第1章 1‐1.発端
自分が高所から飛び降りる感覚と共に目が覚めた。身体中の汗が酷い。悪い夢でも見ていたのだろうか、と思いながら額の汗を拭った。その年齢にそぐわない、星のように真っ白な髪をくしゃりと撫でる。そして息を浅く、しかし勢いよく吸い込み吐き、段々と呼吸を整えていくうちに脳内で現状把握が急速に行われる。ここはCIA本部の会議室で、自分が集合時間を間違えたばっかりにここで昼寝する羽目になったことも、すぐに思い出した。
「おはよう、トビアス」
その会議室の前方、ちょうど映写機の近くから、ひょっこりと男が出てきた。無造作に纏められた茶髪、年齢の割に幼く見られがちな顔、その大きな目に不似合いな丸眼鏡。オズワルド・グルーバーは昔から変わってない。変わったのは背丈だけだ、と言うとこいつは怒るだろうから絶対言わないけど。
トビアス・レックスのそんな考えなどつゆ知らず、オズワルドは続けた。
「時間ピッタリだ、今起こそうと思ってたんだけどね。もうみんな集まったよ」
「ああ、おはよう、オズ」トビアスは居住まいを正しつつ返答する。すると、
「まったく、こっちは慣れない映像機器の準備やらなんやらで忙しいってのに」これまた前方の、今度はテーブルに阻まれて見えない所から別の声がぼやいているのが聞こえた。「ボスの方がここの機器に詳しいんでしょ?無理やりにでも起こせばよかったよ!」
「黙りな、アンドレイ」と静かな凛とした声が後ろから一蹴した。「あんた、いつからボスを起こせるほど偉くなったの?文句言ってる暇があったら手を動かしな」
ぶつくさ言う声は(完全にではないが)小さくなった。後ろを振り向かなくても、声の主はエリカ・メディックだと分かる。彼女に逆らえないのは、なにもアンドレイ・ハンドラーだけでなく、若いメンバーは全員彼女に頭が上がらないらしい。
しかし、寝ていたのは紛れもなくトビアス自身だし、流石に気の毒になったので「すまないアンドレイ。気が緩んでいたみたいだ」と、立ち上がって謝罪しておく。
「気にすんなよ、ボス」
右側前方に座っていたグエン・グレネーダーがニッと口角を上げる。やや褐色の頬を人差し指で掻きながら続けた。「誰だって眠たくなるときくらいあるさ。それに文句言うのなんてアンドレちゃんくらいだぜ?」
そう言って彼はアンドレイに顔を向け、おどけたように目を見開きながら舌を出した。アンドレイは不快そうに眉を顰めたが、何も言い返さなかった。
何か言い返せばいいのに。とトビアスは思ったが勿論口には出さない。
「まぁ、そう言ってやるなよ、あいつも頑張ってるんだからな」と、グエンを嗜めたのは彼のすぐ近くのテーブルに腰かけていたシーザー・ライオットだった。身長が2メートルにまで達している彼だが、普段の物腰は驚くほど柔らかく、チームのよき緩衝材となってくれている。今の発言も、1人で試行錯誤している彼を気遣ってのことだろう。
アンドレイはというと、グエンから目を離して、
「…別にいいよ。僕も大人げないこと言ってごめん、ボス」
と、謝罪の言葉を返した。それを見た皆の表情が緩んでいくのが分かった。
ともすれば固くなりがちな作戦会議だが、この一連の流れで皆の雰囲気が穏やかになったような気がした。無駄な緊張はほぐしておくに越したことはない。
眠りこけてて正解だったかもな。
トビアスが胸を撫で下ろしていたとき、会議室の扉が勢いよく開かれ、軍服の外套に身を包み、松葉杖をついている義足の男と、ファイル文書らしきものを抱えた女性が入ってきた。その瞬間、部屋にいるメンバー達の顔が険しくなった。男はこちらを一瞥することもなく無表情で、
「揃っているか?それは結構」
とだけ言い、ツカツカと室内の最前席に向かって歩き、無遠慮に座り込んだ。クソおやじが。せっかくいい空気になってたのに、とトビアスは内心毒づく。このいけ好かない義足男の名前はリカルド・トーレス。この組織の最高司令官ではあるが、基本的に任務説明と任務終了報告の時にしか顔を出さないので隊員達からはあまり尊敬されていない。だが、それとは別に、トビアスはリカルドに対しては、他のメンバーとは違う事情から彼を大いに嫌っていた。
「遅れてごめんなさい。今回の資料をかき集めてて…」
リカルドと一緒に入ってきた女性、カヤ・スヴェルチェフスカが、開口一番に謝罪の言葉を述べる。亜麻色の髪のサイドテールを小さく揺らしながら息を吐き、ちらりと時計を見て目を見開いた。「大変!もうこんな時間。早速始めましょう、準備はいい?オズ」
「万全さ」とオズワルドは短く答えた。「ありがとうアンドレイ。戻ってくれ」
アンドレイは小さく頷き、自らの席に着いた。それを見たカヤは、映写機の近くにある椅子に座り、コンピューターを操作し始めた。オズワルドは大仰な素振りでこちらを振り向く。
まるで舞台演劇の役者だな、とトビアスは思った。オズワルドは説明を始めた。
「今から約7時間前、CIA所属の研究施設からの定時連絡が突如として途絶えた。場所はスペリオル湖湖岸」
カヤがキーボードを打ち込むと、北米大陸の衛星画像がスクリーンに大きく映し出され、徐々に拡大していく。そしてアメリカ五大湖の1つ、スペリオル湖が大きく表示され、その南側の湖岸に行き着いた。すると確かに、湖岸に小さな建物が確認できた。
「衛星画像からは異変は見つからなかったが、定時連絡が途絶えるなんて異常事態は今まで無かったそうだ」
「どうして?」とエリカが疑問を口にする。「どんな機械も故障はするものじゃない?」
「この施設では同じ最新鋭の通信機器が3台設置されているそうだ。それらを交代で使っていくらしいから、全て同時に故障したというのは現実的じゃないだろう」オズワルドが横髪を無造作にいじりながら答える。まだぬいぐるみを抱えていた頃からの彼の癖なのは知っているが、トビアスはその癖が女々しく見えてしまうので、どうも好きになれない。それを注意する度にカヤが「別にいいじゃない、トビアスが気にし過ぎなだけよ」と、とりなしてしまうので、結局その癖が直ることはなかったのだが。
彼は説明を続けた。
「あと、停電の可能性も低い。非常時には予備電源が作動し、緊急事態を知らせるメッセージが自動的に発信される仕組みになっている。当然、そのメッセージはこちらでは確認されていない。上層部は事態を重く見ているようだ」
「えーっと、つまり?誰かが施設を乗っ取って、通信機器を全部ぶち壊した挙句、故意に電源を予備ごとダウンさせたってことか?」今度はグエンが口を挟んできた。
ん?と言うことは…そうか。
トビアスにも、他のメンバーにも分かってきた。オズワルドの言わんとしていることが、である。
「そう、その通りだよ、グエン!その誰かさん達は機密事項である通信機器のことも、予備電源のことも知っていたんだよ。でなければこの施設の占領は不可能だ」オズワルドは興奮気味にまくしたてる。「しかも、だ。施設に勤めている職員は個人の携帯やPCを持ち込めない規則なんだそうだ。そんなことまで知っている奴らにしか出来ないことなんだよ」
理屈は分かる。例え機器を全て破壊しても、職員の一人にでも外部と連絡を取り合われたら計画はおじゃんだ。職員の誰一人として、外部との連絡手段を持っていないと知っている者の手段であるということに他ならない。
「で、その施設を占拠した〝誰かさん〟の目星はついてるのか?」とシーザーがややうんざりした顔をした。それを聞いたオズワルドはニヤリと笑った。
「実は、本部でも監視出来る様に常に施設内の様子は録音・録画されているんだ。そしてそれらは自動的にこちらに送られてくる。残念ながら、当日の映像データは全て破損された状態で送られてきたんだけど、音声の方は無事だったってわけさ」
そこで彼は一呼吸置いてから「カヤ」と彼女に声をかける。カヤも無言で頷き、やや大きめのUSBメモリを差し込み、再びキーボードを叩いた。
「これは最後に送られてきたデータだ」オズワルドが声を落とす。「こいつらが施設を占拠した主犯と思われる」
スクリーンが真っ暗になり、音声ファイルの再生が始まった。
『全エリアの制圧は完了した』低く静かだがよく響く声が聞こえた。『だがまだやるべきことが山ほどある。ルート!』
『『おう』』答えたのは二人のようだった。『どちらかが答えればいい。お前達は試験エリアに向かって武器を持って来い。銃は多くても困ることはないからな。分かったか?』
『了解、ギラ』さっきの片割れが返事をする。
『頼むぞ』ギラと呼ばれた男はすかさず指示を出す。『ハック!』
『ああ』今度は電子音声じみた声だ。
『変電室に行って電源の出力調整をしてくれ。ただし、くれぐれも無茶をしてくれるなよ?しくじって部屋ごと吹っ飛ばしたりするとかごめんだからな』
『分かってる』
『ならいいが。ラケス!』
『はい』か細い、どことなく神経質そうな声が流れる。
『言わなくても分かるだろうが、サーバールームに向かえ。あとはいいな?』
『分かっています、ギラ』緊張のせいか、語尾が震えていた。
『任せたぞ。テトロ!』
『はいよ』けだるげな声だった。
『死体安置室で使えそうな死体を探せ。あったらその場で起こしてしまって構わない』
『…ん、了解』
『さぁ、始めるぞ!…な』
と、それを最後にひどい雑音が響き渡った。そして音声の再生は終了された。
死体を起こす。
常人が聞いたら耳を疑うだろうし、それがごくごく普通の、模範的な反応だと言える。ゾンビ映画じゃあるまいし、死んだ人間を起こせる者なぞ有史以来、キリスト以外例がない。だがトビアスは、彼らは、そんな異常なワードに何の反応も示すことはなかった。驚くにはいささか事情を知り過ぎていたのだ。
「皆が思っている通り、こいつらはGIFTを所有している可能性がある。だから私達が招集されたの」カヤが全員の思っていることを代弁してくれた。
GIFT。正式名称は『遺伝上の特異体質及び脅威的才能(Genetic Idiosyncrasy and Formidable Talents)』。オカルティックに言えば、〝超能力〟である。その存在は、長年にわたって各国の軍隊が研究していると言われている。第二次世界大戦で敗北したナチス・ドイツは、大真面目にその手の実験を試みていたし、冷戦時代の旧ソビエト連邦では、その力を軍事利用するための組織が存在していたらしい。と言っても、電子化、デジタル化が進んだ現在ではそんな話をするのは一部のオカルト好きや馬鹿を釣り上げる詐欺師くらいになったのだけれど。だが、それはおとぎ話だけの存在ではないことを、トビアス達はよく知っている。
「この際だから言うが、今回占拠された施設は、そのGIFTを持つ人間〝レシピエント〟を人工的に作り上げるためのものだった」リカルドがこちらを見ないまま声を低くして言う。
「だから我々にこの任務が命じられたというわけだ。当然だが人体実験や、増してや人間の人工交配などこの国ではタブー中のタブー、にも関わらずCIAは約30年もの間、非人道的な実験を繰り返していた。施設を占拠している犯行グループがこの施設をよく知っていて、しかもレシピエントである可能性もあると来たもんだ。お偉いさん方はこの事件を身内で処理したいと思っている。国防総省に知られたとあっては余計に面倒だからな」
なるほど、とトビアスは得心が行った。CIAは自分の大スキャンダルが世間様に明るみになる前に、仲間内で解決しようという腹積もりか。
「で、俺たちが選ばれたってことか。確かに非正規の部隊に任せた方がリスクも少なくて済むのかもしれない」トビアスは思ったままを口にする。「だが、いい加減次の段階へ進むべきじゃないか?非正規だと何もかもが不自由過ぎる。そろそろ上の連中も俺達のことを認めてくれてもいいだろうに」
彼らが、せこせこと上層部の命じられるまま、様々な任務を言い渡され、こき使われ続けてからもう2年になる。濡れ仕事も結構だが、そろそろ結成当初の目的でもある正規の特殊部隊としての仕事をしたい。何も彼だけでなく、部隊に在籍している、この場にいない者も含めた15名のメンバー全員がそう思っていた。
「ああ、そのことなんだが」とリカルドは今思い出したかの如く口を開く。
「この任務が成功すれば俺達は正式にCIAの特殊部隊として組織される。CIA初の、GIFTに関わるあらゆる任務に就く機動部隊〝INCUR NOISE〟としてな」