曇り空の子供たち
人間と云うものは、しぶとい。
僕は薄味のコンビーフを噛みしめながら、つくづく実感する。空腹でスラムを彷徨った三日目の夜、今回こそはもうダメかもしれない、と思った矢先に、コロっとこいつが出てきたのだ。成人男性の栄養素としては断然足りないが、精神の均衡は保たれた。
缶のエッジで舌を切らないように注意しながら中身を舐めつくすと、僕は胸ポケットから写真を取り出して眺めた。
物憂げな、整った顔立ちの少女が写った銀塩写真である。美しい。どんなアートよりも美しい。
少女の美しさもさることながら、驚くべきはその背景だ。
空が、青いのだ。
青。液晶で映し出すような青。
少女の像と比較すれば分かるが、劣化した色調ではない。旧時代の写真なので、データの書き換えも無いだろう。もっとも、空の色などという、人間の都合と無縁なものを改変して、得をする組織というものも考えにくいが。
僕は歴史というものを知らない。ほとんどの書物はねつ造され、観測者はイカれている。このご時世、一般人には歴史を知る術は無い。また、知ってどうこうしようという目的もない。
ただ人間の知への欲求というものは、理屈で抑えきれるものではない。云ってみれば、それは性欲に非常に似ている。それが真実だというものには、少しでも長く、触れていたいものだ。
僕は数時間後、この写真を売る。そうすることで、生き長らえる。いっそ奇妙な青い空を抱いたまま餓死するか、ずっと迷っていた。だが、少しでも長く生きれば、似たような断片を、また見つけることができるかもしれない。僕はそれに賭けた。
僕が写真を売る気になった理由はもう一つある。
売る相手が信頼に足る人物だからだ。信頼に足る、という言葉では生ぬるいかもしれない。むしろ僕は彼の事をリスペクトしている。
彼の名前は『柳』。クリエイターだ。旧時代のコンピュータを使って電子ドラッグを作っている。僕もいくつか観たことがある。軽快なBGMに乗って、女の膣が裂け、そこから次々と、マトリョシカのように女が出てきたり、人の首がスッパリ外れて玉突きのようにすげ変わったりする類の動画だった。
彼の適度な人間嫌いに、僕は痺れた。
ダメで元々、とメッセージを送ったら、わりとすぐに返信が来て驚いた。僕は『紫音』と名乗ったが、彼は僕が男だということを軽く見抜いていた。作品だけじゃない。『柳』は何か卓越した観察眼を持っている。そう確信した。三度目のメッセージで、僕は青空写真の話をした。何も持たない僕にとって、とびきりの話題だった。これで返信が途切れれば、僕はこの世界に落胆するところだった。
彼は、がぜん食いついてきた。
「是非、見たい。実は今、青い空を集めている。汚染されていない食糧と交換しないか」
汚染されていない食糧? 僕はヨダレがあふれそうになった。一体どんな味がするのだろうか。低濃度汚染じゃない。ゼロ、だ。そんな食料が、『柳』の部屋には存在するのか。僕の中で、『柳』のカリスマ性はますます高まった。
何度かメールを繰り返すうちに、『柳』が場所を指定してきた。僕の部屋からだいぶ遠いエリアだった。空腹には堪えるが、僕は『柳』に会いたい一心で歩き続けた。コンスタントに続く灰色の空は、常に僕を嘲笑い、喉に渇きをもたらした。それでも僕は歩き続けた。
ふと、目の前に煌々と輝くネオンが見えた。
「まじ、か」
僕は呟く。こんな余剰電力、あるはずがない。『柳』のもと以外には。
僕は最後の力を振り絞って、きしむ鉄階段を駆け上がった。踊り場では、中年男が疲れ果ててつぶれていた。
やっとついた。僕はドアを開ける。騒音が漏れてきた。労働者がダイナモを回す音だ。電力源はコレか。ギラギラ光る室内を僕は見渡す。『柳』の帝国だった。
「おお、来たか」
久しぶりに聴く人の声だった。僕は目を凝らす。
「『紫音』だろ。そこ、うるさいから奥入って」
僕は歩みを進めた。黄色とピンクの手すりに沿って僕は深くまで行く。異世界の最深部に、『柳』はいた。
『柳』の振る舞いは、僕の想像した通りだった。僕が1メートルの範囲に近づくまで、彼はPCの画面から決して目を離さなかった。画面はめまぐるしく飛躍している。それを操るのはキーボードの上を器用に動く奇形の六本指。
「はじめまして、失礼します」
僕は云った。
「まあ、そうかしこまるなよ。疲れた?」
『柳』はそう云って椅子を回転させ、僕を視た。左目に眼帯をつけている。僕は無意識にそれに視線を奪われた。
「へへ、いろいろ驚いただろ。これ? 視力の節約さ。どうして目玉が二つあるか、考えたことあるか?」
柳は眼帯を指差して笑った。と、PCのモニタがめまぐるしく点滅した。
「あー、来客中だっての」
『柳』は面倒臭そうに画面に向き直り、何やらを打ち込んで、また僕をのほうを見た。
「とまあ、呼び付けといて悪いけど、こっちも忙しいんでね。さっそく、ブツ見せてくれる?」
「はい」
僕は写真を差し出す。僕の手から写真が離れた瞬間、僕は云いようのない切なさに襲われた。
「おおお! マジだぜ! マジ青空! こんなの、まだあったのかよ! ヒヤー、懐かしいぜ~! しかも女の子も写ってるじゃん! こりゃイイ! サイコー!」
『柳』はとても興奮しているように見えた。左目の眼帯を持ち上げ、写真を凝視している。禍々しい彼の創作意欲を刺激したのだろうか。
たぶんこの写真の青い空も、少女も、『柳』の作る電子ドラッグの『素材』になる。それでいいのか? 僕の脳裏にもくもくと疑問の雲が立ち込める。
いや、ここに来るまでに迷いつくしたはずだ。どうせ僕が持っていても、この写真は何の価値も発揮しない。『柳』はきっと、幻の青い空の意味も価値も、全て知っている。それをアートにして、中毒者を増やす。中毒者は『柳』の新作が観れて幸せだし、『柳』はその報酬として、膨大な電力や食品を受け取る。
そしてその一部は、僕の手元に来る。
「いやー、『紫音』君、君サイコー。想像以上に上物だぜ。保存状態もイイし。くー、インスピレーション湧いてきたァ」
「あ、あの」
僕は耐えきれなくなって云った。
「その、報酬は」
「あー、いいよ。そこら辺にあるやつ、好きなだけ持って行っていいよ」
『柳』は面倒臭そうに云った。『柳』の関心は写真の中へと完全に移行したようだった。僕はその辺を見渡した。真新しいダンボール。錆ひとつない缶詰と飲料水の類が、ぎっしりと詰まっていた。
「これ、何個くらい、良いんですか?」
「いいって。持てるだけ持ってきなよ。でも、それ持って歩いてると強盗に狙われるから、持って帰るときは中身見えないようにね。はみ出す部分はここで食べていけばいい」
僕は仰天した。写真一枚でこれか。物質としてみれば、ただの紙一枚。
「あ、ありがとうございます」
僕は云い、さっそく一つ手に取る。と、『柳』が飲みかけの瓶ビールを差し出してきた。
「乾杯。お疲れさん」
『柳』は云った。僕も慌てて瓶を一つ取り、ぶつけた。ガラスのぶつかる小気味よい音が響く。乾杯の後にラベルを確認すると、僕が取ったのはジンジャーエールだった。一口飲む。
なんて甘いんだ!
とたんに空腹が刺激され、僕は鶏肉のパティの入った缶詰に指を突っ込む。まろやかでジューシーな感触。塩気のある香りが立ちのぼり、理性のタガが外れた。僕は無我夢中で新鮮な食品を貪った。
ブッシツトシテミレバ、タダノカミイチマイ。
僕は何かイケナイことをしている気がしてきた。こんなうまい話って、あるのだろうか。と云うか、これはウマイハナシなのだろうか? 腹が満たされてくると、思考が再開される。
「あの、一つ訊いていいですか」
「んー?」
僕は意を決し、口を開いた。嚥下したパティと吐き出す言葉が喉元で交錯し、僕は胸やけを起こしそうになっていた。
「そ、その写真、そんなに、価値があるんですか…? 確かに珍しいとは思うんですけど、その、割に合ってるのか、というか」
『柳』は振り返り、節約用の右眼で僕を捉えた。背筋が凍りそうなほど鋭い視線だった。
「食糧、欲しくないの?」
『柳』は云い、にやりと笑う。僕は慌てた。
「あ、いや、そういうわけじゃ…。僕だって生活があるし。ただ、ちょっと気になったものですから」
「価値あるよ」
『柳』は僕を視たまま云う。
「俺にとってはね。少なくともその缶詰よりも価値はある」
「……」
僕は次の言葉に詰まった。
「あ、あともう一つだけ」
画面の向こうに帰っていく『柳』を引き留めようと、僕はもう一言絞り出した。
「どーぞ」
『柳』はおどけたふうに云う。
「あ、あの、柳さんって、青い空、見たことあるんですか? 本当に、ホントに昔は、空が青かったんですか? あ、いや、だって、信じられないじゃないですか? 原色の空なんて」
いつの間にか、僕は責めるような口調になっていた。でも、話しているうちに確信した。空の真実。今、最も知りたいこと、今、最も訊かなくてはならないこと。
長い沈黙だった。僕が自分というものを認識して以来、初めてと感じるほど長く重苦しい沈黙だった。
『柳』の答えは短かった。
「さあね」
言葉の後の空白を埋めるのは、遠くから響いてくるダイナモの重低音だけ。僕は後頭部を柔らかい何かで殴られたような感じを覚えた。
「え、あ、それって…」
僕は言葉を紡ごうとするが、舌がもつれ、うまくいかない。ネオンが歪む。歯車が、揺れている。僕より先に、『柳』が続けた。
「あのね、『紫音』君。キミ、あんまり考えないほうがいいよ。この時代に合ってない」
『柳』の云う通りかもしれない、と僕は思った。
「じゃあ、どうして『柳』さんは、その、写真を…」
僕は質問を続けた。僕の質問はこれで三回目になっていた。
「──ふー…」
『柳』は大きく溜め息をついた。
「知りたいの?」
僕は黙って頷く。
すると、『柳』はおもむろにライターを取り出し、写真の端に点火した。
「こうする」
『柳』はそんな冷たい言葉と一緒に、燃える青い空を投げ捨てた。僕は慌ててそれを拾おうとする。
冷たいコンクリートの床、その上に散らばる砂と灰と埃の、不快な感触が指先で踊る。服の袖でなんとか火をかき消し、拾い上げた頃には、少女の首から上はすっかり燃え堕ち、写真は小汚い紙片となっていた。
突然の事に驚いたということもある。だが、何より、話が違う、と僕は確信して『柳』を睨み付けた。敵意が伝わったのだろうか、『柳』はふん、小さく息を吐いた。
「作品観てくれたなら、気付かなかったわけじゃないでしょ。俺が人間嫌いだって」
『柳』は大きく口元を歪めて笑ったが、眼はまるで笑っていなかった。牙を剥いている。僕は理解した。
「だってムカつくでしょ? 昔は楽園デシタ、とかそういうお話。俺、クリエイターだからさ、過去を壊して、新しくてカッコいいもの創るんだわ」
僕は紙片を抱いて後ずさる。『柳』はPCの前から微動だにしなかった。光の無い右眼で、僕の後退を静かに嘲笑っている。僕はいよいよ怒りに肩を震わせた。
僕はジンジャーエールの瓶を一本奪い取ると、踵を返して一目散に走り出した。『柳』も手下も、誰一人追って来なかった。僕はあっと云う間に光線の迷路を抜け、脱出した。
外に出ると、つくづく厭になるほどいつもの風景が広がっていた。灰色の空、鉛色の大地、石ころが崩れ落ちる微かな音だけが、延々と大気を満たしている。僕はしばらく歩き、狭い路地裏に溜まったビニール袋の山に身体を投げ捨てた。
最悪なソファから見上げるビル群は高く、空との境界線は今日も見えない。
クソッ! 『柳』! こんな街! 滅んでしまえばいい! でも、どれだけ僕が願っても憎んでも、世界は顔色一つ変えずに横たわり続ける! そんなこと、そんなくだらないこと、僕は、僕は知ってるんだ!
ならば『柳』、君は生きろ! この停滞した廃墟みたいな世界で生き続けろ! 一つ目、六本指の化け物となって跋扈しろ!
僕は絶叫し、身体全体をバネのように作用させて一気に立ち立ち上がった。
渾身の力を込め、瓶をコンクリートの壁に投げつける。それは些末な破裂音を伴って、弱酸性の液体をまき散らした。黒い染みは埃を洗い流しながら粘度を増し、ブルーシートを伝ってゆっくりと流れ落ちてくる。そしてとうとう、怒り立ち尽くす僕の足元まで、到達した。
END
最後までお読みいただき、大変、ありがとうございました。
子供は残酷で大人が卑怯なら、僕らはどうなればいいのでしょうかね。




