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人魚の肉  作者: 西
4/4

・・・

姿形が変化しても僕達は共にいるとそう信じた矢先。

外見だけでなく、彼女の内面までも変わりつつあるとわかった。

真夜中、水の跳ねる音で僕は目が覚めた。

彼女がバスタブから這い出て、縁側の方へ行こうとしている。

「あき穂!どうした」

「海へ・・・海へ、帰りたい・・・」

「なんだって」

彼女の目は虚ろで声も、たしかに彼女の声であるけれど、他人のものの様に聞こえた。

彼女はなおも腕の力だけで庭に出ようとしている。

その体を抱き押さえて、二度、三度と名を呼んだ。

「あき穂!あき!!」

「・・・明石君」

瞳に生気が戻り、やっと正気を取り戻したかに見えたが、

次の瞬間に彼女は僕の胸にすがりつくようにして泣き出してしまった。

「明石君!私はあなたの側から離れたくなんてないんです!本当です!」

「疑ってなんてないよ」

「あなたの側にずっといたい。けれど、心の奥底から

まったく別の、真逆の感情が溢れてくるんです。

ここではない海に、海の底に帰りたいと」

二つの相反する感情に押しつぶされそうになっている彼女を

あやす様に抱きしめる。

「離さないでください、明石君」

「離さない。お前をどこにも行かせない」


「私は予知が出来なくなったわけではなかったんですね。

夢に見る光・・・あれは、海の中の景色でした」

彼女の未来は海の中。

そこに僕はいない。

未来は変えられないとかつて彼女は言った。

ならいつまで僕らは一緒にいられるのだろう。

彼女をこの部屋に閉じ込めておく事ははたして

彼女の意思なのかそれとも

僕のわがままなのか。

しかしそんな事を考えている場合ではなくなっていく。

日に日に彼女は衰弱しているように見える。

殺された人魚の残された思念か

それとも彼女自身がその人魚になろうとしているのか、

うわ言の様に海に帰りたいとつぶやいては、

はっとして僕の腕にしがみつく。

そんな毎日が続いて、

かつて思い描いた様な

共に生きて、共に死ぬ

そんな未来はもう無いのだと痛感した。

だから、あの日の約束を今果たそうと思う。

「あき穂。海に、行こうか」

「え・・?」

「海の近くに別荘がある。昔からの古い土地だ。

僕の先祖が人魚を捕まえたとするなら、きっとその海だろう」

そうして僕達二人の最初で最後の旅行が始まった。


京都の北、日本海を眺める別荘。

その場所から海を見た瞬間、彼女の目から

一筋涙が流れた。

ここで、正解のようだ。

そこで数日をすごす。

彼女は海の方へ下りたいようだったが、

僕は彼女を海へ近づけたくはなかった。

だから二人で別荘の中だけですごす。

それは元の屋敷にいた時と同じ光景だ。

けれど楽しそうにしていた彼女も次第に海の方を眺める時間が長くなっていく。

期限が近い。

そう、悟った。

もう僕達に時間は無い。

ならば別れは僕自身が決めたい。

「明日、君を海に帰そう」

「明石君?何を・・突然・・・私はずっと側に――!」

「君自身も辛そうじゃないか。だから決めた」

「・・・」

「浜まで行ってみようか」

そう言って僕は彼女を横抱きにして庭に出る。

そこから少し下りた場所が砂浜だ。

波の音が近づく。

そしてそのまま、彼女を抱きかかえたまま海に入った。

「少し泳いでみたらどうだ」

そう言って手を離そうと僕はするが、

彼女は離れようとしない。

自分の中の感情と戦う様に目を閉じてしがみついて離れない。

けれど波が彼女に語りかけるようによせてはかえし、

それに負けるように彼女が僕から離れた。

とぷんと小さな音をたてて潜ってしまった。

それから実際は数秒しかたっていなかっただろうが

まったく彼女が海から顔を出さない。

僕は不安になって名前を呼ぶ。

「あき・・・あき穂!」

波をかき分けて深い方へ歩き出す。

砂が、海草が僕の足をとって溺れさせようとでもするように海中へ誘う。

海中は澄んでいる。

目をあけると向こうから大きな魚が優雅に近づいてくる。

それは彼女だった。

「大丈夫ですか?明石君」

「いなくなってしまったかと思った」

「お別れは・・・明日でしょう?」

「別荘に帰ろう」

「はい」

そうして最後の夜がやってきた。

僕は彼女を抱いた。

「あつっ」

彼女はもうほとんど魚と同じ体温で、

人の手で触れると火傷するほど熱く感じるらしい。けれど

「大丈夫です。抱きしめてください」

と、海面のようなゆれる瞳でうったえてくる。

それはこれまでのどの夜よりも情熱的であったと思う。

けれど彼女の体はもやは温まることもなく、冷たい

魚の様に冷たいままだった。

指は水掻きの膜で阻まれて、肌は人の滑らかさではない。

腕の中で切ない声を漏らす彼女がもう人ではないのだと痛感させられた。

僕も彼女も共にいたいと思っているのに、

住むべき場所がもう違ってしまっているという事が

ただ悲しかった。


別れの朝。

僕は昨日の様に彼女を抱いて砂浜へゆく。

彼女ももう決心はついている。

海に入り、羽織っていた浴衣も脱ぎ捨てる。

彼女が身につけているのは、僕が贈った

真珠や珊瑚の装飾品だけ。

本当におとぎ話の中から抜け出した様な姿を目に焼き付ける。

彼女は泳ぎだす。沖へ。

その姿がしだいに海の青と見分けがつかなくなって、

僕は彼女の名を呼んだ。

「あき穂・・・」

呼んだ声は潮騒にかき消され、彼女が姿を見せることもない。

いってしまった。

頬を熱い涙がつたう。

「あき穂・・あき穂!!」

ついには大声をあげて叫ぶように呼ぶ。

ここには誰もいない。

恥ずかしがる必要はないのだと、

迷子が親を呼ぶように恥ずかしげもなく取り乱して、

泣き叫び、名を呼び続ける。

頬は波しぶきに洗われて、涙は波に攫われていく。

流れるこれは涙なのかそれとも海水なのか。

胸に形容し難い痛みが去来する。

大切な人を失った。

彼女と一緒に色々なものが行ってしまった、心の虚。

この穴を抱えて、これから生きなければならない。


その時に空いた穴には、今は海の水で満たされている。

それは普段凪いでいて、時折荒れて僕をかき乱す。

他のもので埋まることはついぞなかった。

あれから僕は一人ですごしてきた。

彼女が予言したとおり、長く生きた。

死のうとした事もあったが、やはりそうはならなかった。

投資などで稼いだ金はほとんど環境保護の為に費やした。

だからいろいろなところから賞賛されたりもしたが、

それはけして人類や地球などのためではなかった。

それはすべて僕の個人の私利私欲だ。

彼女が住む場所を美しく保ちたいという僕の欲。

毎年あの時期にはあの海の別荘ですごす。

浜にも行ってみるが、あれから彼女の姿は一度も見ていない。

掌には水色の光。

彼女の鱗を一枚握っている。

彼女の瞳と同じ、海を閉じ込めた様な色。


晩年僕は一人の秘書を雇った。

僕の財産の管理を任せている。

信頼出来る男だが、僕が死んだ後は彼が好きに使うだろう。

財産などどうでもいい。

藤篠家も僕の代で終わる。

家などどうでもよかったのだ。

しかし一つだけ彼に頼んでいる事がある。それは、

僕が死んだ時、骨は海にまいてくれという仕事だ。

あの海に僕も帰る。


これは僕が死ぬ間際に見た短い夢だろう。

僕は海の中にいる。

どこまでも沈んでいく。

光がきらきらととても綺麗だ。

そこに魚影が近づいてきた。

いや、彼女だ。

滑らかな動きでぐんぐん近づいてくる。

彼女は別れた時と同じ若いままで美しく、

そして彼女は僕の腕をとって

海の底へと導いてくれる。

これからは僕達は共にどこにだって行ける。

そんな夢だ。

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