死んだ筈の掃除屋
―――人生とは、得てして理不尽なものである。
ぎしぎしと耳障りな音を響かせながら、軋む板の上でそう思う。
茜色が紫紺の闇に染まり始める頃、僕は樹々の覆い茂る森の中、大勢の人間に囲まれて移動「させられて」いた。身体は乗せられた板に幾重もの荒縄で縛り付けられていて、動かせるところといえば眼球のみだ。口元は決して清潔とは言えない布きれを噛まされていて、そのせいで少し息苦しい。別にもう叫んだりしないのにな、と考えていると、僕を取り囲む人間の中でも一際老齢の男がしわがれた声で僕に向かって呟いた。
「すまんの・・・これは初めから決まっていた事だからの」
降り始めの雨の様にぽつりと零された言葉が僕の意識を通り抜けていく。
言葉の意味を理解している筈なのに、何の恐怖も湧いてこないのは既に絶望が諦めへと変化しているからだ。
――――どうして、こうなったんだろう。
移り変わる景色を目端で捉えながら、僕は今に至るまでの経緯を思い浮かべた。
◆◇◆
「リード!薪割りは終わったのかい!?」
微睡んでいた思考の外側から、甲高い声が僕の名を呼ぶ。それに対し面倒さを覚えながらも、瞑っていた瞼を無理矢理押し上げる。寝て居たのがばれたら余計に面倒な事になるのは判っているので、慌てて身体を起こし返事を返す。
「ごめん、後少しだから父さんが帰るまでには終わらせるよ!」
少しの誤魔化しを含んだ返答を返しながら、足元に放り投げていた手斧を手に取り、作業に戻った。
僕の家は決して裕福とは言えない。父は杣人(そまうど:樹木を伐採する木こり)だし、母親は街の道具屋で下働きをしている。僕も勉強よりこうやって駆り出される事のほうが多いくらいの生活だ。父親の職業柄、森に近い方が作業がしやすい為、町はずれに住んでいる。静かではあるが、その分不便なことも多い。
僕の家の周囲はぐるりと森に囲まれている。視界に映るのは冴えわたるほどの新緑だ。
頬に当たる風が、芽吹いたばかりの新しい緑の香りを運んでくる。心地よい微風が吹くこんな日は、身体を動かすのも悪くない。
・・・寝るにはもっと良いけれど。
切株の上に置いた薪を、手斧を振り下ろし叩き割る。小さな頃はこの薪一つ割るのにも四苦八苦していたけど、十歳を迎えた今となっては手慣れたものだ。
かといって、僕も父の様に杣人になりたいかと問われればそうではない。嫌と言うわけでは無いが、このまま父の跡を継いだところで町はずれに暮らすこの生活から抜け出せるとは思えないからだ。それならば、僕はまだ夢を見られる職に就く事を望んでいた。
それは掃除屋と呼ばれるなんでも屋である。名前の響きこそ粗野に聞こえるが、僕みたいに日々の暮らしに余裕の無いものや、一家の家長となれなかった長子以外の者などがこの職には就きやすい。
掃除屋はその名の通り『掃除』に関わる仕事が多い為危険も伴うが、その分一攫千金を狙い易いからだ。
かつて母の勤める道具屋で英雄譚を綴った古ぼけた本を目にした事があった。茶色く変色した羊皮紙に描かれていたのは、巨大な龍に身の丈程の大剣を突き刺した、独りの掃除屋。顔は描かれておらず、龍と正面から立ち向かう後ろ姿だけが描かれていた。
割れた薪を所定の位置に積み上げてから、手にした斧に視線を落とす。僕もいつかはこの手斧では無く、描かれていた掃除屋が扱っていた様な、大きな一振りの剣を手に生きていきたいと考えていた。
「おぅ、今帰ったぞーっ」
家の表口から、聞きなれた声が軽快に響いた事で、僕の思考が中断される。僕は手斧を切り株に突き立ててから、声のした方へと向かった。
「おぉ、リード、薪割りしてくれてたのか。終わったか?」
「父さんお帰り。今終わったところだよ」
本当は母さんに言い付けられた量とは全然という所だったが、後でこなせばいいかと考えてとりあえずの返答を返しておいた。すると父さんは無精ひげの上にある大きな口で弧を描きながら豪快に笑った。杣人の仕事で焼けた肌に笑い皺が深く刻まれる。服と同じ緑のバンダナで巻かれた髪は仕事上りのせいかごわついている風に見えた。
僕達の住むテュルトス村では、杣人は緑の服を着る事が義務付けられている。その理由はひと目で村人に判り易く、家の修繕や家具造りなどを頼まれやすい杣人と他の職人との区別がつきやすいからだそうだ。
昔僕は年がら年中同じ色の服を着るのに飽きて、一度自分で勝手に服を染め直して着た事があった。けれど家から出る直前、父さんに見つかってしまいかつてないほどの勢いで怒られたのだ。それ以降、僕は服の色に拘るのはやめた。
そんな今となっては懐かしい出来事をふと思い返しながら、父さんの緑のバンダナに視線をやっている時だった。
「出来た息子にちょっとした頼み事だ。引き受けてくれるか」
「頼み事?うん、いいよ」
笑顔のままの父さんが、そのままの顔をして僕に言った。緩やかに細められた目は優し気で、暖かみさえ感じるけれど、しかし上がった口端には有無を言わさぬ空気を含んでいた。
こういう時の父さんは大抵やっかい事を持ってくる事を、僕は知っている。
「悪ぃんだけどよ、俺の革の道具ベルトあるだろ?あれが千切れかけてんだ。リードお前道具屋の親父んとこ行って、修理頼んできてくれねえか?」
「わかったよ。じゃあ僕母さんに一声かけてくるね」
「おう、頼んだぞ」
よしよし、とでも言いたげな父さんの笑顔に見送られて、僕は母さんが作業している炊事場へと足を運んだ。父さんと僕と同じ草木で染めた緑色の簡素なワンピースドレスを来た母さんの背中が、ぐつぐつと湧き立つ鍋の前にあった。漂う香りからするに、今夜も昨日と同じく芋のシチューらしい。
連日続いているメニューに少しだけうんざりしながら、要件を伝える為その背中へ控えめに声をかける。吃驚させると危ないからだ。
「母さん」
「おや、リードどうしたんだい?」
「父さんから頼み事されたんだ。道具屋の親父さんの所に、父さんの道具ベルト持って行く様にって」
僕の方へ振り向いた母さんが、父さんと同じくらい皺の刻まれた顔を綻ばせる。先程の父さんと同じくらい温かく優しい表情は、時々僕をほっとさせてくれた。たまに、さっきみたいに厳しい時もあるけれど。
母さんは鍋をかき交ぜていたお玉を片手に、つと考えるそぶりを見せた。そして、母さんの後方、僕からすれば左前方にある木製の机へと視線を投げる。
「そうかい。なら気を付けて行っておいで。ついでにあの机の上にあるやつも持っていっておくれよ。父さんが採ってきたばかりの木苺さ。道具屋の親父さんの好物だからね」
「うんわかった。じゃあ行ってくるね」
僕は母さんに言われた通り、机の上にあった中くらいの籠を持ち、次に作業台の上にあった父さんの道具ベルトを持って、軽い足取りで家を後にした。
―――その後待ち受けている運命など、露ほども気づかずに。