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7回裏、最終回になって、僕に打席が回って来た。2アウト1、2塁。点差は1対3、我がF第一中学校弱小野球部が、N中学校野球部に2点負けていた。アウトになれば即試合終了、もしホームランが出れば、逆転サヨナラ勝ちという場面だった。
中学3年生になっていた僕は、ネクスト・バッターズサークルで1回、2回と素振りをしてから、左バッターボックスに立った。緊張で、心臓が胸の中でバクバクと踊っている。真夏の強い陽射しが、僕の黒革のスパイクシューズにじりじりと照りつけた。
一塁側のアルプススタンドから、ベンチに入れない下級生と保護者たちの気が狂ったかのような応援が響いてくる。彼らが手に持って叩くメガホンの音が、ガンガンガンと鳴る。
「さっ、バッチ来ーい」
「2アウト2アウト!」
N中学校の内野守備陣が、大きな声でこちらにプレッシャーをかけてきた。その守備陣の中心にあるピッチャーズマウンドに立ったスラリと背の高いピッチャーは、帽子を取って汗を拭い、それからこちらを見た。キャッチャーからのサインに1回、2回とうなずき、セットポジションに入った。そのまま足をあげてーー1球目。
ピッチャーの右腕から放たれたストレート・ボールはうなりをあげてホームへ向かってき、驚いたことにーーホームベース上で宙に浮いたまま、キキッ、と止まった。
(なに!?)
僕は焦った。ボールは確かに僕の目の前、ちょうど打ちごろのところで止まっている。
(ええ・・・?)
僕が驚きながら周りを見渡すと、ボールだけでなく全ての事物の動きが止まっていた。ピッチャーは腕を振り下ろしたまま、後ろを振り返るとキャッチャーはミットを構えたまま、ピクリとも動かない。グラウンド上全てのプレイヤーが静止していた。遥かアルプススタンドを見ると、下級生と保護者の応援団が、応援歌を歌っているままに、口を一定の形に開けて、やはり止まっていた。僕以外の全てが止まっている、無音の世界。
(打っちゃっていいのかな)
ボールはすぐそこにある。僕は、失礼してボールを打ってみることに決めた。バッターボックスでもう一度構え直し、深呼吸して、思い切りスイングし、ボールを打った。
きいんっ
すると、次の瞬間魔法が解けたように時が動きだした。打球はあっという間に右中間に伸び、外野を深々と破った。ドッと歓声が沸く。ピッチャーが悔しそうにグローブを投げ捨てた。ランナーが1人、2人とホームインする。僕も三塁を回った。中学野球では外野手がフィールドの浅いところを守っているので、一度打球が深く外野を破ると、なかなか返球が返ってこない。ーーそこを突いて、僕も一気にホームインした。ランニングホームランだ。
ホームインした僕は、先にホームに帰っていたランナーの同級生に抱きつかれた。自軍ベンチから次々と選手が飛び出し、僕に抱きついてくる。
「やったな、おい!」
「すげえ!フェンスの手前まで飛んだんじゃねえ?」
僕を中心に出来た歓喜の輪の真ん中で、僕はさっき時間が止まったことを思い返し、(井出山さんの仕業だな)と思い、なんだかズルをしたような気がして、どう喜んでいいのか戸惑っていた。
公式戦初の勝利に酔いしれながら、僕たち野球部はその後バスで学校まで帰った。学校のグラウンドで、監督のありがたい訓示を聞き、解散となった。
僕は自転車で学校へ来ていたから、学校の自転車置場へと向かった。自転車置場に置いてある自分の自転車に、荷物を入れた。すると、
「あのっすみません!」
元気のいい声に突然呼び止められた。振り返ると、そこには体育着の半袖と半ズボンを着た女の子がいた。僕はその子を知らなかったが、僕の通う学校の下級生であることは容易に想像がついた。
「渡辺先輩ですよね?好きなんです!私と付き合ってください!」
小柄で、歯の白い、健康そうな見た目の子だった。体育着から、陽に焼けた細い手足がにょきにょきと生えている。細長い顔に、つぶらで大きな瞳がついている。少し魚っぽい顔をしていたが、まあまあ可愛らしい女の子である。僕はまたしても焦った。
「付き合う!?付き合うって言ってもね、あの・・・」
「ダメなんですか!?どうしてですか!?私がかわいくないからですか!?」
キーキーした声でそう言いながら、もう眼をうるませていた。僕はますます焦った。こんなところを人に見られたら、恥ずかしくてたまったものじゃない。
「いや、あのね・・・僕は君のことをよく知らないから、いきなり付き合うっていうのはどうもね。だからまず、えーとなんだ、友達みたいなところからね」
「友達?」
「うん」
「いいんですかあ!?」
いいんです、かあああ!?と大きな口を開けて、そう言い放つと、言ったそばから満面の笑みを浮かべていた。
いいよいいよ、じゃあ俺帰るね、はい、ありがとうございます!と、どうやら納得してくれたこの後輩とやり取りをして、僕は自転車に乗って家に帰った。
家に帰り、早速シャワーを浴びて、自分の部屋に戻った。すると、部屋に戻って早々に、母親が電話の子機を持って部屋にやってきた。
「正巳、電話よ。竹内っていう女の子から」
「ああ」
僕は思春期独特の恥ずかしさに声をくぐもらせながら返事をして、子機を受け取った。母親が部屋を出て行ってから保留を解除し、「はい」と電話に出ると、竹内希子の騒がしい声が受話器に響いてきた。
「久しぶり!希子だよ!正巳、元気にしてる?」
この竹内希子は、僕の1学年上の中学校の先輩で、僕の中学2年生の冬から春にかけての短い間、付き合っていたことのある女の子だった。ただ、僕が3年生になってからは、希子が中学校を卒業してしまって、互いに疎遠になり、付き合いは自然消滅してしまった。
「ああ、元気だよ。どうしたの?」
久々に聴く希子の声に、僕は懐かしさを感じた。しかしそれ以上に、希子がいまさらなんの用があるのか、いぶかしんだ。
「うん、それがさ、正巳にお願いしたいことがあって。・・・あたしとメイク・ラブしない?」
メイク・ラブしなああい?と、なんだか艶っぽい声をして言ってきたのである。
「メイク・ラブって・・・」
「うん、メイク・ラブだよメイク・ラブ」
語尾にハートマークが付いていそうな声だった。
「いや、突然何を・・・」
「あれ、だめなのー?」
僕は慌てて部屋をうろうろした。さっきの後輩といい、あまりにも唐突すぎる告白だった。部屋をうろうろし、なんとなく窓の外を見た。すると、家の前の道路に、僕の通う中学校のセーラー服を着た女の子がひとり、立って、じっとこちらを見つめてきていることに気がついた。手には何やら大きな画用紙を持っている。よく眺めると、それは僕の隣のクラスの門脇という女の子だった。
「いや、だめっていうか、突然過ぎて・・・一体どうしたの」
「えー?なんで?したいんだからいいじゃん」
電話で希子と話しつつ、僕は外にいる門脇さんを眺めた。窓ガラスを通して、門脇さんと目があった。すると、門脇さんは両手に持った画用紙を、さっと頭の上に掲げて、画用紙の裏面をこちらに見せてきた。するとそこには、黒のマジックペンで、
「私をめちゃくちゃにしてください」
と、デカデカと書かれていた。
(ちょっと井出山さん!、井出山さんって!)




