第6話
「ひっ!」
その悲鳴を上げたのは、オスコだった。彼女はおそらく、虫全般が苦手なのだろう。まるで真夜中の墓地と墓地の間から、無数のゾンビと人骨が這い出てきたのを目撃してしまったかのような、そんな絶望的な表情を、アシュバルムが持ってきた芋虫と、そしてその芋虫を持つ私の方を見つめている。
一方、その芋虫を手のひらに乗せられた私はというと、実はそれほど恐れという感情に支配されてはいなかった。
……お父様が、趣味でしていた畑いじりも手伝っていましたもの。芋虫ぐらい、見慣れておりますわ。
だから私は落ち着いて、廊下の窓を開け、下に人がいないことを確かめた後、アシュバルムから渡された仲良しのしるし(芋虫)を、そこから捨て落とした。
手を払って窓を閉めながら、しかしどうにも、私は自分の肩が震えるのを、止めることができない。
……そうですわ。私、恐れに感情を支配されておりませんもの。今の私を支配している感情は、そう、怒りという、激情ですわっ!
射殺すようにして振り向いた私の視線の先には、こちらを両目を驚きで見開いた、アシュバルムの姿があった。可愛らしく口に手を当ていたりするのだけれども、その可愛らしさが、なんというか、今は可愛さ余って憎さ百倍という感じになっている。
「すごい! すごいよ、おばさん! 他の人は芋虫を見たら、みんなオスコみたいな反応をするのに、そんな何事もなかったかのように振る舞えるのは、お父様以外いなかったよっ!」
……何事も、なかったように、ですって?
そんなわけがない。今の私は、怒りで全身の血液と五臓六腑その全てが沸騰せんばかりに、怒り狂っている。
一秒ごとに自分の体のうちから湧き上がってくる怒りを、自分の口から吐き出すように、私の口からは変な笑い声がこぼれ落ちてきた。
「ふ、ふふふあははははふふあははははっ! アシュバルム、くん? さっきあなた、一緒に遊んで欲しい、って、そう、おっしゃっていましたわよね?」
「うん、そうだよ! おばさん、遊んでくれるの?」
「ええ、ええ、そう、そうよ、アシュバルム。今から、この私と、鬼ごっこをしましょう」
「本当! 最近、みんな遊んでくれなかったから、嬉しいなぁ! ねぇ、おばさん。どっちが鬼になるの?」
「もちろん、私が鬼よ。だって、もう鬼になっているんですもの」
「わかったよ! それじゃあ、逃げる範囲は、この家の庭までね! 十秒数えたら、追いかけてきていいよ、おばさんっ!」
そう言って、アシュバルムは本当に嬉しそうに、屋敷の玄関に向かって走り出していった。
それを見ながら、私はカウントダウンを開始し始める。
「いぃちぃ、にぃいぃ、さぁあんぅ、しぃいぃーー」
この世全てを呪いつくさんばかりの声色をした自分のカウントダウンを耳にしながら、私はつい先程改めて定めた自分の目標を、振り返ってみる。
……アシュバルムとの関係を、良好なものに保つこと。
良好な関係というのは、果たしてどういったものなのだろう?
人によっては、一緒に支え合う関係と答える人もいるだろうし、過度に互いに干渉しあわない適度なつながりだと答える人もいるかもしれない。
でも、一つだけ言えるのは、人を謀って芋虫を手渡したり、一方的に相手をおばさん呼ばわりするような、そんな関係は、絶対に良好とはいえないだろう。
……いいですわ。だったら私が、どんな関係が良好足り得るか、骨の髄まで教えて差し上げますことよっ!
「きゅうぅ、じゅうぅ。さぁ、行きますわよぉ、あしゅばるぅぅぅむぅぅぅっ!」
「うわぁ! おばさん、顔、すっごいことになってるよっ!」
「二度と私のことをおばさん呼ばわりできないようにして差し上げますわっ!」
スカートの裾を結び、全力で追いかける私を見て、アシュバルムはキャーキャーと奇声を上げながら、楽しそうに駆け出していく。
私も全力で追いかけるが、元々芋虫を渡してからアシュバルムがこちらから距離を取っていたことと、十秒という追いかけるまでの待ち時間。そして、まだ私がこの公爵家の屋敷の構造を正確に把握していないということもあり、彼が玄関の扉をくぐり抜けるまでに、私はあの小僧を捕まえることができなかった。
……屋敷の中ですら戸惑ってしまうというのに、まだ一度も見たことのない庭園に逃げ込まれてしまえば、もうアシュバルムを捕まえることなんて、到底不可能ですわっ!
ここでアシュバルムを逃してしまえば、あの小僧は芋虫を渡してくるような、そういうふざけた行いを私に対して続けてくるに違いない。
……オスコの反応から類推するに、同じようないたずらは、他の人にもしてるということですものね。
オスコは初めから、アシュバルムが私に芋虫を渡すのではないかという、そういう予感があったのだ。そうでなければ、あの小僧が私に何かを手渡そうとした時、こちらから距離を取ろうと思うはずがない。
そしてその予感というものは、彼女の今までの、経験則によるものなのだろう。芋虫を渡されるかもしれないと思えたからこそ、私の手のひらの中身を見せないでいいと、そう言えたのだ。
……むしろオスコの方も、あんないたずらをされると予測できていたのでしたら、私に教えてくださってもいいものですのにっ!
でも、アシュバルムが来る前にオスコと部屋の扱いについて揉めていたやり取りの内容を考えると、あのメイドが私に利があるようなことを口にするとはなかなか思えない。
……まぁ、殴る蹴るの直接的な暴行を受けるよりはマシだと、そう考えるしかありませんわね。
それに、今最優先で考える必要があるのは、もう庭園へ飛び出してしまっている、アシュバルムへの対応だ。
このまま私が普通に玄関から外に出たのでは、どう考えてもあの小僧の行方を見失ってしまう。
……そんな事、絶対に、絶対に許せませんことよっ!
そう思いながら、何か手はないかと、私は視線を辺りに走らせる。でも、目に入るのは私の姿を見て驚きに目を見張る使用人たちの姿と、窓から見える青空だけ。その窓からは庭園の姿も見えて、この公爵家の庭に植えられている草花たちは、どの角度から見たとしても、美しく人の目に映るように計算されていることが伺いしれた。
その事実に気づき、私は自分の広角を吊り上げる。
……見つけましたわ! 勝利への糸口をっ!
私は玄関に向かって進めていた足に、急ブレーキをかける。そして進路を九十度回転させ、そしてそのまま全速力で走り出した。
私の進む先にあるのは、庭園が覗く窓ガラス。私はそれに張り付くと、窓を勢いよく開け放つ。
そして開け放った窓から、この身を宙に投げ出すように窓枠に足をかけ、掛け声とともに、飛んだ。
風が私の髪を雑に撫でていき、今日のために整えていた髪型が、ざんばら髪のように乱れていく。宙に舞った私の金髪が落ち着きを取り戻す前に、私の足は地面へと降り立っていた。その拍子に砂埃が舞い、それがまた髪に絡みつくのだけれど、それらも全て無視。最優先事項を定めているのだから、今は脇目も振らず、恥も外聞もなく、ただ愚直に、そこに向かって突き進むだけだ。
顔を上げれば、そこは庭園に続く植え込みが見え、そして驚愕を通り越して感嘆のため息を漏らす、アシュバルムの姿があった。
「ええっ! なにそれ! そんなことしたら、お父様に怒られちゃうよっ!」
「その前に、私が全力で叱って差し上げますわっ!」
その言葉を聞いたアシュバルムはまた叫び声を上げて、太陽のように眩しい笑顔を浮かべ、その場から走り去っていった。