疲れたので、降りました【後日談/その後】
地方領の朝は、音が少ない。
遠くで鳥が鳴き、風が窓を叩く。
「……ん」
リュシエンヌは自然に目を覚ました。
頭は重くなく、胸の奥に張りついていたざらついた疲労も残っていない。
ベッドの上で一度だけ瞬きをしてから、静かに起き上がる。
――よく眠れた。
それだけで、少し可笑しくなる。
王都にいた頃、目覚めの良し悪しなど考えたこともなかった。
「考える余裕なんて、なかったものね」
身支度を整え、卓上に置いた手帳を開く。
今日の予定を確認して、小さく頷いた。
「急ぎはなし。午後に顔合わせが一件……だけね」
階下の食堂へ向かうと、すでにアデルがいた。
きっちりと整えられた服装。背筋を伸ばし、書類に目を落としている。
この静かな朝には、少し真面目すぎる姿だ。
「おはよう」
声をかけると、アデルはすぐに顔を上げた。
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
「ええ。あなたは?」
「……問題ありません」
相変わらずの答えだった。
寝室は今も別だった。
距離も、王宮にいた頃とさほど変わっていない。
食卓を挟んで向かい合い、短い言葉を交わす。
ここへ来てから、そんな毎日が続いている。
心地よい。
――はずなのに、最近、胸の奥に小さなもやが残るようになっていた。
午前中は、アデルの執務室で過ごす。
彼の机の横に、小さな机がひとつ置かれている。
リュシエンヌはそこに腰掛け、領の書類整理や制度の下書きに目を通していた。
視線の端で、アデルの横顔を盗み見る。
真剣な表情で、迷いなく筆を走らせている。
「……この点について、ご意見をいただけますか」
ふいに声をかけられ、顔を上げる。
「ここね」
そう言って身を乗り出し、該当箇所を指で示す。
その瞬間、アデルの肩がわずかに引けた。
距離を取るように、半歩下がる。
「……ありがとうございます。助かります」
「……どういたしまして」
そう言って、リュシエンヌは元の位置に戻った。
アデルは気まずさを誤魔化すように、再び書類へ視線を落とす。
仕事に没頭する背中を見ながら、リュシエンヌは小さく息を吐いた。
午後の顔合わせは、領主館の応接間で行われた。
相手は、この地で長く土地を治めてきた古参の代官と、その随行一人。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
アデルが挨拶する。
声は落ち着いているが、肩にわずかな力が入っているのが、隣にいるリュシエンヌには分かった。
――珍しいわね。
リュシエンヌは何も言わず、半歩だけ前に出た。
そして、そっとアデルの腕に手を添える。
アデルの呼吸が、一拍遅れた。
腕越しに、身体が固まったのがはっきり伝わってくる。
「本日は、夫が話を伺います」
それだけ告げて、静かに手を離し、一歩下がる。
アデルは一瞬だけ言葉を失い、それから深く息を吸った。
「……ええ。では、こちらから説明いたします」
声に、先ほどよりもわずかな芯が入っていた。
リュシエンヌはそれ以上口を挟まず、静かに話を聞いた。
その横顔を見ながら、ひとつの決心が胸の内で形を取る。
一日の終わり。
それぞれの部屋へ戻ろうとした、そのときだった。
「ねぇ……」
呼び止められて、アデルは足を止める。
「……まだ、緊張しているの?」
アデルはすぐに答えなかった。
視線を落とし、わずかに息を整える。
「……ええ。正直に言えば」
短い沈黙のあと、続ける。
「あなたの隣に立つことに、まだ……慣れていません」
リュシエンヌは、ふっと息を抜いた。
「そう」
一歩、距離を詰める。
「でもね……
私は、あなたの妻なのよ?」
アデルの肩が、わずかに揺れる。
「……分かっています」
「分かってるなら、いいわ」
一拍置いて、リュシエンヌは続ける。
「今日は、あなたと一緒に」
アデルは驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと息を整える。
「……よろしいのですか」
「ええ……駄目かしら?」
一瞬、沈黙が落ちる。
アデルは拳を軽く握りしめたあと、静かに首を振った。
「いいえ。
……私のほうが、覚悟が足りていなかっただけです」
そう言って、ためらいがちに腕を差し出す。
「お隣に立つことを、許していただけるなら。
……今夜は、そちらへ」
リュシエンヌは、くすりと笑い、迷いなくその腕を取った。
――これでいい。
今は、それで満たされている。
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