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『見えない通報』

作者: 河崎ゆう

廃校の保存施設で記録を管理する警備隊長・風間。異動してきたばかりの彼は、前任者の残した「警備日報」の404号に違和感を覚える。そこには「この校舎には“数”が合わない場所がある」と書かれていた。やがて風間の周囲でも、人数が合わない奇妙な現象が起こりはじめる――。


「声なき声に、耳を澄ませろ」

― 無視された過去、記録から消された真実は、必ず誰かの心の底で叫び続けている。

人間の「記憶」と「忘却」、そして現代社会における「無関心」の恐怖物語


主要登場人物

有馬ありま たかし

年齢:45歳

性別:男性

職業:警備会社・統括警備隊長

性格:冷静沈着だが、過去にこだわりやすい執着気質

役割・関係性:物語の主人公。10年前の「未解決事件」の現場責任者でもあり、心に傷を抱える。真相を追う過程で次第に現実と幻覚の境界が揺らぐ。


村上むらかみ かなで

年齢:27歳

性別:女性

職業:若手警備員(夜勤担当)

性格:明るく論理的。幽霊などは信じない現実主義者

役割・関係性:主人公・有馬の部下。ある夜の「通報現場」にて奇妙な体験をし、恐怖と好奇心の狭間で揺れながらも事件に関わっていく。


葉山はやま みのる

年齢:60歳

性別:男性

職業:元施設管理人(退職後は沈黙していた)

性格:無口で頑固。何かを強く恐れている

役割・関係性:かつての未解決事件の関係者。有馬に接触し、「あのボタンがまた鳴ってるのか」とつぶやく。キーパーソン的存在。


三宅みやけ ひとし

年齢:34歳

性別:男性

職業:センター勤務のオペレーター

性格:皮肉屋で神経質。

役割・関係性:最初に「見えない通報」の存在に気づく。だが徐々に不安定になり、異常な行動を起こし始める。


相原あいはら 美樹みき

年齢:当時16歳(10年前に行方不明)

性別:女性

職業:女子高生(当時)

性格:写真や記録の中にのみ登場。

役割・関係性:10年前、今と同じ場所で忽然と消えた少女。彼女の「助けて」という通報が、今もどこかで鳴っている。


各章タイトル

第1章:通報記録404

第2章:封鎖フロア

第3章:あの音を聞いた

第4章:沈黙の証言者

第5章:押されたままのボタン

第6章:記録なき叫び

最終章:見えない通報の終わりに

第1章:通報記録404


第一節:深夜2時の警報

クロスタワー防災警備センター内、午前2時を回った。夜勤担当の警備員・村上奏は、無人の監視モニター群の中に、ひとつだけ赤いランプが点滅しているのに気づいた。


「……旧倉庫から? このフロア、使用停止じゃなかった?」


確認のために端末を操作する。表示された通報ログには、確かに『第4区・旧サービス階段脇』と書かれている。しかしその場所は数年前から封鎖され、定期巡回の対象からも外れていたはずだ。


村上は咄嗟に無線で呼びかけた。「センター、こちら村上。旧サービス階段脇に異常通報あり。現場確認に向かいます」


『……了解。慎重に』


オペレーターの三宅が短く応答したが、その声にわずかに戸惑いの気配が滲んでいた。


村上は手元の懐中電灯を確認しながら、エレベーターで地下へ降りていく。普段は足を踏み入れることのない静謐な空間。長い廊下にひとりきりの気配が、鼓膜に自分の呼吸音を大きく響かせた。


旧サービス階段の脇──そこには確かに、かつて非常通報ボタンが設置されていた鉄製の盤面があった。しかし、今は電源も切られ、押しても何の反応も返ってこないはずだ。


「……点いてない、な」


赤い点滅はすでに消えていた。現場は静まり返っており、床にも壁にも異常は見当たらない。


そのとき、背後から──気配がした。


カツン……カツン……


足音。だが、振り返っても誰もいない。


「おい、誰かいるのか?」


返事はない。だが、足音は確かに自分の背後にいた。あの一瞬だけ、風が動いたように感じた。


村上は拳を握りしめたまま、ゆっくりと後ずさるようにしてその場を離れた。


そしてセンターに戻ると、モニターの記録を確認しようと三宅に声をかけた。


「三宅さん、あの通報……録画されてる?」


三宅は険しい表情でキーボードを叩きながら首を振る。


「ない。いや、“ない”っていうか……ログはあるのに映像が空白なんだよ。エラーじゃない。最初から、そこには何も写ってなかったような感じでな……」


「ログは誰かが押したって示してる。でも、カメラには写ってない……」


村上は自分の腕に浮かぶ鳥肌に気づきながら、深く息を吐いた。


「三宅さん、こんなこと前にもありました?」


「……ああ。実はな、去年の今頃、全く同じ場所で……しかも“同じ日”に、同じような通報があったんだよ」


「それ、なんで記録に残ってないんです?」


三宅は無言のまま、ふっと笑ってから、こう言った。


「たぶん、消されたんだろ。誰かが、“何か”を見なかったことにしようとしてさ」


「……何を?」


三宅は村上をまっすぐ見た。


「まだ、知らない方がいい。だがな、あの非常ボタン……本当に“誰か”が押してるんだ」



第二節:無音のログ

その夜、村上は妙に寝つけなかった。ベッドに横になっても、旧フロアで感じた“気配”が頭を離れない。


朝方、目を閉じたまま耳を澄ますと、どこからともなくあの足音が──カツン、カツンと──近づいてきているようにさえ感じられた。


翌夜、村上は出勤するなり三宅のもとへ駆け寄った。


「三宅さん、あのログ、もう一度確認できますか? 音声データ、残ってましたよね?」


「おう。……ただし、聞きたくないなら今のうちに引き返せ」


「もう、気になってしょうがないんですよ。何か、おかしいって身体が言ってる」


三宅は端末を操作し、ファイル名《LOG404_A》を呼び出した。


「再生開始。こいつが“通報の直前30秒”だ」


スピーカーからは、ただのノイズが流れ出した。


ザ……ガ……キ……チ、……ザア……


金属が擦れるような耳障りな音が続き、その中に、何かが混ざっている。


「……待って、それ……人の声、ですよね?」


村上が言った。


三宅は頷き、モニターの横に置かれた外部ソフトを立ち上げる。


「この解析ソフトは“音の下層構造”を可視化できる。ノイズの奥にある周波数域を抽出する」


バーン、とソフトがログを走査し、音声波形が浮かび上がった。


そして再生された──


『……たすけて……』


少女のようなか細い声。それは間違いなく、人間の声だった。


村上は震えた指で、音量を少し下げながら呟いた。


「こんな……まさか……こんなはずない」


三宅もまた表情をこわばらせていた。


「俺たちは、何かを“見逃してる”んじゃない。……最初から、“見ないようにされてる”んだよ」


「どういう意味ですか?」


「この通報、最初から“ログにしか残らない構造”になってる可能性がある。誰かが記録だけを残して、映像と音声は“意図的に”外されたんだ」


「でも、なんのために……?」


三宅は深く息を吸い、答えた。


「それを知ってるのは、おそらく──あのボタンを“本当に押した誰か”だよ」



第三節:有馬の過去

警備センターの片隅、書類棚の裏に押し込まれた古いファイル群。埃を払いながら、警備隊長・有馬崇は無言で一冊の黒いバインダーを開いた。


《特例報告記録・第12号》──そこには10年前、施設内で発生した「未解決・失踪案件」に関する断片的な記録が残されていた。


「……やっぱり、処理されたままか」


有馬の声は低く、掠れていた。彼の目は、あるひとつの記述で止まる。


【2015年6月10日 午後5時47分/通報ログあり/対応記録なし】


彼はその日を、忘れてはいなかった。いや、忘れることなどできなかった。10年前、施設内で少女・相原美樹(16)が忽然と姿を消した日。


「通報は、確かにあった。だが……俺は、対応を止めた」


その日の夕方、非常ボタンが押されたという通知が届いた。有馬は巡回隊に確認を指示しようとしたが、システムトラブルと同時に発生した小火騒ぎにより対応は後回しにされた。そして、そのまま通報は「誤作動」として処理され、記録から消えた。


「“記録されていない声は、なかったことになる”……そのとき俺は、そう思い込んだ」


机に肘をつき、額を押さえる。有馬の頭の中に、当時の記憶が次第に甦る。


《隊長、この通報……一応現場確認した方が》


《放っとけ。システムの不具合だ。どうせガキのいたずらだろう》


当時の若い警備員の言葉を、冷たく切り捨てたのは、他でもない自分だった。


その翌日、少女は“消えた”。帰宅せず、姿を見た者もおらず、監視カメラにも痕跡は一切なし。


「俺は……見逃したんじゃない。最初から、“見なかったことにした”んだ」


胸の奥で、何かが冷たく軋む音がした。


そのとき、背後から声がかかった。


「隊長……?」


振り返ると、村上がバインダーを持って立っていた。彼女の表情は、どこか怯えていた。


「これ、昨日の夜のログをプリントアウトしたんです。……なんですけど、奇妙なことに気づいて……」


彼女が差し出した紙には、通報履歴が日付順に並んでいた。


「この“6月10日”って、今年だけじゃないんですよ。……毎年、同じ日に、同じボタンが押されてる」


「……なんだと?」


「しかも、どの記録にも“対応済み”の記載がない。毎年、誰も現場に行ってないんです。つまり……誰も応じていない」


有馬は静かに目を閉じた。


「それは“助けを求める声”が、10年も……誰にも届かず、今も……そこにあるってことだ」


村上は、震える手でメモを差し出した。


「これ、通報ログの一部ですけど……最後の行、気になりませんか?」


有馬はその行に目を落とした。


【通報元:端末E-13/備考:音声なし/通信状態:現在も送信中】


「“現在も送信中”……? まさか」


村上が囁いた。


「まだ、あの子は……助けを呼び続けてるんじゃないでしょうか」


有馬の心臓が、大きく脈打った。


10年前の声が、今もなお、誰にも届かず、闇の中で──


「……ああ。あの通報は、終わってない」



第2章:封鎖フロア


第一節:監視カメラの中の誰か


翌日の夜、警備センターでは有馬と三宅、そして村上が旧フロアの監視記録を再確認していた。


「監視カメラの映像は24時間録画されてる。封鎖フロアのカメラは電源オフになってるけど……一台だけ、電源が入ってた形跡がある」


三宅が言った。彼が示すのは“第4区-05”と記された端末ログ。


「一昨日の午前2時12分。録画ファイルの存在を確認。データには“自動上書き禁止”のフラグが立ってた」


「つまり、誰かが“意図的に”残した映像ってことだな」


有馬は腕を組んでうなった。


「じゃあ、見ようぜ。今さら目を背けても、意味はない」


映像が再生された。モノクロの粒子が荒い、低解像度の映像。廊下の奥に、非常ボタンがある壁面が映っている。


「……何も……ない?」


村上がそう言ったとき、ノイズが一瞬走った。


ガガ……ガ……ッ……


画面の右端、暗がりの中から“白い何か”がスッと現れた。


「……止めて! そこ、巻き戻して!」


三宅が巻き戻し、スロー再生に切り替える。


そこには確かに“誰か”がいた。


スカートの裾が揺れ、足元はローファー。白いセーラー服に、乱れた髪。


「……女子高生……?」


村上の声が震える。


その“少女”はまっすぐに非常ボタンの前に立ち、何かを呟くように唇を動かしていた。だが音声はなく、やがて右手をゆっくりと持ち上げ──ボタンに触れた。


「今の……通報の瞬間か?」


有馬が呟いたとき、画面が突然、ノイズに覆われた。


ザザザッ……キィ……ン……


そのノイズの中で、一瞬だけ“少女の顔”が画面いっぱいに映り込んだ。


血の気のない肌、濡れたような髪、無表情の目。


「おい……今の、見たか……?」


「……ええ、見ました。……間違いなく、“こっちを見てた”」


村上は震えながらも、映像をもう一度巻き戻そうと手を伸ばした。


だが三宅がその手を制した。


「やめとけ。何度も見たら……戻れなくなるぞ」


「戻れなく……?」


三宅はぼそりと呟いた。


「俺は去年、その映像に気づいた。でも、上に報告したら……“そんな記録はない”って言われた。ログごと消されて、代わりに“定期メンテナンスの録画”が入ってた」


「消された? 誰が……」


「知らねぇよ。でもな……あの子は、映るんだよ。誰かが、ちゃんと“見よう”としたときだけ」


その瞬間、警備センター内の照明が一瞬だけ明滅した。


パチ……パチ……ッ。


まるで何かが、そっと息を吹きかけたかのように。


有馬は静かに立ち上がった。


「俺はあの映像を“見た”。つまり──あの子は、まだ“伝えようとしてる”」


その言葉に、村上もまた立ち上がる。


「……なら、ちゃんと聞かないといけませんね。今度こそ」



第二節:管理人・葉山の証言


有馬はひとり、薄曇りの夕暮れに旧館の外れにある官舎を訪れていた。そこにはかつて長らく施設管理人を務めていた男──葉山泰造が、今も暮らしているという。


インターホンは鳴らしても応答がなかった。だが扉の向こうから、テレビの音と、人の気配が確かに漏れていた。


「葉山さん、有馬です。警備隊長の。……どうしてもお話を伺いたいことがあって」


数秒の沈黙ののち、ガチャリと錠前の外れる音。


ゆっくりと開いた扉の向こうに現れた男は、年齢のわりに痩せこけ、目の奥に宿る光だけが異様に鋭かった。


「……来ると思ってたよ。あんたが、あの記録に触れた時点でな」


「記録……?」


「“あのボタン”の話だろ? 10年前の、あれだ。まだ鳴ってる。誰も、止めちゃいないんだ」


葉山は有馬を中へ招き入れた。部屋の壁という壁には、防音材が隙間なく貼られていた。天井にも、床にも。テレビの音は異様に小さく、室内は密室めいた沈黙に包まれている。


「……なぜ、こんなに?」


有馬が尋ねると、葉山は壁のひとつをゆっくりと叩いた。


「夜になると聞こえるんだよ。あの足音が。……廊下を歩いて、あの子が、またボタンを押しに来る音がな」


「“あの子”……やっぱり、相原美樹さんですね?」


葉山は黙って頷いた。


「俺はあの日、確かに通報があったのを知ってた。……でもな、有馬隊長。“誤報”だと上から言われれば、それに逆らえる立場じゃなかった」


有馬の眉がわずかに動く。


「じゃあ、あなたも──見なかったことにしたのか」


葉山は乾いた笑いを漏らした。


「……違う。“見なかったことにしろ”って言われたんだ。あんたも、心当たりがあるだろ? あのボタンに関わる記録だけ、なぜかどれも中途半端にしか残ってない」


「確かに……通報はあるのに、映像も音声も抜けてる」


「それが“仕様”なんだよ、隊長。最初から……“見えなくされてる”んだ」


葉山は小さな引き出しから、一冊の古びた手帳を取り出した。


「これが、俺がこっそり残した記録だ。“あの夜”以降、毎年6月10日に、必ず何かが起きてる。電源を切ってあるはずのセンサーが反応したり、誰もいない廊下で扉が開いたり」


有馬はページをめくり、ある記述に目を止めた。


『6月10日/午前2時12分:旧倉庫警報ランプ点滅──通報なし。壁面に“濡れた手形”確認』


「これ……」


「誰も信じなかったよ。だけどな、有馬隊長。あの子はまだ“伝えようとしてる”。この十年、ずっと誰かを呼び続けてる」


葉山は一瞬、有馬の目を見つめた後、ふっと目を伏せた。


「忠告しとく。……もう深入りするな。この建物ごと“何か”に呑まれるぞ」


「それでも、俺は──」


「……止められないのか」


「止めたくても、遅すぎた。……“あの夜”、俺が応じていれば、何か変わっていたかもしれない」


葉山はソファにもたれかかり、視線を宙にさまよわせた。


「……“聞かなかった”人間は、みんな……いつか、“聞かされる”んだよ。今度は、逃げられないくらいにはっきりとな」


そのとき、有馬の携帯端末が静かに震えた。


表示された通報ログ──“第4区・旧サービス階段脇/通報元:不明/送信中”。


再び始まった、“あの通報”だった。



第三節:旧倉庫に響く音


夜半、警備センターでは交代時間を迎えようとしていた。有馬は仮眠室へ、三宅は通報ログの整理のため本部へ向かい、一時的に警備室は村上一人となった。


──ピピッ。


モニターに、再び“第4区・旧サービス階段脇”の赤ランプが灯った。


「……また?」


村上は椅子から立ち上がり、手早くベストを着込んだ。耳元のインカムには何の通信も入ってこない。……いや、ノイズだけが微かに混じっている。


『──……たす……て……』


誰かの声。それがノイズに埋もれるようにして断続的に届いてくる。


「今度は……行かなきゃ」


そう呟いて、村上はひとり、地下へ向かう通路を歩き出した。


静まり返った廊下。壁の蛍光灯は薄暗く、奥へ進むほど光は途切れ、まるで足元から闇が這い上がってくるようだった。


「別に、怖くなんかない……そう、ただの誤作動。何度もそうだったじゃない」


そう自分に言い聞かせながら、村上は鍵を開け、封鎖された旧倉庫の扉を開けた。


ギィ……と重たい音が鳴る。


内部はほこりっぽく、古びた書類棚と散乱した備品が雑然と積み上げられていた。


「異常確認、旧サービス階段脇……」


呟きながら進む。足元に置かれたペン立てが突然転がる。


「……えっ、なに、今の……」


誰もいない。だが、次の瞬間──


カツン……カツン……


背後から、誰かの足音が、確かに聞こえた。


「有馬隊長? 三宅さん……?」


返事はない。


「……ふざけてるなら、やめてください……」


心臓が音を立てて跳ねる。ゆっくりと振り返るが、誰の姿もない。


「おかしい……確かに、今……」


村上は手元のライトを照らしながら、非常ボタンの盤面へと近づいた。


古びて、薄く埃をかぶったそれは、静かにそこに佇んでいる。


「……これが、あのボタン……」


村上は息を止め、指を伸ばした。


そして、ボタンに触れようとした瞬間──


カチ……ッ。


微かに指先に伝わる“クリック感”。


だが、それは──自分の力ではない。


「あれ……?」


まるで、自分が触れるより先に、“誰かがすでに押していた”かのような感触だった。


「え、うそ……今、誰か……いた?」


と、そのとき。


手元の懐中電灯がふっと消えた。


そして、闇の中。


──カツン、カツン、カツン。


すぐ後ろ。確実に“誰か”が、近づいてくる。


村上は息を飲み、振り返ることもできずにその場に凍りついた。


──次の瞬間、背中にふわりと、濡れたような“髪”が触れた。


「……っ!!」


叫ぼうとした口から、声が出なかった。


その沈黙の中、非常ボタンが再び──カチ……ッ、と音を立てた。



第3章:あの音を聞いた


第一節:錯乱するオペレーター


三宅はモニター前の椅子に深く座り込み、肩で息をしていた。


額には汗。目は見開かれ、唇は微かに動き続けている。


「……聞こえる……聞こえる、聞こえる……彼女は……そこにいるんだ……っ」


有馬が警備センターに戻ったとき、真っ先に気づいたのはその異様な光景だった。


「おい、三宅。どうした、何があった」


声をかけると、三宅はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


その目は、焦点が合っていなかった。


「隊長……あれは……“録音されてる”んですよ。ずっと……この部屋に……前からいたんですよ……」


「録音……? 何を言ってる?」


三宅は震える指で録音装置のスイッチを押した。


──キィィ……ガガ……ガサガサ……


聞こえてきたのは、かすれたノイズと共に、逆再生されたような子供の声だった。


『……ろこ……こにとず……てし、てけみ』


「これは……逆再生音? だが、この声は──」


三宅は両手で頭を抱えた。


「俺、再生してはいけないって……直感で分かったのに……止められなかった。ずっと……あの倉庫の音が耳から離れなかったんです……っ」


再生は続いていた。


『……みつけて……ずっとここ……さむい……こわい……』


「……今の、“みつけて”って……」


村上が入口から顔を覗かせた。明らかに様子がおかしい三宅に気づき、慌てて駆け寄る。


「三宅さん! どうしたんですか、しっかりしてください!」


「彼女が……あの子が……まだこの中にいるんだ。誰も……気づかなかっただけで……! 俺たち、呼ばれてるんだ……呼ばれてるのに……無視して……っ」


三宅は絶叫した。


「聞こえただろ!? 『みつけて』って……っ! なんでみんな平気なんだよ!!」


その瞬間、照明が一斉に明滅した。


モニターがノイズに覆われ、録音装置のスピーカーからは今度、はっきりとした少女の声が響いた。


『ここに……います……』


全員の背筋が凍りついた。


その声は、機械の向こうからではなく、まるで……“この部屋のどこか”から発せられているかのようだった。


「まさか……この部屋に……?」


有馬が低く呟いた。


その瞬間、センターのドアの外から──


カツ……カツ……カツン……


足音。


乾いた、しかし異様にゆっくりとした足音が、確実に近づいてくる。


「……来るな。来るな……!」


三宅は耳を塞ぎ、背中を丸めた。


有馬は村上をかばうようにして、ドアに近づいた。


「誰だ……そこにいるのは誰だ!」


返答はない。だが、足音は止まった。


そして──ドアのすぐ向こうから、囁くような声が聞こえた。


『……みつけて……』


その瞬間、すべての機器が一斉にシャットダウンした。


無音。


機器のハードディスクが静かに停止する音だけが、かすかに残った。


有馬は唇を噛んだ。


「……三宅。もうお前は、下がれ。あとは俺が責任を持つ」


三宅は項垂れ、震えながらも静かに頷いた。


村上も、再起動した記録端末に視線を落としながら言った。


「隊長……これ、本当に“通信”なんですかね? 私……“遺言”なんじゃないかと思えてきて……」


有馬の瞳に、一瞬だけためらいの色が浮かんだ。


「……いや、まだだ。助けを求めている限り……あれは“生きている声”だ」


だが、その“声”が意味する“生”とは、はたしてどこにあるのか──その確証は、誰にもなかった。



第二節:ログの深層


有馬は、夜の警備センターでたった一人、旧システムへの接続を試みていた。部屋の灯りは最小限に落とされ、モニターだけが青白く輝いている。


「これが……“深層ログ”の入り口か」


公式には存在しないログ・モード──旧セキュリティソフトウェアの裏口。10年以上前に使われていた記録方式が、いまだ深くシステム内部に残されている。


「上層部の管理画面じゃ入れなかった。……だが、俺はあの頃、開発担当からテスト用のバックドアコードを聞いていた」


有馬はキーボードを叩きながら、忌まわしい記憶を辿っていた。思い出すのも苦痛だ。だが、もう目を背けることはできない。


──“お前は、対応を止めた。声を聞いたくせに”──


画面が切り替わる。ノイズ混じりのファイル一覧。


『2015/06/10_log_sysfail_47a.tmp』

『2015/06/10_voice_fragment_13b.rec』

『2015/06/10_emergency_button_response_error』


「これだ……この日、このファイル……!」


有馬は指先で震えながら選択する。音声ファイルが再生される。


──カサ……ガサ……


『……ひとり……さむい……だれか……きて……』


少女の、震えるような声。


有馬の背筋に冷たい汗が伝った。


「間違いない。あの通報は、“あった”んだ。あの日……確かに、あった」


そしてもう一つ。操作記録ファイルが開かれる。


【通報受信:2015年6月10日/17:47】

【担当者:有馬 崇(警備隊員)】

【指示内容:巡回班確認中止・記録保留】

【備考:誤作動として処理】


「……俺が……止めた」


有馬は両手をゆっくりと顔に当てた。


「“騒ぎを大きくするな”……上の命令があった。タイミングが悪かったんだ。システム障害、小火、上層部の視察……」


彼は椅子にもたれ、うめくように呟いた。


「でも……だからって、俺が……あの通報を……見殺しにしていい理由にはならなかった」


静かに、イヤホンから再び少女の声が流れ出す。


『おねがい……わたし、ここにいる……』


「……そうだ。お前は……“そこ”にいた。俺が、見なかっただけだ……」


そして、そのファイルの最終記録には、こうあった。


【最終発信:継続中(未応答)】

【音声転送:現在進行中(再送回数・上限超過)】


「10年間……あの通報は、止まっていなかった……」


そこに、村上がゆっくりと部屋へ入ってきた。


「隊長……全部、聞いたんですね」


「ああ。……俺が、殺したんだ。あの子を」


村上は静かに首を振る。


「違います。殺したのは、見ようとしなかった、全員です。私も、三宅さんも、上の人たちも。……でも今からでも、見られるなら……」


有馬は深く頷いた。


「なら、見るしかない。今度こそ、最後まで」


そのとき──


ログ画面の中に、突然“未確認ファイル”のアイコンが浮かび上がった。


『found_you.now』


「……これは?」


クリックすると、またしても音声が再生された。


『……ずっと……ここにいたのに……どうして……どうして……』


叫びとも泣き声ともつかないノイズが、イヤホンを突き抜けて響いた。


『みつけてよ……やっと……みつかったのに……』


そして、最後に──


『次は……あなた』


その言葉と同時に、センター全体の電源が一瞬、全て落ちた。


「っ……停電!? 非常電源に切り替えろ!」


だがモニターは二度と光らなかった。


暗闇の中、警報だけが、どこか遠くで鳴り始めた。


──キィィィ……ン……キィィィ……ン……


まるで、何かが“外から”センターに向かって、侵入しようとしているかのように。



第三節:少女の幻視


停電したはずの警備センター内に、奇妙な光が漂っていた。


有馬は立ち尽くしていた。自分の呼吸音と、静電気がはぜるような音だけが耳に残る。


そして──見えた。


廊下の奥、非常ボタンの前に、うずくまる“白い影”。


「……あれは……」


少女。


白いセーラー服。濡れた長い髪。肩を震わせ、静かに、何かを呟いている。


「みつけて……たすけて……」


声にならない囁き。それが、脳内に直接響いてくる。


有馬はゆっくりと歩みを進めた。足音を立てないように。幻視だと分かっていても、その場から目をそらせなかった。


「……君は、あの時の……相原美樹……か」


その名を呼んだ瞬間、少女は顔を上げた。


──目が、ない。


眼球が存在していないはずのその“窪み”が、こちらをまっすぐに見ている気がした。


「どうして……どうして、誰も……来なかったの……?」


口だけが、ゆっくりと動いた。


「押したの……何度も……何度も……」


「……俺は……お前の声を……」


「聞かなかった。……そうでしょ」


有馬は言葉を失った。


そのとき。


警備センターのすべての端末が、一斉に起動を始めた。


ブオオオオン……ガガ……ピッ。


警報ランプが異常点滅。


モニターには一様に、同じ映像が映し出されていた。


──白いセーラー服の少女が、非常ボタンの前で泣いている姿。


そして、スピーカーから溢れる音声。


『助けて……助けて……助けて……たすけて……』


止まらない。端末が勝手に再生を始める。


デスク端末。携帯端末。監視カメラの音声チャンネル。録音装置。


センター中の“声”が、すべて「助けて」に変わった。


「隊長!」


村上が駆け込んできたが、その声もかき消される。


『……たすけて……たすけて……ずっとここにいるのに……』


有馬は膝をついた。


自分の中で、記憶が暴れ出していた。


──10年前、あの日。


彼は、少女の声を聞いた。


だが、その声が“厄介なもの”になることを恐れて……ログを消した。


「ごめん……ごめん……俺が、お前を、殺したんだ……っ」


涙が床に落ちた。


その瞬間、すべての警報が止まった。


静寂。


有馬が顔を上げると、目の前には──少女が立っていた。


顔が見えない。だが、その存在は確かに“生きている”と感じた。


「あなたが……みつけてくれたの?」


「遅くなって、すまない。……やっと、お前を……見つけた」


少女は、ふっと微笑んだように見えた。


そして、そのまま──空気に溶けるように、消えていった。


同時に、センターの電源が一斉に復旧。


すべての機器は正常に戻り、騒音も警報も止まっていた。


「……終わった……のか?」


村上が呟いた。


有馬は立ち上がり、深く息を吐いた。


「いいや。……ようやく、“始まった”んだ」


彼の目は、モニターの片隅に浮かび上がった、新たなログを見つめていた。


『通報受付:2025年6月10日/21:14』


『通報者名:相原美樹』


『状態:受付完了』



第4章:沈黙の証言者


第一節:葉山の告白


警備センターの会議室。古びた長テーブルの上に、記録用のICレコーダーと厚みのある封筒が置かれていた。葉山が震える手で封筒を開け、古びた紙束を取り出した。


「……俺は、話さなきゃならないと思ってた。でも、怖くて、ずっと……できなかった」


有馬と村上が黙って座っている。葉山は喉を鳴らし、一枚の紙をそっとテーブルに置いた。


「これが、当時の“巡回拒否”記録。2015年6月10日、午後五時四十七分──非常ボタンが鳴った。俺はその場にいた」


「じゃあ、やはり……」と有馬。


葉山はうなずいた。


「ああ、確かに“鳴った”んだ。でも、対応はされなかった。理由は“いたずらの可能性が高い”……それだけだ」


「どうして、そんな判断を?」


「……その前の週、子供の悪戯が何件か続いたんだ。誰も、まさか本物の通報だとは思わなかった。いや……思いたくなかったんだ」


葉山の声が低くなる。


「“見なかったこと”にすれば、騒がなくて済む。余計な手間が増えずに済む。そうやって俺たちは、自分たちを守った。少女を……犠牲にしてな」


有馬は目を伏せた。


「……彼女は、あの非常ボタンを何度も押していたんですか?」


「数十回に及ぶ連続反応があった。それも、あの階段の非常ボタンからだけだ。……でも誰も、確認には行かなかった」


「誰も?」と村上が呻くように問う。


「誰も、だ。俺を含めてな。結局、夜が明けた時──あの少女は姿を消していた。施設内のどこにもいなかった」


葉山は、静かに息を吐いた。


「そして……誰も、追跡を命じられなかった。上から“処理済み”と通達が来て、それっきりだ。俺たちは、口を閉ざすことが“仕事”になった」


「……なぜ、今になって語ろうと?」


有馬の問いに、葉山は目を閉じたまま答える。


「声が……聞こえるからだよ。有馬。夜中になると、部屋の隅から、小さなすすり泣きが……“押してるのに、誰も来ない”って……聞こえてくるんだよ」


そのとき、ICレコーダーのランプがひとりでに点灯した。


『……まだ……ここにいるよ……』


録音されていたはずのない音声が、再生された。


有馬と村上は凍りつく。


葉山は苦笑した。


「な? 聞こえたろ。俺だけじゃない。お前たちにも、もう聞こえてる。……あの子の声が、さ」


「葉山さん……」


「これが、俺の“証言”だ。有馬、お前が受け取れ。……俺は、今日限りで辞める」


そう言って、彼は立ち上がった。足取りは、異様なほど静かで、決意に満ちていた。


「これ以上……俺には、耐えられない。今度は、誰かが……“見て”くれ」


その夜、葉山は手記を残し、誰にも看取られることなく、自ら命を絶った。



第二節:録音された記憶


夜。警備センターに響くのは、葉山の残した録音ファイルだけだった。


机に並んだ小型カセットテープの山。葉山が自宅で密かに残していた“記録”は、驚くほどの数だった。


村上は、古いラジカセの再生ボタンに手をかけながら、有馬に視線を向けた。


「……本当に、聞くんですか? 内容次第では、警察に提出した方が──」


「……警察が“聞いてくれる”なら、こんなことにはなっていない。俺たちが聞く。それが、今の俺たちにできることだ」


有馬の言葉に、村上は頷き、再生ボタンを押した。


ガチャ、という機械音。テープが回り始める。


──シャアア……カチ……


『……記録開始。2015年6月10日、深夜1時12分……』


音声の中の葉山は、疲れたような声だった。


『……今日は、妙に静かだ。だが、ボタンの灯だけは……点いたまま、消えない』


『……エントランスの警報は解除されたままだ。誰かが、どこかで押しているのか? それとも──』


突然、録音に雑音が走る。


──ガリガリ……ガリ……


そして、微かに、すすり泣くような声が混じった。


『……くるしい……さむい……』


村上が、テープを一時停止する。


「これ……誰の声ですか?」


「相原美樹……10年前に“姿を消した少女”だ。間違いない。音声照合すれば……すぐ分かる」


「でも……こんなに明確に入ってるなんて……葉山さん、なぜこれを黙っていたんでしょう」


「……黙っていたんじゃない。誰も“聞こうとしなかった”んだ」


再生が続く。


『……なぜ……誰も……こないの……』


泣き声に混じって、少女の呟きがはっきりと入る。


『……おねがい……きいて……』


そこから先は、ひたすらすすり泣きが続いていた。音声は約9分間。ノイズと嗚咽、そして最後の一言で終わる。


『……まだ、ここにいるよ……』


村上が手を口に当てた。


「……まるで、死んでないみたいですね。今でも……この施設の中に、彼女がいるとでも言うような……」


有馬は、黙ったままファイルを取り替え、別のテープを再生した。


──カチ……カチ……


『……これは遺言だ。有馬……お前が聞いてると信じて、残す』


葉山の声だった。


『俺は……もう限界だ。あの夜、俺は、通報を見なかった。いや、見て、無視した。そうすれば、自分を守れると思った。だが──違った』


『俺は今も、あの声に“呼ばれて”いる。夜中、枕元で……彼女が俺の名を呼ぶんだ。泣きながら、“たすけて”って……』


『すまなかった。……どうか、有馬。今度こそ、お前が、彼女の声を“最後まで”聞いてやってくれ』


録音が終わる。


その瞬間、ラジカセのランプがひとりでに点灯した。


『録音、再開します──』


「……なんだこれ。自動起動か? いや、そんな機能は……」


その時、機械から聞こえてきた声は──葉山ではなかった。


『きこえてるの? いま……きいてる?』


少女の声だった。


『まえは、だれも……こなかった。みんな、しらないふりして……』


『でも……あなたは、きこうとしてる。わたし、わかる……』


『おねがい……ボタンを、おして。わたし、まってる……』


その声が消えた瞬間、ラジカセは煙を上げ、停止した。


有馬は立ち上がった。


「……村上。俺は、行く」


「どこへ……?」


「……あの非常ボタンの前へ」


「ひとりで!? 危険ですよ、隊長!」


「これは俺の贖罪だ。俺が、彼女の声を無視して、殺した。なら──今度こそ、応える番だ」


その背中には、覚悟の重みが宿っていた。


扉の向こうで、少女のすすり泣きが再び聞こえた気がした。



第三節:警備隊長の贖罪


封鎖フロア──十年前、少女が消えた場所。


非常灯だけが赤く点滅し、静かな音も、誰の足音もない。冷気だけが、押し寄せるように通路を満たしていた。


有馬は重い足取りで階段を降り、かつて“通報が無視された”非常ボタンの前に立った。


その場所は、奇妙な静けさに包まれていた。


──キィ……ン……


耳鳴り。


そして、かすかに、すすり泣くような声が響く。


「……ここに……いたの……ずっと……」


白い光が、ボタンの真上に現れた。


やがてそれは、人の形を成す。


少女。白いセーラー服。涙の痕。影のない眼差しが、まっすぐ有馬を見ていた。


「……君は……やっぱり、ここにいたんだな」


有馬の声は、震えていた。だが、逃げなかった。


「俺は……君の声を、無視した。あの日、通報ログを握り潰し、“面倒な仕事”から目を背けた。……その結果が、君の……」


少女は言葉を返さない。ただ、そこに“存在”していた。


有馬はボタンに手をかけた。だが、押す前に、少女が微かに首を振った。


「……違う。そうじゃない、のか?」


少女が、指を差した──自分の胸元に。


有馬はゆっくり近づき、指の先を辿るように、その場所を見つめる。


そこには──かすかに、もう一つの非常ボタンが“埋め込まれていた”。


「……こんな場所に……!?」


光の粒が舞い、空間がゆがむ。異様な重圧と共に、映像のようなものが脳裏に焼きついた。


──十年前。少女が、手を伸ばし、何度も押していた。


──しかし、表示されるログは“通常の非常通報”とは別の記録系統に送られていた。


──誰にも届かない回線。誰にも“見えない”通報。


「……“見えなかった”んじゃない。……“見えないようにされていた”んだ……!」


有馬は怒りに声を震わせた。


「お前たち……何を隠してたんだ……上層部の連中は……!」


少女の影が一歩近づく。


その影が、静かに唇を動かす。


「おして」


「……ああ。今度は……ちゃんと押す。誰の指示でもなく、誰の責任でもなく、“俺自身の意思”で」


有馬は、手を伸ばす。


その瞬間、施設全体に異常が発生した。


天井からの落下音。警報音。電子音の大合唱。


しかし有馬の手は迷わなかった。


──カチリ。


非常ボタンが沈む音が、異様な静けさの中で響いた。


全館の照明が、まばゆいほどに点灯した。


それと同時に、セキュリティモニターが一斉に稼働。


全端末が、過去十年間の“未応答通報”を遡って表示した。


その数、100件を超えていた。


「……これが……“見えなかった”全てか」


有馬の視界に涙がにじむ。


すると、光の中で、少女の姿がふわりと微笑んだように見えた。


「ありがとう」


その声を最後に、彼女の姿は霧のように消えた。


有馬は、ぽつりと呟いた。


「もう……誰の声も、無視しない」


──その瞬間、センターのシステムが自動的に更新された。


『新システム起動:緊急通報“ALL-LINK”開始』


『すべての声を、すべての端末に──』


光は収まり、静寂が訪れた。


だがその静けさには、どこか確かな温かみが宿っていた。


誰かが、ようやく“届いた”という確かな証として。



第5章:押されたままのボタン


第一節:侵食


午前2時46分。


静まり返った警備センターの中央監視室。その中で、ただひとつの“音”だけが鳴り続けていた。


──カチ、カチ、カチ。


非常ボタン。


押されたままの状態から、わずかに戻ろうとするような機械音を立てながら、しかし決して完全には戻らない。


村上が顔をしかめながら、手帳に記録をつけていた。


「……押されたまま、3時間34分……このままだと回線が焼けるかもしれない」


「構わない」


有馬は、監視卓の椅子に座ったまま、黙って録音再生装置を起動した。


スピーカーから流れるのは、既におなじみとなった少女の声。


しかし──


『……おねがい……きいて……』


──その音が、明瞭に、誰の耳にも届くようになっていた。


「音質が……違う。まるで、今この部屋で……」


「いや、“この部屋で”じゃない。“この部屋に”来ているんだ」


有馬が立ち上がる。


その瞬間、三宅が叫び声を上げて部屋に飛び込んできた。


「やめてください!やめてください!あいつが!また呼んでる!また……また耳の奥で!」


彼は頭を抱え、壁に身体を打ち付けるようにして崩れ落ちた。


「……三宅、落ち着け!」


「いないんです!誰もいないのに、声がするんです!押してるんです、何度も!何度も!俺の心の中のボタンを!」


彼の手は、宙を押すように痙攣しながら動いていた。


「“見つけて”って……“ここにいるよ”って……ずっと言ってるんです!俺にだけじゃない!皆に……!」


次の瞬間、三宅は何かに“反応するように”急に立ち上がり、走り出した。


「待て、どこへ行く!」


村上の呼びかけも虚しく、彼は非常ドアを開け、闇の廊下の向こうへと姿を消した。


それ以降、三宅の姿は見つかっていない。


ただ──監視カメラには、彼が誰かの「手を引かれるようにして歩いていく」姿が、記録されていた。



第二節:ボタンの裏側


「これが、あの非常ボタンの裏側……」


村上がつぶやいた声が、廊下に微かに反響した。


警備センターの裏区画、通常では立ち入りが制限された保守回路の一角。機材の埃をかぶったパネルを外すと、奥には複雑な配線が縦横無尽に走っていた。


「10年前の回線……いや、もっと古いな。90年代の設計か?」


有馬は懐中電灯の光を配線に沿わせた。


ボタンから伸びるラインが一度、旧式の中継器を経由し──そこから不可解な枝分かれをしていた。


「なんだ、この……分岐?」


村上が声をひそめる。


「本来なら、全ての非常ボタンの信号は管理室とメインサーバに送られる。それ以外の接続なんて、あるわけがない」


しかし、目の前の現実がそれを否定していた。


「見てください、これ」


村上が中継器の小さな表示窓を指差した。そこに、緑色のLEDがひとつだけ点灯していた。


──“接続中”。


「現在稼働中の回線が……一本ある」


「でも、それって……どこに繋がってるんだ?」


有馬は回線マップを展開し、配線の末端を辿っていく。


「……信じられない」


「どうしました?」


「この回線……“地下F4階”。10年前に封鎖された、あの事故以来、誰も立ち入っていない階層に繋がってる」


村上が息を呑んだ。


「でも、それは……物理的に閉鎖されているはずでは?」


「物理的には、な。だが信号は“届いてる”。つまり……向こうにも“受け取る存在”がいるということだ」


“受け取る存在”。


その言葉の重さに、二人の間に沈黙が落ちる。


「それに、この回線……“呼び戻し信号”を受けてる」


「呼び戻し……?」


「三宅が消えた直後から、非常ボタン側が“自動発信”を続けてる。……あたかも、誰かを“招こう”としてるように」


「まさか、三宅も……」


そのとき、回線モニタに微かな変化があった。


『No.58──Status:Incoming Signal』


「信号を受信してる……?どこからだ……?」


画面に新たなラインが出現する。


“UNKNOWN DEVICE:接続中──信号形式:PHS第2世代”


「PHS……?」


「古い。2000年代初期の仕様だ。今では通信インフラがすでに絶えているはずなのに……」


「まさか……」


有馬は目を見開く。


「……10年前、少女が持っていた“壊れたPHS”──まさか、今も通信し続けてるっていうのか?」


「物理的には不可能です。バッテリーはとっくに切れてる。……でも、回線は“開いてる”」


その事実が示すもの。


“物理法則を超えて、何かが接続を維持している”。


村上が震える声で尋ねる。


「隊長……これって、もしかして“あの子が”……」


「……呼んでるんだ。ずっと、10年間、誰かが応答するのを待って……まだ、そこにいる」


有馬は拳を握り締めた。


「行こう、村上。地下F4階だ。……すべての始まりが、そこにある」



第三節:封印された階へ


冷たい空気が、地下F4階の封鎖扉の前に立つ二人の肌を刺した。


そこは本来、10年前の事故──「通報未対応の少女行方不明事件」以降、完全に立入禁止となった区域だった。扉は分厚い鋼鉄でできており、通常のIDカードでは開かない。


有馬は懐から、かつての上司から引き継いだ“特別解除コードカード”を取り出す。


「……これを使うのは、最初で最後にするつもりだった」


村上が隣で息をのむ。


「……覚悟は、できてます」


カードを差し込む。


赤いランプが点滅し、次の瞬間、静かな電子音とともに扉が開いた。


──キィィィィィ……


薄暗い、埃まみれの通路が現れる。


「照明……動きませんね」


「構わん。懐中電灯で進む」


ふたりは足音を忍ばせながら、階段を降りていく。


通路の奥には、小さな扉があった。錆びた金属のプレートには「備品ロッカー室」と書かれていた。


「ここか……」


扉を開くと、そこには時が止まったままの空間があった。


棚の上にはホコリをかぶった書類や古びた制服が無造作に積まれており、部屋の片隅には学生用のロッカーが整然と並んでいた。


その中の一つ──中央に位置するロッカーの扉が、わずかに開いていた。


村上が息を呑む。


「……誰かが、最近開けたような……」


「あるいは、“中から”開いたのかもな」


有馬がゆっくりとロッカーを開ける。


中には、古びた制服、日記帳、そして、半ば砕けたPHS端末が置かれていた。


「……これが……相原美樹の、持ち物……」


制服の胸ポケットには名札が残っていた。


“相原 美樹”


日記帳の表紙は剥がれ、カビに侵食されていたが、ページの一部はかろうじて判読可能だった。


有馬は震える手で、ページをめくった。


『……警備室のおじさんは、やさしい。今日、落とした鍵を届けてくれた。』


『でも、昨日からずっと、何かが、私のあとをつけてくる……』


『ボタンを押したのに、誰も来なかった。怖かった。誰か、きいて……』


そして、最後のページには、こう書かれていた。


『きこえてる? ねえ……ほんとに、誰か、きこえてる?』


その下に、小さな文字で電話番号が書かれていた。


“090--”


「この番号……」


村上がさっとタブレットを取り出し、記録された信号履歴と照合する。


「一致……してます。現在も“発信し続けている”番号です」


PHSを手に取った瞬間──


端末の画面が、突如として“再起動”を始めた。


──PHS起動中──


「まさか……電源が生きてるのか?」


「ありえません、これだけ破損していて……」


だが、画面にははっきりと通話履歴が表示された。


最終通話日時:2015年6月10日 01:12


最終発信番号:警備センター(旧非常通報)


有馬の顔が青ざめる。


「この“最後の通報”……確かにあったんだ。彼女は、必死に助けを呼んでいたんだ……」


そのとき、PHSから着信音が鳴った。


──トゥルルル……トゥルルル……


「……いま、誰が……?」


着信元:UNKNOWN DEVICE


画面に、ノイズ交じりの映像が浮かび上がる。


それは、ボタンを押し続ける少女の姿だった。


薄暗いフロア。制服姿の少女が、涙を流しながら、非常ボタンを何度も何度も押している。


その背後に──微かに、歪んだ人影が立っていた。


「……だれ、だ……あれ……」


有馬が一歩前へ踏み出す。


すると突然、室内の非常ランプが点滅を始めた。


──ピピッ、ピピッ、ピピッ!


その明滅に合わせて、ロッカーの奥から声がした。


『……ここにいるよ……ずっと……』


次の瞬間、部屋全体が凍りつくような静寂に包まれた。


PHSの画面が、唐突にブラックアウトする。


それと同時に、有馬の懐中電灯が消えた。


真っ暗な中。


“誰かの手”が、有馬の指に触れた気がした。


そして、少女の声が、確かに耳元で囁いた。


『おねがい……今度こそ、きいて……』


有馬は、涙をこらえきれずに、呟いた。


「……ああ。聞く。今度こそ、君の声を、最後まで──」



第6章:記録なき叫び


第一節:戻れなかった声


モニター室の奥。深夜のログ解析ルームにて、村上は額に汗を浮かべながら、かつて“廃棄されたはず”の音声ログの再構築を試みていた。


「この通信ログ、明らかに手を加えられてる……書き換えられた痕跡がある」


彼の声には、怒りと焦りが混ざっていた。


傍らで、有馬は黙ってモニターを覗き込む。


「アクセス履歴、消去済み。復元ツールでも一部しか引っかからない。でも、確かにあった。10年前の、あの夜。午前1時12分」


表示されたタイムスタンプに、有馬の手が止まる。


「──俺が、“いたずらだ”と判断した時刻だ」


村上が、静かに訊く。


「兄さん、覚えてますか。あの日、あの時、通報を誰が見たのか……」


「見た。……俺が、最初に見た。そして……握り潰した」


その言葉は重く、暗い記憶の底から引きずり出されたようだった。


「“またか”と思った。ただの悪戯だろうと。直前に立て続けに誤報が続いてて、疲れてたんだ。誰も……誰も、あの通報を真剣に受け取らなかった」


村上が拳を握る。


「その通報が、本当に“最後”だったんですよ」


「……ああ」


解析ソフトの進捗バーが止まり、スクリーンに音声波形の一部が現れる。


ノイズの中に、微かに、少女の息遣いが混じる──


『──こわい……たすけて……だれか……』


声は断続的だが、確かに存在していた。


「この音、間違いなく“彼女のもの”です」


村上はモニターを睨んだ。


「これ、なんで保管されてなかったんだ……?」


「上層部が……いや、俺たちが、“記録しないこと”を選んだんだ。騒ぎを大きくしたくなかった。ただの“ミス”で済ませたかった」


「つまり、少女の最後の声は、“記録からも現実からも”消された──」


「戻れなかったんだ、彼女は」


そのとき、有馬の目に小さな波形が映った。


“最後の発声”とマークされた部分。


『──きこえて──ますか……』


その小さな声は、全データの中でもっとも深いノイズの底から浮かび上がっていた。


「聞こえなかったんじゃない。聞かなかったんだ。あの日、俺は“この声を”捨てたんだ」


村上が視線をそらさずに言った。


「兄さん。今なら、もう一度……この声を、世界に戻せる」


有馬はゆっくりと頷いた。


「戻す。必ず」


そのとき、復元ソフトが新たなフラグを表示する。


──“一致音源:旧通報ボタン経由”


「待て……この音声、“今の非常ボタン”にリンクしてる」


「じゃあ……まだ、送信されてるってこと……?」


ふたりは顔を見合わせた。


消された声が、いまも回線のどこかで生き続けている──


それは、警備センター全体の過去が“まだ終わっていない”という、無言の証明だった。



第二節:声が消える瞬間


「……この波形、静かすぎる」


村上がスクリーンを睨みながら呟いた。


「最後の2分、完全な無音。それまでノイズ混じりでも何かしら音声が続いてたのに……」


「消されたのか……」有馬の声もまた、静かだった。


「いや、消えたんです。彼女の声は……この瞬間、どこにも届かなくなった」


村上はモニターを指差した。「ここ、午前1時21分。彼女が最初にボタンを押してから、9分17秒後」


有馬は目を細めた。その時刻には、確かに覚えがあった。


「俺が“判断”した時間だ……『対応不要』って、ログに記録した瞬間だ」


「……兄さん」


「俺は、あの声を“聞こえないこと”にした」


重い沈黙の中、再生中の波形にわずかな変化が現れる。静寂の中に──足音。金属の軋む音。薄く、擦れた呼吸音。


『──……さむい……』


震えるような声が、音の隙間から漏れる。


村上が思わず呟いた。「これ……本当に、届いてなかったのか……?」


「違う……“届けようとしていた”。でも、俺たちはそれを受け取らなかった」


有馬の声が微かに震える。


「彼女の声は、消えたんじゃない。……“遮断された”んだ」


モニターには、無音が続く。


それはまるで、少女が最後に諦めた瞬間を記録するかのように、永遠に静かだった。


「こんなにも、静寂って……重いものなんですね」


村上の言葉に、有馬は頷いた。


「そうだ。だからこそ、今俺たちは──この“静けさの意味”を、記録しなきゃならない」


そのとき、スピーカーが一瞬だけ小さく唸った。


──ザザッ……ピッ……


そして、再び沈黙。


「これ、何かが“再送信”されてる……?」


村上が驚きの表情でログを追う。


「間違いない、音声が……微弱ながら、ループしてる。しかも……旧回線から」


有馬が深く息を吸った。


「じゃあ、彼女は今も──“叫び続けてる”ということか……?」


「声は、消えてない。ただ、“聞こえない場所”にあるだけだ」


村上の言葉が部屋に響いた。


「じゃあ、俺たちのやることは一つだ」


有馬は拳を握る。


「もう一度、彼女の声を……この世界に“聞こえるようにする”」


再生が終わる。


モニターは真っ黒な波形のまま、再び静寂を告げていた。



第三節:警備センターに灯る光


その晩、有馬はセンター長として最後の決裁文書にサインをした。


机の上には、全通報記録を自動で保存し、一定期間ごとに外部サーバへバックアップする「記録保全システム」の導入申請書。


「これで、もう誰の声も、記録から消えることはない」


呟くように言った有馬に、村上は頷いた。


「“押されたのに、記録されなかったボタン”は、これで過去のものになりますね」


新システムは試験的に旧フロアから運用を始めることになった。皮肉にも、かつて少女の“声”が消されたその場所からだ。


その旧警備ボタンには、今や新たに小型の記録装置と確認ランプが設けられている。


有馬は独り、封鎖解除された旧フロアを巡回していた。


かつてあれほど陰気だった廊下は、どこかしら明るさを取り戻しているようにさえ見えた。


「声は、今もここにあるのかもしれんな……」


独り言のような呟きが、誰もいない廊下に吸い込まれていく。


有馬の手には、例の録音機があった。


再生ボタンを押すと、何も聞こえなかった。先日“ありがとう”と告げた声は、それきり現れていない。


だが、それが“終わり”だとは、有馬は思わなかった。


──記録とは、耳を澄ますことだ。


聞こうとしなければ、いかなる叫びも空気に溶ける。


「俺たちは、聞かなかった。その罪を背負ってでも……聞き続けるしかない」


その瞬間、旧ボタンのランプがふっと灯った。


ピッ、と短く音が鳴る。誤作動ではなかった。


「誰かが……押したのか……?」


だが周囲には誰もいない。有馬は周囲を静かに見渡し、そしてランプの点滅を見つめた。


それは、過去の“あのとき”とはまったく異なるものだった。


今、そこには“聞くための人間”がいる。


だからボタンは、確かに“誰かに押された”と記録される。


「聞こえてる。大丈夫だ。今度は、俺が聞いている」


有馬は録音機をもう一度オンにして、静かにその場に置いた。


「記録してくれ。今度こそ」


そのとき、わずかに風が吹いた。


誰も開けていない扉の隙間から、どこか懐かしい気配が流れ込む。


──そして、静寂。


廊下の照明がわずかに揺らめく。


村上が後ろから近づき、小声で言う。


「兄さん……俺、思うんですよ。彼女の声って……たぶん、“助けを呼んでた”だけじゃない」


「……どういう意味だ?」


「誰かに、“聞いてほしかった”んじゃないかって。……ただ、それだけだったんじゃないかと」


有馬は答えなかった。ただ、その言葉を胸の中で繰り返す。


──聞いてほしかった。


──忘れないでほしかった。


──記録に、残してほしかった。


ランプが、もう一度小さく点滅し、そして完全に消灯する。


かつては戻らなかったボタンが、いま初めて“戻った”。


それは、少女がようやく──ここから、離れた証なのかもしれない。


警備センターの新しいシステムが、夜ごと静かに作動していた。


それは、誰かの声を決して取りこぼさないために。


たとえそれが、どれほど小さく、かすかな囁きでも。


──警備センターには、今、確かに“灯り”がある。






最終章:見えない通報の終わりに


第一節:記録されるべき声


深夜3時10分──警備センターの一角、記録室。


机の上には古びたPHS端末と、ボタン回線の解析ログ、少女の日記帳の複写が整然と並べられていた。有馬は静かに息を吐き、レコーダーの録音ボタンを押す。


「記録開始──2025年6月24日、警備隊長・有馬達生」


彼の声は低く、しかし一言一言に明瞭な意志を込めていた。


「本記録は、10年前に発生した“未対応通報事案”の検証と、当警備センターにて発生した一連の異常事態に関する報告を目的とする」


静かに、少女の通報記録が映されたログを開く。


「2005年6月10日 午前1時12分、当時中学二年生の相原美樹は、所在不明となった。記録上、彼女が発信した最後の通話は“当センター非常ボタン”と一致している」


有馬の手がわずかに震えた。


「だが、その通報は“見えなかった”。否──“見ないようにされた”。回線は通常の系統を通さず、封鎖された旧地下階を経由し、誰にも届かぬ場所へ送られていた」


彼は、少女の破損したPHS端末を手に取る。


「この端末は、現在の技術的見地から見て“起動不可能”と判断されていた。しかし、実際には稼働していた。そして、我々は“今もなお送信され続けていた通報”を受信した」


モニターには、ボタンの連打映像と、少女の微かな声が映し出されている。


「この声は、“霊的な現象”ではない。これは“記録”である。無視され、忘れられ、放置された記録。それが、再生された。復元された。……それだけのことだ」


有馬の目に、一筋の涙が浮かぶ。


「だが、それこそが“もっとも恐ろしい真実”だ。人が“記録を破棄する”という罪は、決して自然消滅しない」


彼は録音機に顔を向け、最後に呟くように語った。


「彼女は“ずっと訴えていた”。それに耳を塞いだのは──俺たちだった」


録音を停止し、有馬は椅子にもたれかかった。


まるで、長い戦いが終わった後のように。



第二節:誰かが聞いている


「兄さん。あのとき……何か、聞こえた?」


午後の休憩室、村上はカップに口をつけながら、有馬の横顔をじっと見ていた。


有馬は静かに頷いた。


「“ありがとう”って、確かに……聞こえた」


「声は、消えたんですか?」


「いや……むしろ、“ようやく届いた”って感じだな。彼女の声は……きっとずっと、どこかで鳴り響いていたんだ。誰にも届かずに、延々と……」


村上は黙った。


やがて、静かに語り出す。


「……実は、兄がこの件に取り組み始めてから、ずっと考えてたことがあるんです。俺の妹──7年前に行方不明になった、文香のこと」


有馬は振り返った。初めて聞く名前だった。


「小学生のころ、ある日突然いなくなった。学校からの帰り道だった。警察も動いたけど、結局手がかりは何も見つからなかった」


村上の目は、どこか遠くを見ていた。


「彼女も、最後に……“声を出した”のかもしれない。だけど、誰にも届かなかった。……あるいは、届こうとしたのに、“聞かなかった”のかもしれない」


有馬は黙って聞いていた。


「それでも、今は……少しだけ信じられる気がするんです。声って、聞こうとする誰かがいれば、いつか届く。たとえ、どれだけ時間がかかっても」


有馬は、微かに笑った。


「……それはきっと、本当だ。俺たちが今回“聞いた”のも……そういう声だったんだろうな」


それから数日後、有馬は正式に警備隊長を退任し、一般の巡回警備員として、夜の施設を歩くようになった。


「……ここにも、きっと声がある」


誰にも聞かれなかった足音。無視されたノック。押されたまま戻らないボタン。


“聞くために存在する人間”が、一人でもそこにいれば、世界は変わる。


有馬の足元に、静かに灯る旧フロアのランプがあった。


以前は決して消えることのなかったそのランプが──


今夜、初めて消えていた。


それは、終わりの合図であり、また始まりの合図でもあった。



第三節:そして、静寂


 深夜零時、警備センターは異様な静けさに包まれていた。


 照明は最小限に落とされ、モニターには変化のない映像が静かに並んでいた。誰も騒がず、誰も叫ばない。


“異常なし”


その表示が画面の隅に浮かんでいる。


有馬はいつものように、デスクの前に腰掛け、小さな録音機を手に取った。


この録音機は、少女の“声”を記録したものであり、最後の通話が届いた機器でもある。


手のひらに収まる小さな筐体が、奇妙な静けさを保ったまま、彼の体温を受けていた。


「……鳴らなくなったな」


独り言のように呟いた声が、部屋にやさしく反響する。


「そうだよな。もう、呼ぶ必要なんか……なくなったんだもんな」


椅子に身を預けながら、有馬は微かに笑った。


その目には、疲労と安堵と、そして少しだけ涙が滲んでいた。


彼は何かに導かれるように、録音機の再生ボタンを押した。


──無音。


数秒間、空気すら止まったかのような沈黙があった。


……だが、そのあとで。


録音機から、小さな、か細い声が漏れた。


『……ありがとう……』


それは風のように儚く、だが確かに“そこにいる”と感じさせる声だった。


「……聞こえたぞ。最後まで、聞いたからな」


彼の声は震えていた。


その瞬間、録音機が静かに、静かに動作を停止した。


表示パネルのランプがひとつ、ひとつと消えていく。


有馬は、それを見届けるように黙っていた。


最後のランプが消えるとき、彼はただひとことだけ呟いた。


「──おやすみ」


そして、本当に全ての音が、止まった。


“見えない通報”は、終わったのだ。


誰にも届かなかった叫び。


誰にも気づかれなかった助けの声。


それが、ようやく“聞かれた”とき──


世界は、ようやく静寂を取り戻した。


今夜、すべての監視モニターは、異常なしを表示している。


ボタンは、押されていない。


ただの、何も起きない、普通の夜。


だが、その“普通”が、どれだけ奇跡的なものか──


有馬は、誰よりも知っていた。


彼は椅子を立ち、巡回へと向かう。


その背中に、何も語らず、何も求めず、ただ微かに安らぎの気配だけが、ついていった。


物語は、静かに幕を下ろした。

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