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短編まとめ

バレンタインの贈り物

作者: 萩尾雅縁

 ビル・ギャレットは、時々立ち止まり息を継ぎながら、古ぼけたフラットの三階にある我が家へ、重たい脚を引きずるようにして狭い階段を登っていた。カチャカチャと、寒さでかじかんだ骨ばった指先で鍵を開ける。

 灯りをつけ、二十年来住んでいるこの寒々とした四角い箱の中に戻ると、まずセントラルヒーティングのスイッチを入れる。次に、カップに水を注ぎ、電子レンジに入れて湯を沸かす。

 ビルの家には、キッチンはない。小さな洗面台で全てを賄う。部屋の隅の床に置かれた電子レンジが、この部屋のキッチンだ。スイッチ一つで、ビルに温かな飲み物を提供してくれる。


 チン、音と共に扉を開け、温まったカップに紅茶のティーバッグを入れた。二、三度揺すり、色を出してからカップを両手で持ち直し、冷え切った指先を温める。


 ビルは床に座り込んで、セントラルヒーティングに張り付くようにして暖を取り、紅茶を飲んだ。 

 部屋が暖まるには、まだもう少し時間が掛かる。だが、紅茶と、こののんびりと作動する金属製の蛇腹のお陰で、先程までよりは、冷え切っていた身体は暖まっていた。

 ほっと吐息をついて立ち上がり、簡素な机の上のデスクトップパソコンの電源を入れた。



 ビルは五十九歳。自営業。フリーのウェイブデザイナーだ。独身、結婚歴なし。半年ほど前に、日本語の勉強を始めた。

 どうしてそんなことを思いついたのかは、もう忘れてしまった。幾人か、日本人の友人がいたからだろうか? だが彼らの殆どは、もう日本に帰国してしまった。唯一ロンドンに残る友人の一郎さんは、日本人学校の先生だが、いつも忙しく、数カ月に一度会うのが精一杯だ。

 もっと日本語の勉強がしたい、日本の文化が知りたい、そう思ってペンパルサイトに登録したが、五十九歳という、友人にするのには少し年齢を取り過ぎているビルにメッセージをくれる日本人は稀だった。

 やっとメール交換が始まっても、ビルが決して裕福ではなく、小さなキッチンも、ベッドも、碌な家具すらない部屋で暮らしていることを告げると、返事がぱったりと来なくなった。ロンドンにあるビルの部屋を、海外旅行中の宿替わりにでもしようと目論んでいたのだろうか?


 この年齢で、新しい友人を持つことは、もう無理なのだろうか……。


 殆ど諦めかけていた時、古都音ことねさんに出会った。

 ペンパルサイトには、ロンドンで日本語会話の勉強が出来る人を募集、と書いたのに、古都音さんは日本からメッセージをくれた。ビルの下手くそな日本語で書いた返事に、丁寧な添削をつけて返してくれた。英国の文化を尋ねるのと同時に、今までビルが全く知らなかった日本の文化を紹介してくれた。そして、メールにはいつも、ビルの興味を掻き立てるような、写真やリンクが添えられていた。


 二、三日に一度届く彼女からのメールが、ビルの毎日の楽しみになった。ビルがお化けの話が好きだというと、彼女は、「ゲゲゲの鬼太郎」を教えてくれた。ビルは週末に、動画サイトでその映画を見た。古都音さんが教えてくれたアニメのリンクは見つからなかったが、代わりにこれを見つけたからだ。ビルは、大いにそれを楽しんだ。また、ビルが小津安二郎や黒澤明が好きだと告げると、溝口健二の「雨月物語」を薦めてくれた。それは、本当に素晴らしかった。

 そして時に、彼女はシェイクスピアについて尋ね、英国の詩人について尋ねた。ビルは美術学校を卒業後、数年間教職についていたし、両親が二人とも教師だったので、喜んでその質問に応えることができた。ビルの父親は韻文詩が好きで、幼いビルを連れて川ベリを散歩する際、いつも幾つもの詩を暗唱していた。ビルは今はもういない父の事も、父の口ずさんでいた美しい詩の数々も大好きだった。そのせいか、ビルには今でも、風呂の中で詩を暗唱する癖があった。

 だが、多くの英国人はシェイクスピアを読まないし、聖書はさらに読まないと告げると、古都音さんはとてもがっかりしていた。


「あ、古都音さんだ。」

 メールボックスの中に、古都音さんの名前を見つけた。いつもよりも、速いペースでの返信だった。

 古都音さんは、主婦だという。けれど、メールが届くのはいつも夕方。時差を考えると、彼女は夜中の三時や四時にメールを書いてくれていることになる。

 ちゃんと、眠っているのだろうか? ビルは、メールの右上に記された時間表記に、今日も眉根を寄せその顔を曇らせた。


『ハロー、ビル

 お元気ですか?

 私は、いま虫歯治療で歯医者に掛かっています。


 今日はバレンタインデーです。日本では、女性が男性にチョコレートをあげる習慣があります。

 女性は、意中の男性に、チョコレートやプレゼントを渡し告白します。

 チョコレートは、しばしば仕事仲間や上司、友達、家族にも渡されます。


 英国にもこのような習慣がありますか?


 私はあなたに、チョコレートの替わりに日本の有名な恋の詩をプレゼントします。


「初恋」 島崎藤村 (詩集「若菜集」より)


 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思ひけり


 やさしく白き手をのべて

 林檎をわれにあたへしは

 薄紅の秋の実に

 人こひ初めしはじめなり

 わがこゝろなきためいきの

 その髪の毛にかゝるとき

 たのしき恋の盃を

 君が情に酌みしかな


 林檎畑の樹の下に

 おのづからなる細道は

 誰が踏みそめしかたみぞと

 問ひたまふこそこひしけれ


 英訳

 First Love poem by Toson Shimazaki


 you had swept back your bangs for the first time

 when I saw you under the apple tree

 the flower-comb in your hair

 I thought you yourself were a flower too.


 you stretched out your pale white hand gently

 giving me an apple:

 like the ripening red of the autumn fruit

 my first feeling of love


 my sigh, without any awareness

 touched your hair

 the joys of love's offerings

 drinking your love...


 under a tree in the apple orchard

 nature's narrow road

 who left this token here?

 your question gave me a piercing pleasure.


 今日はここまで


                   古都音   』



 ビルはもう老いている。彼は長い時間を生きてきた。彼の髪はもう昔のような美しい金色じゃない。彼には彼女を驚かせるようなものは何もない……。


 それなのに、この詩を受け取った。

 ビルはあたかも遠い昔の、十六歳の時分にいるような錯覚に陥った。

 あの少年の頃、バレンタインデーには無記名でカードを贈りあうことが流行っていた。

 今の子ども達は、もう、そんなことはしないけれど。

 誰かがビルに、バレンタインカードをくれた。誰からなのか、ビルは推察しなければならなかった。それは彼の心を高揚させ、ときめかせた。

 だが、彼は贈り主を見つけることが出来なかった。


 目頭が熱くなった。

 ビルは目を閉じて、微かに嗚咽を漏らす。


 暫くして、大きく息を吸い込みキーボードを叩いた。


『 古都音さん。

 歯は元気ですか。痛くないですように。


 これはウィリアム・ギャレットの詩です。

 「ビル」はウィリアムの愛称です。すみません。あまり良くはない詩です。


 詩の題は「ありがとう」です。


 幾つもの年月がわたしを素通りしていく

 連れ添うものもいない日々の中で

 この髪が全て抜け落ちるまで、

 わたしの髪はもう灰色以外の何ものでもないというのに


 それまでなのか。すべては過ぎ去って

 わたしを驚かせるものはもう何もないのか?

 世界はもうこのすべての時間にあてがわれ

 そのようにしか残されていないのか?


 だが、遠く離れた世界の果てから

 わたしは一篇の詩を受け取った!

 それはわたしに再び若いこころを呼び起こした

 この物思いの中で



 僕はあまり上手じゃありませんな。


 ではまたね。


             ビル  』



 彼女は、この夏イギリスに来るという。

 ビルは彼女に会うことが、嬉しくもあり、とても怖くもあった。



このお話は、友人の身に起こったほぼ実話です。

次回、古都音は、詩のお礼に、この小話をビルさんにプレゼントすることになるでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 心が優しく締め付けられるような感覚に見舞われました。 現在のビルは、過去に人生の分岐点で別れたもう一人の自分と姿が重なります。 私自身は両親の願うように、傍目からは平凡な人生を選択しました…
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