K2
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「クソッ!またか!」シュイは遂に悪態をついた。誰もいないコミュニケーションルームにその声が響く。
『回線が遮断されました』
30分前から消えないメッセージ。つまり、定期連絡が30分遅れている事を意味していた。メッセージを映すモニターを睨みつけながら『煙鬼』に火を付ける。
標高8000mを超える位置にいるヘビースモーカーは俺くらいなもんだ。彼の決めゼリフである。灰皿にうず高く積もった吸い殻が、今自分がいる場所のミニチュアの様に見えて密かに気に入っていた。
新疆ウイグル自治区とパキスタンの間、カラコルム山脈。中でも『K2』と呼ばれる山の頂上付近に建てられた観測所に彼はいた。表向きはNGOの小さな天文台という事になっているが、実態は『C対策班K2支部』である。
カラコルム山脈は五つの山から成り、それぞれ名前が付いているのだが、K2だけは測量番号のままで呼ばれている。無論、数秘術的な計らいの為だ。
エベレストに次いで二番目の高さではあるが、登頂の困難さで言えば、世界一とされている。C対策班の支部は世界中に点在し、そして、決まって辺境に敷設される。敵の目に触れない様にする為なのだが、特にこのK2支部は辺境中の辺境だった。
一年中、お決まりの黒いスーツでいられる程、建物内の設備はかなり充実していて、不自由を感じる事はないのだが、人恋しさだけはどうにもならない。一日一回の定期連絡がシュイにとっては唯一の憩いの時になっていた。
それが30分も遅れている。
日本の【削除済】支部からの連絡がないのだ。こちらからのアクセスにも反応しない。K2支部に配属になって10年になるが、こんな事は今まで一度もなかった。由々しき事態ではあるのだが、今のシュイはどこか、恋人に裏切られた様な、感情的な気分を強く味わっていた。
「アンテナに問題はなかった。」気密ドアが音もなく開き、相棒のハリーシュが外から戻ってきた。ため息をつくシュイ。
やはり【削除済】支部に何かあったのだという思いと共に、この相棒の素っ気なさに出たため息…。
シュイが人恋しく思う最大の理由はハリーシュにあった。決して悪い男ではないのだが、どうも打ち解けない。ハリーシュの方が壁を作っている様に感じる。
あの話がいけなかったのかな…。
シュイは一度、自分が見た夢の話をハリーシュに聞かせた事があった。自分が蝶になって、世界中を飛びまわるという話だ。年甲斐もなくメルヘンチックな夢を見て、本来なら気恥ずかしくて口にしないところだったが、目覚めてからが妙だった。
夢の方が現実だった気がしてならないのだ。
今いる場所の方が、曖昧で、頼りない世界のように思えて、そのままの気持ちをハリーシュに話したのだ。
それからかも知れないな、あいつが距離をおく様になったのは…。
不意に指が熱くなった。見ると、『煙鬼』がフィルターの所まで焼けていた。慌てて灰皿に突っ込む。ハリーシュが怪訝な顔をしてこちらを見ている。
しまった。また人前で物思いにふけってしまった。悪い癖だぞ、シュイ!
取り繕う様にハリーシュに返事をする。「そ、そうか。じゃあやっぱり【削除済】支部に何かあったって事なのか?」
「最近はあっちが本部みたいになってるからな。何の反応もないのはおかしい。」
【削除済】市と言えば、Cが眠る場所。ほんの20年前に、その事実が発覚して世界中の漂流者が騒然とした土地である。
それから数年後、都市部が壊滅的な被害を被る巨大地震が起こった時には、誰もが思った。「Cのせいだ」と…。
そんな曰く付きの支部と連絡が取れない。まさしく由々しき事態だ。何かあったどころか、下手をすれば「時すでに遅し」という事もあり得る。
何が人恋しいだ。
シュイは自分を戒めた。仕事をしよう。ハリーシュを見習え。あいつは自分の役割をちゃんと理解している。
モニターに向き直り、他の支部の様子を伺う。
「【削除済】支部の次にヤバいトコって言やぁ、ケープタウン支部かホンコン支部だが、ココは通常通りの活動をしている………あぁ、他の支部も【削除済】とだけは連絡が取れてないみたいだ。」
各地の支部も相当な混乱に陥っている様だった。素数に変換された暗号文からそれが如実に読み取れる。ハリーシュも自分のスマホを忙しく操作している。別ルートで【削除済】支部との接触を図っているのだ。
深刻な顔をしているハリーシュを見て、シュイはまた思い出していた。夢の話をした時の事を。
ハリーシュは言った。「人間は苦しみにぶつかる事で現実を知る。もし蝶の様に、自由に飛び回れる事が現実だったら、この肉体は無意味なモノになってしまう。その夢の事は忘れた方が良い。」
正直、意味が判らなかった。肉体を捨てて自由になる事が悪い事みたいに聞こえた。「一切は無である。」とは仏教の教えではなかったか?その発祥の地であるインドの人間がそんな事を言うとは。シュイには理解できなかった。
と、突然、「何だこれは…!」スマホを見ていたハリーシュがあげた声に、シュイはビクッとした。
「ど、どうしたんだ?」額然とした顔つきに、只事ではない雰囲気を感じて立ち上がろうとしたその時、パソコンにメールが届いた旨を知らせるメッセージが出た。それと同時にシュイのスマホにも着信の知らせが。
連絡が取れない筈の【削除済】支部からのメールだった。
「お、おいコレ…。」言いかけて、おかしな事に気付いた。確かに発信元は【削除済】支部なのに、内容は定期連絡ではなかった。動画サイトのURLを送ってきていたのだ。
「何だこれは…?」ハリーシュと同じフレーズでいぶかしむシュイ。自分のスマホにも全く同じ内容のメールが届いていた。両方を開いてみる。それは、監視カメラで捉えた映像だった。カメラは数台あるらしく、時々アングルが変わる。真っ白な部屋。壁と床の境目が判らない程に白い。かなり広いのであろう、20人程の人間が映っている。
全員が銃を持っていた。
壮絶な銃撃戦。映像は絶妙なアングルでその模様を捉えていた。真っ白な床に鮮やかな鮮血が広がる。よく見ると皆、黒いスーツを着込んでいる。シュイ達と同じ様に。そして、そのほとんどが人間とは思えない顔つきをしていた。魚の様な顔…。
なんてこった…これはインスマス化…!
【削除済】支部が侵食されている!信じ難い映像だった。目まぐるしく変わるカメラが克明にその様子を映し出す。シュイはモニターとスマホの両方から目を離せないでいた。やがてカメラは一人の人物をアップで捉えた。…人物?
それはまるで炎の様だった。黒い炎。人の形にユラユラと揺れている。金色に光る3つの目が、カメラ目線でジッとこちらを見ている。いや…俺を見ている…シュイはゾッとした。俺はこいつを知っている…まさか…こんな事はあり得ない…あってはならない…!
「シュイ!そいつを見てはいけない!」ハリーシュが叫んでいたが、シュイの耳には届いていなかった。世界はシュイとその人物、二人だけになっていた。
「来い…こっちへ…来い…!」
あぁ、やっぱりそうだったんだ…やっぱり向こう側が現実なんだ…。
画面から目を離さないシュイ。ほうけた様な表情になっている。ハリーシュは自分のスマホを床に叩きつけて踏み潰した。彼も同じ映像を見ていたのだ。「ダメだシュイ!画面を閉じろっ!」乱暴に肩を掴み振り向かせた。それはもうシュイではなかった。
魚顔の者ー。
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「…遅かったか…」唇を噛むハリーシュ。彼はずっとシュイを心配していた。夢の話を聞いたからだ。荘子の逸話「胡蝶の夢」、それを自ら体験したと言うシュイ。それはつまり、漂流者の道を外れかけている事を表していた。荘子が眷属であった事は最近の調査で明らかになっていたが、シュイはそれを知らなかった。
「転ぶかもしれない。」ハリーシュは常に注意していたつもりだったが、これは不意打ちだった。しかしまだインスマス化は始まったばかり…救えるかもしれない…。
「シュイ!飲まれてはダメだ!自分を取り戻せ!」
シュイだった者はゆっくりと立ち上がった。「お前は漂流者だ!思い出せ!シュイ!」
「は…りいぃぃぃしゅう…」
「そうだ!俺だ!判るか?!」
ハリーシュにもう少し冷酷さがあれば、彼は今日、死なずに済んだかもしれない。
「きいてほしぃぃことがぁあるぅぅぅ…」
「な、なんだ?」
彼は銃を携帯していた。この日が来る事を予測していたのだ。仲間を撃たなければならないこの日を。
「はぁりいぃぃぃしゅうぅぅぅ…」
だが彼は最後まで仲間を救おうとしていた。
シュイだった者は彼の両腕を掴んでこう言った。
「間違っているのはお前の方だ!」
結局、最後の瞬間までハリーシュは銃の事に思いが至らなかった。
仲間を救おうという気持ちも、自分がこれから死ぬという事も考えていなかった。
ただ、圧倒的な恐怖の前に、悲鳴をあげる事しか出来なかった。
K2支部からの連絡が途絶えた2010年6月30日、23時30分。日本時間2010年7月1日、19時30分。この日、世界中のC対策班支部も機能不全に陥っていた。
【削除済】支部から発信された動画を開いた直後の出来事であった事が後の調査で判明した。
全ての支部に於いてインスマス化、若しくはそれに準じた侵食警報の痕跡が残っていたのだ。
発覚が遅れたのはどこの支部も辺境の地にあった為だった。
初めはゆっくりと、しかし確実にインスマス化の波は都市部へと広がり、やがて2012年、「アセンション」と呼ばれる、眷属による全世界同時多発侵食運動が勃発するのだが、
今はまだ誰も知らない…。
ー続くー




