めてですぅ。こちらこそ今までありがとうございますぅ。」
猫は、にやけながら作業を再開した。
僕はただ、それを眺める。一分としないうちに、猫の作業は終わった。
僕を中心に、様々な記号が、まばらに散って描かれている。
それらは、不規則的なのか規則的なのかすら、わからない。
「もう一秒も待てないので、すぐに飛ばしますねぇ。」
猫が、何やら踏ん張ったかと思うと、地面の記号が光りだした。
あと数秒後には、ここからいなくなる。
それが確信できた。
なんとも味気なく、急ぎ足の別れだ。
「さようなら。愛しているわ。」
彼女は、記号が書かれていないギリギリに立って、泣きそうな顔で言う。
「そんな泣きそうな顔しないで。最後ぐらい、笑った君を見ていたい。」
僕は、精一杯カッコをつけた。
「あなただって泣いているじゃない。」
涙は止まらなかったけれど、何とか笑って、一番伝えたいことを伝える。
「愛してる。」
彼女も涙を拭いて、もう一度言った。
「愛しているわ。」
彼女は最後に、春のように笑った。
そして、強烈な光と共に、意識が途絶えた。