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人魚の肉  作者: 西
1/4

あの人

その人に逢ったのはまだ僕が幼少の頃だった。

自室での勉強を抜け出して使用人に見つからない様にこそこそと移動する。

そして目に付いたのが大きな生垣。

父に絶対に近づいてはいけないときつく言われていた場所。

気になってはいたが父に言われた命令に逆らうわけにはいかないと、

見ない様にしていた場所だ。

その生垣に今、白い花が咲いている。

緑の葉と白の花弁のコントラスト。

そして僕は見つけた。

その根元に僕ぐらいならば通れるのでないだろうかという大きさの穴。

この生垣の向こうなら誰にも見つけられずにいられるのではないか。

そう思って潜った先には建物があった。

古い民家。

自分の家の庭になぜこんなものが。

ぐるりと家の周りをまわって縁側を見つけた。

「いらっしゃい」

そこにその人は居た。

薄い色の和服と、それに負けないほどに白い肌。

そして肩までの色素の薄い髪と同じ色の瞳。

幽霊や人ではない何かではとたじろぐ僕、

そんな事にはかまわずに声をかけるその人。

「こっちに来てお菓子でも食べませんか」

怖いと思いながらもその招く言葉に引き寄せられる様に一歩、

また一歩と近づいて、

気付けば手の届く距離まで来ていた。

「君、おでこを怪我していますよ。生垣を潜る時に棘で切ったんですね」

そう言うとおもむろに手が伸びて肩を掴まれる。

細い指。

けれど逃げる事は出来ない、そう思った。

そして引き寄せられて額に湿ったモノの感覚。

その人の舌が僕の額を舐めたのだ。

「これで大丈夫です。さあ、金平糖でもどうですか」

美しい硝子の入れ物に入った砂糖菓子はキラキラと、

そして同じ様に日に当たるその人の髪も瞳も輝いて見えた。

僕がもう少し大人だったなら、

その人は父の愛人や妾だと思って

汚らわしいと嫌っただろう。

しかしこの時の僕はまだ幼く、

その人の、他の使用人とは違う態度に好感を持った。

へりくだるわけでも特別扱いするわけでもない、

普通に接してくれる人。

何度か通ううちに僕はその人に

亡くなった母の面影も重ねたのかもしれない。

額の傷は痕も残さず消えていた。


皆が寝静まった真夜中。

目が覚めてしまった僕は庭の見える廊下を歩いていた。

そして、その人を見た。

星明りだけの庭。

けれどはっきりと僕にはその人が見えた。

その人は、庭を横切る小川の方へ歩いて行っているようだ。

声をかけて驚かせてやろう、と思って庭に下りた。

そして後を追い、もうすぐそこだ。

この木の向こうにその人はいる。

飛び出そうとして僕は、止まった。

その人は小川の中にいた。

膝まで水に浸かり、そして上半身の

寝巻きにしているのであろう浴衣を肌蹴させている。

胸の丸みと肩の曲線。

むき出しの素肌、腕を広げて星の明かりを浴びている。

白い肌がまるで発光している様に煌めいて、

そのまま光になって消えてしまいそうな光景。

しかし瞳はどこも見ていない様に虚ろで。

昼間のその人とはまるで違っていて、

僕は声をかける事が出来なかった。


「明石君、いらっしゃい。今日は桃がありますよ」

「あき穂さん…昨日の夜……」

「なんです?」

「…いや、なんでもない」

昼にまた会いに行き、夜何をしていたのか聞こうとした。

けれど聞く事は出来なかった。

別人の様で、知らない人の様で怖かったのだ。

聞けば目の前に居るこの優しい人は消えてしまうのではと。


それからも度々僕は夜のあの人を見た。

怖い、けれど綺麗で、恐ろしくて、けれど目が離せなく、

夢の中でもその人を探した。

目を閉じても思い出す事が出来る。

滑らかな曲線。青白い磁器の肌。

唇は紅く、甘い吐息が聞こえるよう。

僕が性的な衝動を起こしたのも

その人が初めてだった。


昼の人と夜の人。

どちらがあの人の本性なのだろうか。

それを聞く機会は訪れなかった。

父にあの人と会っている事がばれたのだ。

それに僕が通っていた生垣の穴も

生垣の成長で閉じてしまった。

けれど行こうと思えば行けるのだ。

母屋から続く渡り廊下を通ればあの人の家の戸へと続いている。

けれどもう僕からは行けない。

父には逆らってはいけない。

二度目は無いのだ。

けれどあの人の方から僕に会いに来てくれはしないか、という期待があった。

戸から出て、渡り廊下へ

そこから庭に下りて僕の部屋へ。

けれどあの人は僕の前に自ら来てくれる事はなかった。

薄情な人だ。

もう僕には会いたくないのだ。

そう思って、僕もあの人の事を忘れる事にした。

しかし

「さようなら。でも、また――」

と、最後に会った日に聞いたあの人の声はずっと耳に残り続けた。

まるでこの別れが最初からわかっていたかのような声色だった。


それから十数年の月日が流れた。

数日前僕の父が亡くなった。

そして財産が全て僕の物となった。

手元にある目録を今日何度目だろうか、見返す。

土地、証券、現金、そんな即物的な項目に混じって

あの人の名前が書かれてある。


あき穂


物の様に自分の愛人まで息子に相続させるのか。

父が何を考えていたのかわからない。

ともあれ約十年ぶりだ。

どんな態度で会えばいいのだろうか。

僕も二十歳をこえた。

あの人も、三十はこえているはずだ。

当主が代々使う部屋から渡り廊下へ出る。

そして生垣の内側、あの家へ入った。

そこにあの人がいた。

来るのがわかっていたとでも言う様に

正座し頭を垂れている。

「いらっしゃい。久しぶり、ですね。明石君、いえ

いらっしゃいませ。藤篠家当主、藤篠明石様。

本日からは私はあなたの影として尽くさせていただきます」

そう言って上げた顔はあの日とまったく変わらない若いままだった。

それどころか幼い自分には女性の年齢などわからなかったから二十歳ぐらい、

と漠然と思っていたが、今見てみるとこの人は

十代後半と言ってもいいのではないだろうか。

「馬鹿な、そんな事が」

「明石様が驚かれるのも無理はありません。説明いたします。こちらへ」

と部屋の中へと招き入れられる。

そこには酒と肴の用意もされている。

今日ここへ来るとは誰にも言っていないのに、全て予定されていた様に進んでいく。

「そんなに不思議そうな顔をせずにどうぞ」

猪口に酒が注がれ、話が始まった。

「今日再会出来る事は決まっていたんですから」

それは信じられない、昔話やおとぎ話の様な内容だった。

「私は昔、何百年も昔、人魚の肉を食べたんです」

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