-春-
-春-
桜の下に座る女。
桜の花が好きだと、そう語ったのは誰であったろうか。
桜の木の下に座りながら、彼女はぼんやりとそんなことを思った。彼女の前で一心に筆を走らす人は、閨の中では彼女に熱心に愛を囁くくせに、そんな彼女の心に一向に気づく様子がない。そして彼女の方も、そんな彼に何の興味も無かった。
西洋かぶれで下手な絵画を描くことにしか能がないのに、動かす金子の量だけは申し分ない。彼自身に何の魅力もありはしないが、楼主はそんな彼を、最後の獲物と見定めたようであった。
身請けの前に、桜の下で今の自分を絵に描いてほしい。そう願い出たのは、楼主からの欲の滲んだ耳打ちがあったからではない。ただあんまりにも、やるせなかったからだ。
相手がどれだけ望まない相手であろうと、それを嘆いて泣き暮らすほどの純情を彼女はとうに捨てていた。代わりに得たのは、華としての地位と誇りと、ほんの少しの空しさだけだ。だから本当に少しだけ、足掻いてみたくなっただけ。
しかしその思いが少しずつ意味を変えてきたのは、桜の色が薄紅に身を染め始めた頃からであった。
ああ、今日も来ている。と、彼女は思った。
いつの頃からか、桜の下で座り続ける自分を誰かがじっと見つめている。知らぬ人のようであり、知っている人のような気もした。何をするでもなく、ただ顔の容姿もはっきりと見えぬ程の向こうから、じっとこちらを見ているだけ。
何をそんなに熱心に見ているのかと、初めは思った。自分を憐れんでいるのかと、ひどく惨めに思ったりもした。けれどそんな思いも打ち散らす程、その人の視線は心地よい熱となって彼女を包んだ。
見られることが心地良いのではなく、その人の気配を感じられることに、この上ない至福を感じる。そして遠くから自分を見つめるその人からも、自分を見つめることの至福の程を感ぜられた。
幾度、無言の逢瀬を重ねたことだろう。描かれる人形を演じ続ける間だけ、至福の逢瀬は華開いた。逢瀬が終われば、彼女はまた籠の中の華に戻らなければならない。外に出ることもままならず、次に外に出る時は、華摘む人の閨の中、死ぬまで人形として生きるのだ。
ならばこの逢瀬を続けることに、何の罪深いことがあるだろうか。見つめあうことしかできぬ二人を、誰が引き裂くことが出来るだろうか。
絵を描き終えたなら。絵を描き終えることがなかったならば。いずれ来る終わりより、未確定の未来を盲信してしまいたくなる。
彼女はそっと目を閉じて、折れそうになる華の心を叱咤した。
最後まで華として生きることは、純情を捨てた彼女なりの矜持だった。閉ざした心で、またぼんやりと誰かの声を思い出す。
桜の舞う時に、またこの場所で。
昔、そう約束をしたのは誰であったろうか。いつか永久に、共に在れるようにと、幼く儚い秘め事を交わしたのは、いつのこと。
桜の花が、赤ければいいのに。
そんな戯言を、笑って許してくれたのは、誰。
ふいに、彼女の頬を風と一緒に何かが撫ぜて行った。目を開けてみれば、ちらり、はらりと、桜が舞い始めていた。雪解けの頃から始まった逢瀬も、じきに終わりを迎えてしまう。
最後の逢瀬をと、遠く自分を見つめる人を眼の先に探した。遠く目が合うと、その人がこちらをみて微笑んだのが分かった。
ゆっくりと、その人がこちらに近づいてくる。待っていて、と呟いた声が、音も無く、彼女の耳朶にまで伝わった。
その声の色を、彼女は知っている。
胸によぎるのは喜びと幸せと、ほんの少しの悲しみと痛み。
待っていたのはあの人なのか、それともこちらの方なのか。今となってはもう、どちらでも。
彼女は静かに瞳を閉じて、静寂の中、春風の過ぎゆくのを待った。いずれこの風が止んだ時、自分の望むものがそこにあることを願いながら。
一際の強い風、耳のうねりをも満たす風音の去った後、静寂が訪れた。ゆっくりと目を開けば、そこに懐かしい人の影。
――ああ、覚えていてくれたなんて。
赤に濡れた手を差し伸べて、そこに愛しい人が立っていた。
いつか永久に、あなたと共に、桜の花を、赤く塗ろう。
――ああ、貴方にならば、華摘まれるのも嫌ではないわ。