凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜
短編です。
静かに暮らしたい男爵家次男が、貴族学院で人間関係の火種を見つけてしまうお話です。
【追記】
本作の連載版を開始しました。
短編版の雰囲気をそのままに、リオネルの学院生活と人間関係の火種を続けて描いています。
よろしければ、後書きの連載版リンクからお読みいただけると嬉しいです。
前世の俺は、顔が良すぎた。
自分で言うと腹立たしいが、事実だから仕方がない。
道を歩けば視線を向けられ、少し笑えば勘違いされ、丁寧に断れば泣かれ、冷たくすれば恨まれた。
女からは好意を向けられた。
男からは警戒された。
仲良くなった相手の恋人からは疑われ、何もしていないのに誰かの喧嘩の原因になった。
好かれることは、幸せなことだ。
そう言える人間は、きっと幸せなのだと思う。
俺にとって好意は、薄く張った氷の上を歩くようなものだった。
踏み込みすぎれば割れる。
離れすぎれば恨まれる。
優しくすれば期待される。
断れば傷つける。
そのうち俺は、人の視線の温度が分かるようになった。
憧れ。
執着。
嫉妬。
敵意。
独占欲。
劣等感。
それらが混ざり合った空気の中で、俺は息の仕方を忘れていった。
だから、死ぬ間際に思った。
次に生まれるなら、誰の目にも留まらない顔がいい。
そして俺は、本当にそうなった。
異世界の小さな男爵家。
アルバート男爵家の次男、リオネル・アルバート。
淡い茶色の髪。
灰色の瞳。
背丈も体格も普通。
整っていないわけではないが、振り返られるほどではない。
鏡を初めてまともに見た時、俺は泣きそうになった。
なんて素晴らしい。
普通だ。
誰にも期待されない。
誰にも奪い合われない。
誰かの恋路を壊す心配もない。
しかも、家族に恵まれた。
父は穏やかで、領民思いの地方貴族。
母は少し心配性だが優しい。
兄のエルネストは真面目で、誠実で、俺にとっては理想の跡継ぎだった。
俺は早々に決めた。
この兄を支えよう。
兄が領主になったら、俺はその補佐として書類仕事でも、交渉でも、裏方でも何でもやる。
目立たず、騒がず、平和に暮らす。
それが今世の目標だった。
なのに。
「リオネル、学院ではあまり無理をするなよ」
貴族学院へ出発する朝、兄は俺の肩に手を置いてそう言った。
「お前は昔から、人の顔色を見すぎるところがある」
「そうですか?」
「そうだ。父上と母上が喧嘩をしそうになる前に、いつもお前が茶を出して話題を変えていただろう」
「あれは偶然です」
「偶然で十年続くなら、それは才能だ」
兄は笑った。
その笑みは優しかったが、俺には少しだけ怖かった。
才能。
できれば、そう呼ばれたくないものだった。
俺が持っているのは才能ではない。
前世で身につけざるを得なかった、処世術だ。
誰の怒りが爆ぜそうか。
誰の笑顔が作り物か。
誰の好意が危うい方向へ傾き始めているか。
誰の嫉妬が、もう言葉になる寸前か。
それが見えるだけだ。
見えたところで、幸せになどなれない。
むしろ、見えないほうが楽なことのほうが多い。
「兄上、ご安心ください。俺は目立ちません。学院でも普通に過ごします」
「普通、か」
兄は少しだけ困ったように笑った。
「お前の普通は、たまに普通ではないからな」
その言葉の意味を、俺は学院入学初日に知ることになる。
貴族学院は、王都の北側にある巨大な白亜の建物だった。
各地の貴族の子弟、優秀な平民出身の奨学生、王族に連なる者たちが集まる場所。
華やかで、清潔で、上品で。
そして、ひどく面倒くさい場所だった。
入学式後の交流会。
大広間には、着飾った新入生たちが集まっていた。
誰が誰に声をかけるか。
誰が誰と同じ輪に入るか。
誰が誰を無視するか。
それだけで、見えない縄張りが作られていく。
俺は壁際でグラスを持ち、なるべく存在感を消していた。
男爵家の次男など、こういう場では背景でいい。
むしろ背景でいたい。
だが、五分もしないうちに気づいてしまった。
ああ、あそこはまずい。
広間の中央に、三人の生徒がいた。
一人は、金髪の美しい令嬢。
確か、侯爵家の令嬢であるセシリア・グランベル。
もう一人は、黒髪の少年。
周囲との距離の置かれ方から見て、平民出身の奨学生だろう。
名はたしか、ニール・ロイド。入学試験で上位だったと聞いた。
そして最後の一人。
赤みがかった髪の、背の高い男子生徒。
伯爵家嫡男、ギルバート・レイヴン。
彼の表情は笑っていた。
だが、目が笑っていない。
右手の指が、グラスの脚を強く握っている。
肩に力が入っている。
視線はニールに向いているが、意識はセシリア嬢に張り付いている。
婚約者か。
いや、正確には婚約予定者だろう。
家同士では話が進んでいるが、本人たちはまだ正式に発表されていない。
そういう微妙な空気だ。
セシリア嬢は困っていた。
ニールはそれに気づいていない。
ギルバートは気づいている。
そして、気づいていることを隠そうとしている。
一番まずい形だった。
「ロイド君だったね。君はずいぶん熱心にセシリア嬢と話すんだな」
ギルバートの声が、少しだけ大きくなる。
周囲の視線が集まり始めた。
ニールは一瞬、戸惑った顔をした。
「いえ、僕はただ、先ほど入学試験のことで質問を受けて……」
「試験のことなら教師に聞けばいい。わざわざ令嬢に長々と話しかける必要があるのか?」
空気が冷えた。
セシリア嬢の表情が固まる。
彼女がここでニールを庇えば、ギルバートの嫉妬を煽る。
黙れば、ニールを見捨てた形になる。
ニールが反論すれば、平民奨学生が伯爵家嫡男に歯向かったことになる。
謝りすぎれば、今度は彼の学院生活が最初から下に見られる。
最悪だ。
誰も得をしない。
俺はため息を飲み込んだ。
見なかったことにしたい。
正直、したかった。
だが前世からの悪癖で、火種があると指が動いてしまう。
燃え広がった後の地獄を知っているからだ。
俺はグラスを近くのテーブルに置き、三人のほうへ歩いた。
目立たないように。
あくまで偶然を装って。
相手の面子を潰さない速度で。
「失礼します」
三人がこちらを見る。
ギルバートの目に、警戒が浮かんだ。
誰だ、こいつは。
そういう目だ。
いい。
その程度の警戒なら扱いやすい。
「レイヴン様でいらっしゃいますよね」
俺は軽く頭を下げた。
「アルバート男爵家次男、リオネルと申します。先ほどのご指摘、大変勉強になりました」
「……何?」
ギルバートの眉が動く。
俺は続けた。
「貴族学院では、身分の違う者同士が学ぶ場とはいえ、やはり節度は必要です。特に令嬢に対する距離の取り方は、まだ慣れない者には難しい。レイヴン様はそこを気にかけておられたのでしょう?」
ギルバートは一瞬、言葉に詰まった。
怒りの矛先を向けるはずだった相手に、いきなり自分の行動を「配慮」として解釈されたからだ。
怒るには理由が薄くなる。
否定すれば、自分はただ嫉妬していただけだと認める形になる。
俺はさらに一歩だけ、ギルバート側に寄った。
「ロイド君も、悪気はなかったはずです。ただ、まだ貴族同士の距離感に不慣れなのでしょう。よろしければ、レイヴン様から一言、学院での振る舞いを教えて差し上げてはいかがでしょうか」
ニールの目が丸くなる。
セシリア嬢も、俺を見る。
ギルバートの立場を「嫉妬した男」から「不慣れな奨学生を指導する上位貴族」にすり替える。
それが一番、傷が浅い。
ギルバートは俺を睨んだ。
だが、その視線に先ほどの熱はない。
代わりに、考えている目になっていた。
この流れに乗るべきか。
それとも、突っぱねるべきか。
彼は馬鹿ではないらしい。
数秒の沈黙の後、ギルバートは小さく息を吐いた。
「……そうだな。ロイド、学院では身分が違っても共に学ぶ。だが、だからこそ距離の取り方は覚えておけ」
ニールはすぐに頭を下げた。
「ご指摘ありがとうございます。レイヴン様。今後は気をつけます」
その声に、余計な反発はなかった。
俺は心の中で安堵した。
賢い。
ここで悔しさを顔に出さないだけで、彼の未来はかなり守られる。
次に、俺はセシリア嬢へ視線を向けた。
彼女はまだ硬い顔をしていた。
このままでは、彼女の中に嫌悪が残る。
ギルバートに対しても。
ニールに対しても。
そして、場そのものに対しても。
俺は穏やかに笑った。
「グランベル様も、ロイド君に学びの機会を与えておられたのですね。入学初日から下位の者にも丁寧に接するお姿、さすが侯爵家の令嬢だと感服いたしました」
セシリア嬢は、わずかに目を見開いた。
これで彼女も「男二人の争いに巻き込まれた令嬢」ではなく、「奨学生に寛容に接した侯爵令嬢」になる。
彼女の傷も浅くなる。
セシリア嬢はすぐに微笑みを整えた。
「ありがとうございます、アルバート様。わたくしも、少し距離が近くなりすぎていたかもしれませんわ。レイヴン様、ご指摘に感謝いたします」
完璧だった。
ギルバートの目元から、最後の棘が抜ける。
セシリア嬢が人前で自分に感謝した。
それだけで彼の面子は守られる。
ニールは潰されない。
セシリア嬢は孤立しない。
ギルバートは嫉妬男として笑われない。
火は消えた。
俺は静かに頭を下げる。
「では、私はこれで」
よし。
撤退だ。
一刻も早く壁際へ戻ろう。
俺はそう思った。
だが、背後から声がかかった。
「アルバート」
ギルバートだった。
振り返ると、彼は先ほどよりもずっと落ち着いた顔をしていた。
「少し、話せるか」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
だが、断り方を間違えるとまた火種になる。
俺は微笑んだ。
「もちろんです」
広間の端、柱の影。
ギルバートはしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。
沈黙は嫌いではない。
相手が言葉を探している時に急かすと、たいてい余計に拗れる。
やがて彼は、低い声で言った。
「俺は、醜かったか」
予想よりも真っ直ぐな言葉だった。
俺は少しだけ彼を見る目を変えた。
これは、いい男になるかもしれない。
「嫉妬は、誰にでもあります」
「慰めはいらない」
「慰めではありません。事実です」
俺は言った。
「ただ、それを人前で爆発させると、自分だけでなく、守りたい相手の立場も傷つけます」
ギルバートの顔が歪んだ。
図星だったのだろう。
「……俺は、セシリアにふさわしくないと思われるのが怖かった」
「はい」
「ロイドは成績も良く、教師からも目をかけられている。平民だが、堂々としていた。セシリアが楽しそうに話しているのを見て、腹が立った」
「はい」
「お前、否定しないのか」
「否定してほしいのですか?」
ギルバートは黙った。
俺は続けた。
「嫉妬したこと自体は、悪ではありません。問題は、その処理の仕方です。相手を下げて自分を保つと、次からもっと苦しくなります」
前世で、何度も見た。
嫉妬に呑まれた男。
好意に呑まれた女。
劣等感を隠すために誰かを攻撃する人間。
彼らは最初から悪人だったわけではない。
ただ、自分の感情の置き場を知らなかっただけだ。
「では、どうすればよかった」
ギルバートは悔しそうに聞いた。
俺は少し考えた。
「セシリア様に、後で二人きりの時に聞けばよかったのです」
「何を」
「楽しそうに見えたが、何を話していたのか、と」
「そんなことを聞けば、器が小さいと思われる」
「言い方次第です」
俺は肩をすくめた。
「責めるように聞けば、器が小さく見えます。興味があるように聞けば、彼女の話を聞きたい男に見えます」
ギルバートは目を見開いた。
「……なるほど」
本当に素直な男だ。
貴族としてはやや危ういが、人としては悪くない。
俺は少しだけ笑った。
「レイヴン様は、セシリア様を大切に思っているのでしょう」
「当然だ」
「なら、彼女が人前で困る形にしないことです。守るとは、相手を囲い込むことではありません。相手が堂々と立てる場所を残すことです」
ギルバートは、しばらく何も言わなかった。
やがて彼は、深く息を吐いた。
「アルバート」
「はい」
「お前、男爵家の次男だったな」
「はい」
「その割に、ずいぶん偉そうだ」
やってしまった。
俺は内心で頭を抱えた。
まずい。
調子に乗りすぎたか。
しかし、ギルバートは口元を少しだけ緩めた。
「だが、不思議と腹は立たない」
「それは何よりです」
「今度、茶に付き合え」
「……茶、ですか」
「ああ。俺はお前に、いくつか聞きたいことができた」
避けたい。
全力で避けたい。
伯爵家嫡男と親しくなっても、俺には何の得もない。
むしろ目立つ。
だが、ここで露骨に拒絶すれば、今度は別の火種になる。
俺は前世から何も学んでいないのかもしれない。
「機会があれば、ぜひ」
曖昧に逃げる。
これが社交の基本である。
そう思っていたのに、背後から涼やかな声がした。
「その“機会があれば”は、断る時の言い方ですわね」
俺は振り返った。
そこにいたのは、セシリア・グランベル侯爵令嬢だった。
いつの間に。
ギルバートも少し驚いた顔をしている。
セシリア嬢は俺をじっと見ていた。
先ほどの柔らかな令嬢の顔ではない。
観察する目だ。
まずい。
このタイプはまずい。
「アルバート様」
「はい」
「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」
「いえ、私は何も」
「何もしていない方は、あの場の全員の立場を同時に守ったりしません」
やはり、見られていた。
セシリア嬢は微笑んだ。
「わたくしは、少し怖くなりました」
「怖い、ですか」
「ええ。あなたは、誰の味方をしたわけでもない。けれど、誰も傷つかない場所へ話を運んだ」
彼女は一歩、近づいた。
「まるで、何度も何度も、人の感情が壊れる場面を見てきた人のようでした」
胸の奥が、冷えた。
前世の記憶が、一瞬だけよみがえる。
泣きながら縋る女。
拳を握りしめる男。
優しくしただけなのに、勝手に期待され、勝手に失望された日々。
俺は表情を変えないようにした。
「買いかぶりです」
「そうでしょうか」
セシリア嬢は、なおも俺を見ている。
「あなたは、人をよく見ている。でも、人に見られることには慣れていないのですね」
やめてくれ。
そう思った。
その言葉は、少し深く刺さりすぎる。
ギルバートが怪訝な顔をした。
「セシリア?」
彼女はそこで表情を戻した。
「失礼いたしました。アルバート様、今日のことは覚えておきます」
覚えなくていい。
本当に覚えなくていい。
俺は穏やかに微笑んだ。
「私は、ただ場を荒立てたくなかっただけです」
「ええ。そういうことにしておきますわ」
セシリア嬢は優雅に礼をして、広間へ戻っていった。
ギルバートも少し遅れて彼女を追う。
去り際、彼は俺を振り返った。
「アルバート。茶の件、忘れるなよ」
忘れたい。
心から忘れたい。
俺は一人、柱の影に残された。
入学初日。
まだ授業も始まっていない。
友人を作るつもりもなかった。
目立つつもりなど、欠片もなかった。
それなのに、なぜだろう。
広間の向こうで、何人かの生徒がこちらを見ている。
ニール・ロイドは、感謝と尊敬の混ざった目で。
ギルバート・レイヴンは、妙な興味を含んだ目で。
セシリア・グランベルは、何かを見透かすような目で。
俺は静かに天井を仰いだ。
今世の俺は凡庸だ。
顔も、家柄も、才能も、目立つほどではない。
そのはずだった。
ただ少しだけ、人の感情の火種が見える。
ただ少しだけ、それを消す方法を知っている。
ただ少しだけ、誰かの面子を守りながら場を整えることに慣れている。
それだけだ。
それだけなのに。
翌日から、俺の席にはなぜか相談事が持ち込まれるようになった。
婚約者との会話に悩む男子生徒。
派閥の誘いを断れない令嬢。
平民出身で貴族の空気に怯える奨学生。
弟と比べられて苛立つ嫡男。
笑顔の裏で泣きそうな少女。
俺は誰にも好かれたくなかった。
誰にも頼られたくなかった。
誰の人生にも深く関わらず、兄を支えて、領地で静かに暮らしたかった。
なのに今日も、誰かが俺の前に座る。
そして、こう言うのだ。
「アルバート様、少しだけ相談してもよろしいでしょうか」
俺はそのたびに思う。
人間関係から逃げるために、凡庸な顔に生まれたはずなのに。
どうやら神様は、俺に顔ではなく、別の厄介なものを残していったらしい。
俺は小さく息を吐き、今日も微笑む。
「もちろんです。私でよければ」
本当は、よくない。
よくないのだが。
火種が見えてしまった以上、放っておけない自分が一番面倒くさい。
こうして俺の静かな学院生活は、入学初日から静かに終わった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ありがたいことに本作の反応をいただけましたので、連載版を開始しました。
連載版では、この短編を第1話相当として再構成し、リオネルの貴族学院での続きを描いています。
静かに暮らしたいのに、人間関係の火種ばかり見つけてしまう男爵家次男。
そんなリオネルが、伯爵家嫡男、侯爵令嬢、平民奨学生、上級生たちに少しずつ見つかっていく物語です。
続きが気になりましたら、ぜひ連載版も読んでいただけると嬉しいです。
連載版はこちら:
【https://ncode.syosetu.com/n1422me/】
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