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―――第一章 お前に、会いに来た
それはようやく雪解けが始まった春先の事だ。
東にあるドミンゴ国の竜騎士(槍術を極めた者に与えられる称号)だった私は、他の一般兵達と共に敵国ユルゲンの領地へ向かっていた。
まさに戦争の真っ只中。
私達ドミンゴは古くからの付き合いであるエッケハルト国と協定を結び、大国ユルゲンの頂点に立つクリスタ女王に立ち向かっている。
争いの火種となる事件が起きたのはつい最近の事。一年前にクリスタ女王が愛してやまない愛娘を病で失ってから時の歯車は狂ったのだ。
既に夫と死別しているクリスタ女王は、全ての愛情を注いでいた娘の死を心底悲しみ、まるで理性の糸が切れたかのように力を求め始め、今から三ヶ月前、ユルゲンは我が祖国ドミンゴを突如として襲撃した。
それがこの三国戦争の引き金となり、私は今こうして戦場に身を投じている。
私達の部隊はこの先のユルゲン領地である名もない密林にて、敵部隊と交戦する予定だ。
ここで勝利すれば相手の戦力、士気を大幅に削れ、多大な土地をドミンゴの名で塗り替えられる。失敗は許されず、待ち受けているのは死と罵声、非難だけである。
身を削ってでも成功させたい作戦の一つだと、ドミンゴのクレイグ大公殿下は仰せられていた。
殿下の顔に泥を塗らないためにも、勝利を収めなければ――当時の私はそれだけを考えていた。死する事を全く恐れない、勇猛果敢な竜騎士であった。
しかし、それは同時に無謀であり、無知であり、まだまだ未熟で幼い証拠である。どれほどその考えが幼稚だったか、後に思い知る事となる。
「おっと、雨が降ってきた……視界が悪くなる。全員、密集陣形に変更だ」
私の隣を行く戦友が命令を発する。
彼、ヨエルは半月前に部隊長へ昇格したばかりで、部隊を率いて戦場へ出るのはこれで二度目だった。最初の頃はぎこちない言葉を使っていたが、ようやく慣れてきたようで、的確かつ適正な言葉を選んで命令を出せるようになった。
私と並ぶ百八十の長身に、銀色に輝く立派な鎧がよく似合う。赤い軍服のような格好の私など比ではないくらい勇ましい。
「大分、様になってきたようだな。もう私が助言する事はなさそうだ」
「本当にそうかな?」
私の言葉に彼は苦笑した。
「アリウス、お前の方が俺よりも数十倍も戦場を経験してるんだ。俺なんてまだまだ程遠い……お前が一緒だから、殿下は安心してこんなにも重要な任務を任せてくれる。アリウスがいなければ俺はまだ城の中で訓練中さ」
「そんな事はない。ヨエルには十分素質もあるし、力もある。だから一任したんだ」
「お世辞はやめてくれ。お前もいるし一任じゃない」
「お世辞なんかじゃないさ。事実だ。私なんて父上に指先すら届かない……」
途端にヨエルの表情が曇った。
「……突然どうしたんだ? 弱気なお前なんてらしくない」
「あ、いや……何でもない。気にしないでくれ。ほら、火薬の臭いがする。敵は近いぞ。私がお前達の道を作ろう。敵兵が少なくなりつつあったら、お前達も交戦しろ」
私はヨエルの肩を二度叩き、単騎で部隊を飛び出した。背後から何かを叫ぶ声が聞えたが、激しくなった豪雨の音で聞き取れず、視界不良の中、私は一本の槍を片手に真正面から敵部隊と激突したのだ。
敵陣に突入してから推測できた敵数はざっと二百はいただろう。しかし、まだ後方に三百程度は待機しているに違いないと、私の勘がそう強く言っている。
私達の部隊人数は百人ちょっとで、戦力的、人数的に圧倒的不利だった。その差を埋めるのが私達竜騎士の役目である。単騎で敵を蹴散らし、少しでも相手の戦力を削って差を縮める。
命懸けの仕事であるが、私はクレイグ大公殿下に一生の忠誠を誓った身。弱音など吐いている暇は一秒たりともないのだ。
「“黄金色の竜”が突破してきたぞ! 構えろ!」
誰かが私の異名を口にした。そう、私には知らず知らずのうちに二つ名がつけられていた。黒煙や砂埃が舞う戦場でも一層目立つ金髪が由来となったようで、“黄金色の竜”と呼ばれているのだ。竜の部分は私が竜騎士であるから、そこから取ったのであろう。
異名とは案外由来が単純であるが、時には名前だけで相手を震え上がらせる武器にもなる。便利であると同時に、名が知れ渡ってしまった私に隠れ場所などもうないのだ。
大人数に囲まれて槍を振り回していると、奥から漂う火薬臭が一層強まり、爆音が空気を振動させて響き渡った。上空から降って来た砲弾が付近で幾つもの爆発を起こす。
本格的な砲撃が始まり、後方も騒がしくなったのでヨエル達も敵部隊と接触したようだ。後はただ敵を滅多切りにし、完全なる勝利に向けて槍を振るうだけである。
幸運にも順調に敵数は減り、相手は撤退を始めた。我々の勝利だったが、それでも私は攻撃を止めない。少しでも敵兵を減らさなければと、それだけを考えていたからだ。
背を向けて走る敵兵の背後から襲い掛かると怯えた悲鳴が上がる。
更に進むと、敵部隊の部隊長らしき人物を発見した。あの指揮棒は間違いない。あの男さえ殺せば撤退中の部隊は大混乱に陥る事間違いないだろう。私は雨で返り血が流れ落ちた刃を向け、猛スピードで部隊長の男に突進した。
それは見事に肉塊の串刺し棒だった。腰から脊髄を貫いて胸部に刃を突き上げ、白目を向いた男が私の槍に貫通したままぶら下がる。傷口から流れ出る血液が棒を伝い、私の両手を赤く染め上げる。けれど、それは弱まる気配を見せない、叩き付けるような雨が洗い流す。
私は槍を振り、邪魔になった肉塊を投げ飛ばした。鈍い音を立てて地面に落下し、衝撃で首が捻じ曲がってしまった顔が私に向いた。それはもう酷く醜かった。
虫の居所が悪かったのか、その哀れな顔が私を馬鹿にしているように見えてしまい、腹が立って死体に止めを刺すため近寄った。ぬかるんだ地面を歩き、足元を泥塗れにして後一メートルという時に差し迫った瞬間、どん、と私の体に何かが当たった。
誰かに押されたのかと思って振り向くと、私を激しく睨み、両手を震わせた少年が立っていた。
ユルゲン部隊の生き残りのようだったため、息の根を止めてやろうと槍を持つ手に力を入れた時、胸部から全身にかけて鋭く激しい痛みが一瞬で駆け巡った。
驚いた私は肩膝を付き、下へと視線を落とす。
――こうなったのは私の警戒の薄さが原因だった。
胸部のど真ん中から水に濡れた鋼鉄の刃が顔を覗かし、生温かい液体が腹に向かって流れる感覚がある。それも少量ではなく、大きな酒樽から酒が誤って流れ出るような……どこかで神経が寸断されたのか、もう痛みなど感じない。
私が顔を上げると、少年が呻き声を発して崩れるように倒れた。そこに現れたのは傷と泥まみれの戦友だった。
「アリウス! 大丈夫か、意識はあるか?」
「ああ……平気だ」
嘘だ。
神経が麻痺して痛みを感じない私は平気だが、大怪我を負った私の肉体は悲鳴を上げている。降り止まない雨で誤魔化しているが、傷口からは心臓の鼓動と共に大量の血液が溢れ出ている。実はというと、ヨエルの顔もぼやけてほとんど誰だか分からなくなっていた。ただ声だけが頼りであり、私自身、長くないと理解していた。