婚約破棄は、したものの。
初めて投稿します。
*2023.3.24 予想を超える沢山の方に読んで頂けたこと、驚きと感謝でいっぱいです。ブックマーク、いいね、本当にありがとうございました。ご意見下さった方々にも、改めて御礼申し上げます。ドロシアの視点だけで進んでいくため、伝わらない部分があると気づかせて頂けましたので、後半の一部を改稿しました。今後も精進いたします。
*
「クリスティーナ・アディントン侯爵令嬢。貴女との婚約は、いまこの時を持って破棄としたい」
穏やかだけれど、確固とした口調での宣言に、辺りはしんとした。
王宮の薔薇園は、花の盛りだ。
様々な品種の薔薇が、彩りだけではなく、香りの組み合わせまでも計算されつくしたバランスで配置されている。緩やかな散策路に沿った水路は、小さいけれども凝った造りの噴水を中心に廻らされ、きらきらと陽光を弾く水と、爽やかなせせらぎの音が、大変、快い。
それらを最も美しく見渡せる位置に瀟洒な東屋が建てられており、今は、軽いけれども気の利いた茶菓の支度が整えられている。
王太子殿下ご主催の茶会の最中である。
招かれているのは、ごく少人数。小さな茶会だ。
常ならば、殿下の茶会はもっと賑やかだ。身分に拘らず能のあるものは気軽に傍に取り立てることで知られた殿下らしく、貴族の子女ばかりでなく、平民出身の芸術家や研究者、あるいは異国渡りの商人など、出自も年齢も様々な方々が招かれる。
今日の招待客は、わずかに3名。
殿下のご親友。公爵家のご嫡男、キース・ノーラン様。
殿下のご婚約者。クリスティーナ・アディントン侯爵令嬢。
そして、もうひとり。かつてお見掛けしたことのないご令嬢がいらっしゃる。
皆様、言葉を無くして、トンデモなことを言い出した主催者を見つめている。
そう、あろうことか、我らが敬してやまない王太子殿下の発言なのだ、この唐突な婚約破棄は。
「…殿下……?」
キース様が、引き攣りつつの半笑いという、あまり見たことのない微妙なお顔で、このところ頓に精悍さを増した美貌に笑みを湛え、卓に活けられた薔薇を引き抜いて弄んでいる殿下に発言を求めた。
キース様らしからぬ表情もむべなるかな。御席に控える、我ら側仕えも全員、寝耳に水の勿怪顔である。
「何かな、キース。お前が殿下呼びをするときは、だいたい小言だと思うのだが」
殿下は朗らかに応じた。
クリスティーナ様は、常と変わらぬ微笑を湛えつつ、小首を傾げての思案顔だが、殿下はそれはそれは上機嫌であるように見受けられる。
その殿下に、隙あらばしな垂れかかろうとしている、金髪碧眼で小動物系愛くるしさを持ち合わせたご令嬢も相当にご機嫌であるが。
「小言を言われるような案件だという自覚はあるんだな?」
「うーん。実はかなりの名案だと自負しているのだが」
「何処が?!何が??!」
「怖い怖い。乗り出すな。茶が零れる」
「どうでもいいわ!クリスティーナ嬢に何の不満がある!」
「不満か。そうだな、不満はあるな」
「何処に!!こんなに優れたご令嬢の何処にどんな不満があると言うんだお前は!!!」
「怖い怖い怖い。はははは目が回る」
ああ。
キース様が激昂のあまり席を蹴り、殿下の首根っこを掴んでがくがく揺さぶっている。
揺さぶられているご当人が笑っているのでギリギリセーフではあるが、いや、やはりアウトであろうか。いくら無礼講が許される間柄とはいえ、キース様は殿下よりお年も上なら、お身体もよっぽど鍛えていらっしゃる。そろそろ殿下のお首が捥げかねない。
流石に護衛騎士が割って入ろうとした時、クリスティーナ様がふわりと立ち上がった。
女性としては、お背が高く、すらりとしておられる。
艶やかな黒髪のサイドを優雅に結い上げ、昼の茶会にふさわしい、刺繡生地の品の良いドレスに、装飾品もごく控えめ。殿下から贈られた、殿下の瞳の色と同じ翠がかったアクアマリンの繊細なネックレスひとつの御姿は、どんな飾り立てたご令嬢よりお美しい。
況や、握り拳を口元に当てておろおろしたフリでほくそ笑んでいる露出過多の小動物令嬢をや。
ここ暫く、お元気が無いようにお見受けするのが気掛かりだけれど、いや、その憂いを湛えた風情であってもなお一層、同性ながら魂が抜けるほどの美しさである。
クリスティーナ様は、滑るようにキース様に歩み寄り、そっと背に手を伸ばされる。
ポン、と軽く叩かれたキース様が振り向かれた。クリスティーナ様のお顔を見て、困りきったように口をへの字に曲げたけれど、ぱっと殿下から手を放した。
殿下は、くしゃくしゃになったジャケットのまま、笑いながら椅子に腰を下ろし、落ちてきてしまった前髪を手櫛で雑に直している。
まもなく、立派に成人なさろうというのに、未だに悪戯っ子のよう。
そんな困った方である殿下は、輝くような笑顔で、お傍まで来たクリスティーナ様を見上げた。
見おろすクリスティーナ様も、笑顔だった。嫋やかな手で、まだ乱れている殿下の御髪をそっと直して差し上げている。
大変に仲睦まじくお見受けするのだが……
「殿下は、わたくしとの婚約を解消なさりたいのですね?」
どのような場面であろうと感情的に揺らがせることのない、落ち着いたアルトのお声が紡がれる。
お小さい頃から公の場に未来の王太子妃として立たれ、海千山千の大人たちに混じって課せられた義務を果たしてこられたクリスティーナ様は、こんな時ですら冷静さを失わず、微笑みも絶やすことがない。
殿下より僅かにご年長とはいえ、うら若いご令嬢としてはお見事としか言いようがないが、そのご心中たるや、察するに余りある。
「解消ではないね。破棄だ。私の一方的な言い分なのだから」
「…わたくしにご不満がおありだったのですか?」
珍しくお声にお気持ちを滲ませて問いかけたクリスティーナ様に、殿下は少し眉を下げ、未だ弄んでいた薄紅の薔薇を置く。そして、繊手を掬い上げて、くちづけを落した。
「うん。ちょっと不満かな。だが、一番の理由はね」
殿下がクリスティーナ様のお手を放し、小動物令嬢を振り返った。いつの間に殿下の横にまで忍び寄っていたのか。
「彼女に真実の愛を教えられたからだよ」
いよいよトンデモを言い出した殿下に、キース様の顎が落ちた。
小動物令嬢が、恥じらって身をよじる。よじっているが、つまりは殿下に擦り寄っているわけで、小柄な割に主張の激しいその胸は、それはいくら何でも日も高い時間にしては露出が過ぎるという薄物のドレスから今にもはみ出てきそうである。正直、同性の自分でも目のやり場に困る。
殿下はそのようなモノに釣られるケダモノではないと信じておりましたが…それはお年頃ではあるけれど、よりによってそんな判りやすいモノにだなんて。
長年、お仕えして参りましたが、いささか情けのうございますよ殿下。
「おま…お前、な、真実の愛て。はあ?」
「真実の愛。そう言ったね、アンジェリーナ。悪戯な天使」
「マクシミリアン様ったら。恥ずかしいです」
よじよじと身を擦り付ける令嬢は、アンジェリーナ嬢というらしい。
というか、本当に何処の誰なのだろうか。掛け値なしに、初めてお見掛けする令嬢なのだが。
「おま、どこでそんなあば…いやあざと…違う愛らしい令嬢と知り合ったのだ」
いささか際どい形容詞の駄々洩れ具合も常らしからぬキース様だが、そこはものすごく当方も知りたいところである。
キース様がご存じないのであれば、ご学友や社交界での繋がりではない。
いや、ほんとに殿下とどういう経緯でこのようなことに???
「ほら、先々月、城下の孤児院の視察に行っただろう?」
「院長が運営費を遣い込んだ挙句に急死して、遺された職員と孤児たちが往生してたと言うあれか?」
「それそれ。その孤児院に支援を申し出てくれた男爵家の令嬢でね。彼女が身を粉にして孤児たちの面倒を見てくれていたのだ。その姿が何とも言えなくてな」
「…ああ。そう」
「それで、王家としても支援を出しつつ、私自身でも進捗を見に行って」
「そうこうするうちに真実の愛とやらをその令嬢に教えられた、と」
…そういえば殿下がいやに城下に降りられるとは思っていた。
そして、行ったら行ったでなかなかお戻りにならないので不審ではあった。
しかし同行していた護衛騎士たちも特に何も言わなかったし、今も目を剥いて殿下を凝視しているし、あれか、よっぽどうまいこと彼らの目を盗んで逢引しておられたのか。
ものすごく大きい溜息を吐いて、キース様がクリスティーナ様を振り返られた。
「クリスティーナ嬢。この大馬鹿王子の不始末に全く気付かなかったことを、心よりお詫びする」
クリスティーナ様は、ゆっくりとかぶりを振った。
「キース様が謝罪されることではございません。わたくしが至らず、殿下の御心に叶わなかったのです」
「何を!」
気丈に振る舞うクリスティーナ様。
キース様が歯噛みして殿下を睨みつけるが、殿下はどこ吹く風である。
「では、ティナ。いや、アディントン侯爵令嬢。貴女に非は無いのだが」
「婚約破棄でございますね。…承知致しました。殿下の御心のままに」
笑顔を保って、クリスティーナ様が優雅に膝を折った。
健気に過ぎる。
こんなご令嬢を袖にして、選りによって何でそんなのを後釜に据えようとしているんです殿下。
隠してるつもりでしょうけどものすごい笑顔ですよその小動物令嬢。まさかほんとに胸ですか。胸にやられちゃったんですか殿下ったら。
「この場に居る皆が証人だ。私は真実の愛に生きることにする」
我ら側仕えや騎士たちにまで晴れ晴れ宣言する殿下に、ふたりの令嬢以外の全員が落胆を隠さなかったのは言うまでもなかった。
**
あの驚愕の茶会から早いもので1週間が過ぎた。
即座に緘口令が敷かれたものの、こういうことはいつの間にか何処かからか漏れるもので、殿下はあの後、あの場に居合わせた者のみならず情報を耳にした一部から、それは恐ろしく評判を下げたのだが、とんだ戯言はぬかしたものの真実の愛とやらに溺れて王太子の責務をおざなりにすることはけっして無く、今まで通りに粛々と日々の業務をこなし、騎士団に混じって鍛錬をし、合間に『悪戯な天使』の尻を叩いては各方面の教育に送り出し、甘やかすことなく、ごく僅かながら公務の一端をも担わせていた。
正直、びっくりするほど甘くなかった。
その冷徹な尻の叩きっぷりに、徐々に殿下の評判は回復の兆しを見せてきている。
天使としては恐らく大いに当てが外れてお気の毒さまであるが、いやしかし、クリスティーナ様がこなしてこられた教育やご公務とは比べ物にならない量と内容であるらしい。
アンジェリーナ嬢は殿下よりひとつ年下。御年まもなく17歳だという。
クリスティーナ様よりは4歳年下になるのは確かなのだが、いやいやこういうことは年齢ではない筈だ。現にクリスティーナ様は10歳にもならないうちから教育を受けて来られたのだけれど、はっきり言って、当時のクリスティーナ様より不出来と言って差し支えない有様と聞き及んでいる。
こういう情報は、凄まじい速度で我々の間を伝播する。情報収集に抜かりはない。当然だ。殿下のお相手すなわち後の己れの主人である。おかしな手合いでは先々自分が困ったことになるのだから。
本当に何であんなご令嬢に引っ掛かってしまわれたのか。
執務室で、猛烈な勢いで書類を処理している殿下を、じっとりと見てしまう。
「…何かなドロシア。このところずっと、ものすごく視線が刺さって気になるのだが」
「さようでございますか。それは申し訳ございません」
「うん、謝れと言っているわけではなくてね」
控えていた殿下付きの文官が処理の終わった書類を持って退出して行ったのを見送って、殿下はひとつ伸びをしてから、行儀悪く椅子の中で姿勢を崩した。
「私に言いたいことがあるだろう?」
ネコのようにぐにゃぐにゃと伸び縮みしつつ、殿下は薄っすらと笑った。
このところ、鬼気迫る勢いで執務に励まれておられるせいだろう、些かお顔の色が優れないのが気掛かりだけれど。
「…側仕え如きが恐れ多いことでございますゆえ」
「既に言ってるのと変わらないよねそれ。良いよ、言ってごらん。お前は私の姉も同然。遠慮はいらない」
確かに畏れ多くも乳姉弟ではあるけれど。
「…殿下のお決めになったことは、何であれ、お心に従うのみでございます。ですが、あの茶会の顛末を、陛下に何とご説明なさったのかは気になります」
あの茶会の終了後、耳の早い陛下付きの侍従に引っ立てられていった殿下だったが、驚く早さでお戻りになり、しかも陛下から何のお咎めも無く、アディントン侯爵家からも表立った抗議は今のところ無い。不気味に沈黙を保っている。
まるで何事も無かったかのように、ただクリスティーナ様が登城なさらなくなり、代わりにアンジェリーナ嬢が早朝から日参して教育に追いまくられているだけである。
まったくもって、腑に落ちない展開なのだ。
殿下は相変わらず、読めない笑顔のままである。
笑い事じゃないんですよ本当に。いつ正式に書状が交わされて、あの色気過剰の小動物令嬢が殿下の傍らにベタベタ侍りだすのか、臣下は戦々恐々としているのである。
「陛下にもまったく同じことを申し上げたとも。真実の愛に生きるとね」
「それで通ったと…??」
「勿論。ということでね、気の利くドロシアに頼みがある。薔薇園から、頃合いの紅薔薇を11本選んで、花束を作らせて欲しい。それと菓子を見繕って、ご令嬢が喜びそうなバスケットに仕立ててくれないか」
「かしこまりました。…お届けの手配も致しますか?」
陣中見舞いだろうか。
アンジェリーナ嬢は、今日は何処でしごかれているのだったか。
「いや。私が自分で持っていく」
「さようでございますか。では、整いましたらお持ちいたします」
「うん。頼むよ。お前なら、ティナの好みをよく判っているだろうから安心だ」
……ん?
「いま何と仰いました……?」
アンジェリーナの聞き間違い、でしょうか??
「整い次第、ティナを訪ねる。1週間も逢えなかったのだ。禁断症状が出そうでな」
何か言い始めましたよこのお方。
私の凝視をよそに、耳を疑う発言をした殿下は、それはそれは良い笑顔だった。
***
殿下は、本当にアディントン侯爵家に出掛けて行った。
そして、しばしののち上機嫌で帰城して、鼻歌混じりの勢いで残りの執務を片付け、夕刻、気心知れた騎士の一人と打ち合ったのだが浮かれたあまりかうっかり一撃食らったそうで、真っ青になった騎士に連れられて医局を訪ね、肩に大きな湿布を貼られて私室にお戻りになった。
側仕えに過ぎない私にまで平身低頭して下がっていった騎士が大変に気の毒であったが、当の殿下はご機嫌もいいところで、イタタタタとか言いながら風呂上がりの濡れ髪のまま寝酒の果実酒をちびちび吞んでおられる。
「そのままでは風邪を召されますよ」
「腕が上がらないのだ。一晩くらい乾かさなくともどうもない」
怪我人ならば飲酒こそをやめるべきだろう。さらりとゴブレットを片付ける。
「酷いなドロシア」
「明日にはもっと腫れていても不思議はございません。ご酒はお控えなさいませ。そうそう、秘蔵しておられたボトルも没収済みでございます」
「容赦無い」
憮然となさっておられるが、頓着せずに御髪のお世話をする。
いささか癖があるけれど、とても美しいプラチナの御髪である。この癖というのが困りもので、このままおやすみになられては、翌朝は鳥の巣が必至である。これがまた手強く元に戻らない。
そう申し上げながらお世話を焼いていたら、殿下のご機嫌がころりと直った。
「鳥の巣はダメだな。ティナに呆れられてしまう。いやあ今日はティナを堪能できて幸せだった。明日も訪ねたいところだが仕事がな」
……それ。
「あの、殿下。クリスティーナ様とは婚約破棄をなさったのですよね?」
「うん?そういうことになっているな」
「婚約破棄したのに、ご訪問??」
「喧嘩したわけではないのだから問題ないだろう。ティナも嫌がってないし」
いやいやいや。
「たとえお嫌であっても、臣下の身で殿下のご訪問を断れるわけがないのでは」
「嫌なことを言うなお前は。何か、私が身分をカサに着てごり押しするような卑劣な男だとでも言うつもりか?」
まさにそれを心配しているとも言えず、口を噤む。
その私の内心を察したらしく、殿下はしかめっ面で、遠ざけてあったゴブレットを素早く攫った。
そういう時には痛がらないのが殿下である。
不服たらたらの顔で酒を含み、半眼で私を睨めつけてくる。
「嫌がる令嬢に無理強いするなぞ、下衆にもほどがあるだろうが。いいか、ティナはな、嫌がってなんか、いーなーいー」
子供ですか。
呆れる私をよそに、殿下は一転、ふわりと目元を緩めた。
「明日は立て込んでいるから諦めるがな。だが、明後日以降は既に調整済みだ。ふふふ、毎日、逢いに行くぞ。手土産を選ぶのも楽しみだなあ」
本当に何をお考えなのだろうかこの方は。
くすくす笑いながら酒を呑む殿下は実に幸せそうだった。
必ずや、何かお考えがあるのだろうとは思いますが、こちら現時点では不安しかございません。
こっそり溜息を吐いて、御前を下がらせて頂く私だった。
****
宣言たがわず、殿下はアディントン侯爵家に日参し始めた。
花だの菓子だのだった手土産が、いつしか凝ったリボンやストールなど身に着けるものに変わり、それが出入りの宝石商の小箱になったのは何日目だったか。
間を置かず、観劇だ美術展だ音楽会だと堂々外にも出歩き始め、執務こそまったく怠りはしないものの、天使のことは叱咤する以外は文字通り放り捨てて、戸惑っているだろうクリスティーナ様を構い倒しはじめたのである。
勿論、余すところなく、殿下の行動は城下にも知れ渡った。
もともと、誰が見ても仲睦まじかったおふたりである。
何故あんな婚約破棄に至ったのか誰にも理解できなかったくらい、元をただせば政略だったかもしれないけれどもはや誰もそんなこと思い出しもしないくらい、関係が良好だったおふたりである。
殿下の目が覚めたということで良いのかなあ?
だけど破棄はしちゃってるんだよねえ??
悪戯な天使はどうするの???
などど、先の惨事を知る臣下一同、思案投げ首状態で成り行きを見守っていた、ある日。
ついに、悪戯な天使こと、小動物令嬢が、キレた。
「酷いですぅ酷いですぅ」
いつぞやと同じ薔薇園の東屋で、いつぞやと同じ顔触れの茶会である。
前回よりも大分げっそりしたアンジェリーナ嬢が、べそべそと殿下に縋りついている。
露出過多だった薄もののドレスは襟ぐりが詰まったものに変わり、主張の激しかったお胸も、大きさこそ同じだろうが適度な厚みのある生地のおかげで、魅力的、という範囲に留まっている。
変われば変わるもので、今のお姿であれば、キース様がうっかりした表現を口から滑らせることも無さげな、普通に品のある男爵令嬢である。
ただし、その挙動は相変わらず頂けない。
未婚の令嬢が、妙齢かつ高位の独身男性に、過剰なボディタッチと涙目の上目遣いでしがみ付くのは如何なものか。
目を逸らす者、興味津々凝視する者、黙殺一択で職務に専念する者、場に控える誰もが口を挟める筈もなく、実に居た堪れない空気の茶会である。
お席に着かれたおふたかたも、さぞやさっさとお帰りになりたいのではなかろうか。
殿下は、隣の席からしな垂れてくるアンジェリーナ嬢をさりげなく押し戻しつつ、かといって邪険にするわけではなく、距離は取りつつ話し相手になっている。そこはご立派ではあるが。
貴方が相手しなくてどうしますかコレ、という状況には間違いない。
「そんなに泣いて。何が酷いというのかな」
「だって酷いじゃないですか。私があんなに虐められていたのに、マクシミリアン様は知らん顔で」
声を震わせて大粒の涙を流しながら、アンジェリーナ嬢は切なげに訴えた。
「虐められてた?誰に?」
「皆です!私が何も知らないからって、皆すごく冷たくて意地悪で、無理なことを押し付けて。出来なかったら寄ってたかって責めるんです。虐め以外の何だっていうんですか」
泣きながら言い募る。えらい肺活量である。
流石に息が続かなくなったらしく、アンジェリーナ嬢はしゃくりあげて咳き込んだ。
クリスティーナ様が静かにお席を立ち、アンジェリーナ嬢にそっと水のグラスを差し出した。
「こちらを。少し落ち着かなくては、苦しいでしょう?」
アンジェリーナ嬢の背をゆっくり擦りながら、微笑みかける。
繊細なレースをさりげなくも惜しみ無くあしらったドレスが大変似合って、まるで女神。
うっとり見ている殿下のお顔には明らかにそう書いてあって、見ているこちらは益々もって居た堪れない。
アンジェリーナ嬢が悔しそうに表情を歪めた。
「なんで貴女がここに居るんですか」
差し出されたグラスを押しのけ、胸の前で手を握り合わせてふるふると身を震わせる。
「貴女、婚約破棄されたじゃないですか。マクシミリアン様は私を選んで下さったんです。なんでまだ付き纏ってるんですか!」
いや、付き纏っているのは殿下のほうだ。
キース様はじめ、この場の全員がそう思ったに違いない。
まったく同じ表情で、殿下を見つめる一同。
殿下は苦笑している。
「そうですよね、マクシミリアン様。私とマクシミリアン様は、真実の愛で結ばれているんですもの」
「うーん」
「うーんって何ですか。あんなに辛いお妃教育にも耐えて頑張ってるんですよ私」
「そう言うけれどね、あれはお妃教育じゃないよ」
「は?」
アンジェリーナ嬢が固まった。
「あれは、ごく一般的な令嬢教育。若干、底上げしているが」
「はあ??」
ぽっかり口を開けたアンジェリーナ嬢は、信じられないものを見る目で殿下を凝視した。
「一般的な令嬢教育?あれが?!すごく厳しかったんですよ!毎日毎日何度も何度も怒られて、叩いてきた人だっていたのに!!」
「礼儀作法のフォルカー女史だろう?報告は受けているよ。近来稀に見るやる気の無さと忘れっぽさに、やりがいを通り越して哀しみが湧くと仰っていた」
「!!!だ、だからって叩いて良いと?!」
「私も散々やられたものだ。あれだろう、ネコじゃらしみたいなハタキみたいな」
…アンナマリア・フォルカー様は、高位貴族の子女の作法教育を専門とする、隣国から嫁いでおいでの伯爵夫人である。かれこれ20年以上は教育に身を捧げてこられ、王家をはじめ各方面からの絶大な信頼と実績を誇る、いまいったい御歳幾つなのか怖くて誰も確認できない玲瓏たるご婦人だ。
勿論、殿下もご幼少のみぎり、大変にお世話になった。なんなら今でもちょっとお小言を頂けないかと思うこともあるのだが、それはともかく、フォルカー様は、言う事を聞けない子供はケモノとして扱うと公言なさり、体罰辞さずの厳しさでも名を轟かせている。
ただし、その体罰というのがなかなかで、殿下もそれはそれはやられたものだが、特製のネコじゃらしで擽り倒す・羽ハタキで悶絶するまでタップしながら撫でまわす・それでも逆らうツワモノは両刀使って泣くまで責めるという、確かに繊手とは思えぬ強かな拘束を受けての上ではあるのだが、とある界隈にて猛烈なファンがいるとかいないとか噂されるシロモノで、いやいや、とにかく凄腕の教育家なのである。
そうですか。あのフォルカー様が匙を投げましたか。
「ハタキだったら良いってもんじゃないでしょう!」
「そうか?あれを叩かれたと表現するのも何だと思うがな」
ぐうと詰まり、しかしアンジェリーナ嬢は引き下がらなかった。
「他にも、すごく難しい本を2日で読んで纏めろとか、わざと全然判らない外国語で話して私を締め出したりとか、うう、皆、すごい酷かったよ……」
ぽろぽろと涙を溢すアンジェリーナ嬢。だんだん言葉も砕けてきており、成程、全く教育が身についておられない模様。貴族令嬢たるもの、そもそも人前でわーわー泣くものでもないのじゃないかというのはさておいて。
「それはあれかな、貴女のご実家が支援する孤児院が、移民の子らも受け入れているから、そこへの配慮じゃないのだろうか」
キース様が口を挟んだ。
卓に片肘ついて顎を支えて、お行儀は悪いが、口調は和やかだ。
「貴女、彼らの言葉が判らないのだろう?それでは世話をするのも一苦労だと、殿下がわざわざ語学教師を手配したということではないのか」
「……はあ?」
「何だキース、いつの間に」
悪戯がばれたネコのような目を殿下が瞠る。
半眼で殿下を見やったキース様が、慇懃な口調で言葉を継ぐ。
「殿下のなさることに無駄も無意味もないと、よくよく存じておりますので」
「とか言う割には、こないだは酷かったじゃないか」
「不意打ちするのは止めてくれと何度言えば」
ぶっすりとしたキース様に、殿下は忍び笑いを漏らした。
そして、まだアンジェリーナ嬢の傍らに立っておられたクリスティーナ様を振り返り、立ち上がった。
お手を取り、そっとお背中に手を添えてアンジェリーナ嬢とは反対側のご自分の隣の席にエスコートし、元通りに席に着かれたクリスティーナ様のこめかみにくちづけを落とす。
クリスティーナ様は擽ったそうに身をよじり、困り顔で殿下を見上げ、甘々の笑顔の殿下に、いっそう困り顔で目元を赤らめた。
焦げ付くほどのアンジェリーナ嬢の視線をものともしない殿下は大した強心臓だと思う。
「ということでね、キースの言う通り、貴女がこの先も孤児たちを助けるにあたり困ることが無いように、余計なお節介かもしれないけれど、各方面の教師を手配させてもらったのだよ」
しれっと言う殿下を、アンジェリーナ嬢がぎりぎりと見据えた。
「なんで孤児の面倒を見続けなきゃいけないんですか。言葉なんか判らなくても困らないじゃないですか。だって私は殿下と」
「真実の愛で結ばれているから?」
アンジェリーナ嬢の言葉を、最後まで殿下は言わせなかった。
「そこから正そうか。……私が一度でも貴女個人に愛を囁いたことがあったかい?」
*****
絶句したアンジェリーナ嬢が茫然と殿下を見つめるなか、当のご本人はしごく落ち着き払って冷めかけた紅茶を飲み、アイシングの掛かったクッキーを摘み、甘すぎたのか眉をしかめて紅茶のお代わりを所望した。
「な、な、な」
「濃い目に淹れてくれないか。……ありがとう。手間を掛けたな」
ティーメイドに微笑みかけ、優雅な仕草で淹れたての紅茶の香りを楽しむ殿下。
……何処に話を持っていこうとしておられるのか、うすうす判りはするものの。
ちょっとだけ、アンジェリーナ嬢が気の毒になってきたような。
「身分を超えた真実の愛、ね。シチュエーションとして巷で人気らしいな」
キース様は、スパイスを効かせた固焼きスティックパイをぽりぽり齧り、静かに新しい茶と差し変えたティーメイドに目線で礼を伝えられた。
「妹に訊いたら、どえらく語られた。ことごとくとんでもない話だったが、まあお伽噺としてご令嬢たちには面白いんだろうというのは良く判った」
「お伽噺として楽しむなら何の罪も無いけれど、それを実践されては堪ったものではない」
一転してしかめっ面になった殿下は、茫然自失で泣くのも忘れているらしいアンジェリーナ嬢に向き直った。
「男爵位となるとあまり接点が無いから、もしや私が王室の人間とは気付いていないのかとも思って静観しようとしていたのだが、あまりにも貴女が積極的というか意味が判らない行動に出るので困ってな」
いや殿下、ガチガチに制服着用の近衛も連れて出歩いてる時点で、判らないわけないでしょう。
思わず突っ込みそうになって、ぐっと飲み込む。
「意味が判らないって……」
「初対面から距離感が無さ過ぎただろう。私は気にしない方ではあるけれど、流石にいきなり飛びつかれるとびっくりする」
「飛びつく?」
キース様が瞬いた。
殿下はキース様に頷いて、済まなさそうな笑顔をクリスティーナ様に向けた。
クリスティーナ様は、生真面目なお顔で殿下を見つめ返し、小さな仕草で続きを促した。
「困窮している孤児たちに、とにかく飢えないようにと迅速な食糧支援をしてくれたのが、爵位を継いだばかりのアンジェリーナ嬢の兄上でね。アンジェリーナ嬢も自ら子供たちにパンや菓子を配って、面倒を見てやっていたのは間違いないんだ。それには王室の一員として本当に感謝している。しているんだが」
ふう、とひとつ溜息を吐く殿下。
「子供たちが遊んで欲しさに纏わりつくのは良い。私も護衛騎士たちもだ。だが貴女の年頃で、毎回毎回、無邪気な顔して腕に絡んできたり抱きついたりしてくると、男の力で振りほどくのも気を遣うというか」
いや、それはもう不敬罪が適用されるレヴェルではなかろうか。近衛もとっとと止めるべきではなかろうか。
「最初は、貴女の兄上に苦言を呈そうかとも思ったのだが、それだと面倒を恐れた兄上が貴女を修道院にでも入れかねない。それは流石にその若さでは可哀そうだと思った。だから、滅多に見ない珍獣にはしゃいでいると捉えて、適当にやり過ごそうと思っていたんだ。貴女が更に仕掛けてくるまではね」
「…仕掛けるだなんて」
「あれは、一般的には色仕掛けというんだよ。まあ、拙かったしね、途中から私にも些かの思惑が生じてしまって止める気が無くなったのは認めるが……いや、ティナ、教えないからね、そんな目で見ても詳しいことは絶対に言わないよ」
若干、うろたえる殿下。
「誤解させるような言は弄したが、個人的な好意をアンジェリーナ嬢に向けて語ったことは一度も無いから信じて。…だが、そろそろ手を打つかという処で、ティナの様子がおかしくなってきたのには参った。どうも中途半端に聞きつけて、余計なことをご注進に及んだ輩が湧いたらしくてな」
恨みがましく遠い目をする殿下に、クリスティーナ様がちょっと小さくなった。
アンジェリーナ嬢は、俯いている。耳元がほんのり赤い。
「貴女が何処まで本気でお伽噺を現実にする気だったかは知らないが、今回失敗したからと言って、放置は出来ない。そう遠くなく他所でも惨事を引き起こすだろうからね。それくらい、まともな教育をされていないんだ、貴女は。勿論、貴女だけが悪いとは言わないが、成功するか飽きるか気が済むかするまで、トラブルをばら撒かれては洒落にならない」
殿下は口調こそ穏やかだったが、辛辣だった。屈辱を覚えたのだろうか、真っ赤になったアンジェリーナ嬢が素早く面を上げて殿下を睨んだ。
「……真実の愛を私が教えたって言ったじゃないですか」
聞いたことのない低い声でアンジェリーナ嬢が呟いた。これが地声なのだろう。
今までの甘ったるさとも打って変わって、平坦な口調だ。
「真実の愛に生きることを誓うとか、寒いこと言ってたのは何だったんですか」
「確かに寒かったな。言った自分が結構なダメージを食らった」
苦笑する殿下。
「だが、確かに教えて貰ったよ。何処に私の真の愛があり、それが如何に不変であるかということをね」
「もっと寒いです」
クリスティーナ様のお手を取って唇を寄せる殿下を、ばっさり叩き斬ったアンジェリーナ嬢が、すっくと立ち上がった。
「今日は帰ります。だけど、明日からまた来ますよ、教育を受けに。来ても宜しいのですよね殿下?」
甘い声と態度はすっかり鳴りを潜め、尊大で、不敬すれすれの物言いだったけれど、殿下は破顔した。
「勿論。臣下に頼られるのは嬉しいことだ」
アンジェリーナ嬢は、一瞬、痛みを堪えるように唇を噛んだが、すぐにしゃんと姿勢を正した。
「お言葉通りに、存分に甘えさせて頂きますとも。それでは失礼いたします。ノーラン様、クリスティーナ様、お邪魔しました。ごきげんよう」
席を立とうとした殿下をその目力で押しとどめ、綺麗に膝を折り、アンジェリーナ嬢は胸を張って堂々と退場していった。
近衛がひとり付いていくが、眼もくれない。あっという間に姿が消える。
それを見送って、キース様が殿下を振り返った。
「成程。あれが地か。それで、わざわざ手間をかける気になったのか?」
殿下は口の片端を釣り上げておられた。
何というか、大変に人が悪いというか腹が黒そうというか、あまりクリスティーナ様には見られない方が宜しいのではないかというような、そんな笑顔である。
「手管は稚拙だったが、そんなものは後から幾らでも身に付けられる。だが、度胸と根性は生来の物だからな。彼女は使えるよ。このまま教育を受け続けるなら、いずれ然るべき者から声を掛けさせる」
「怖い怖い。お前の外面に騙されて、うっかり夢も見れなきゃ、欲をかけもしない」
キース様は苦笑いして、更に茶器を変えようとしたティーメイドを制した。
「片付いたところで、俺という邪魔者も消えるとしよう。あとは仲良くおふたりで」
年寄りめいた冷やかしを言って、キース様もお席を立つ。
「失礼する、クリスティーナ嬢。この大バカ者に、思う存分、恨み言を言ってやると良い。あれから大分、貴女に纏わりついていたようだけれど、まだまだ言い足りないだろうからな」
「心して聞くとも」
恭しく、かつ甘く、殿下がクリスティーナ様に微笑みかけたのを機に、護衛騎士や側仕えたちが、おふたりを邪魔しない距離まで密やかに下がる。
私も、キース様をお見送りするべく、深く一礼し、その場を離れた。
******
「ドロシアはいつ気付いた?」
キース様は、その高いご身分に頓着せず、私にも気さくに話しかけてこられる方だ。
クリスティーナ様にぴったり寄り添って、というか、ぎゅうぎゅうに抱き込んでいると言って過言ではない殿下の幸せいっぱいの笑顔を、呆れたようなお顔で遠目に見ていたキース様が、ふと問いかけていらした。
「最初から、疑問はございました。陛下からも侯爵様からも、殿下に何のお沙汰もありませんでしたから。確信が持てたのは、薔薇を用意するように仰せつかった時でしょうか」
「薔薇?」
「はい。クリスティーナ様に、11本と本数を指定して紅薔薇を差し上げると仰いましたので」
「11本と指定する?」
きょとんとするキース様。
それはそうかと思う。貴族の嗜みとして、花言葉までは幾らか心得ておいでだろうが、本数の意味までも記憶しておられる男性は、あまり居ないと思うのだ。
その辺りを忖度し、抜かりなくフォローして差し上げるのが、我ら側仕えなのである。
殿下が、いささか特殊な方なのだ。
主にクリスティーナ様方面に特化しているけれど。
「11本の薔薇は、最愛を意味します。紅薔薇だけでも恋焦がれるという意味ですが…」
「…念押しか。そう聞くと、粘着気味で、若干、引く」
クリスティーナ様が少々じたばたしておられるようにお見受けするのは、気のせいではないと思う。
「僭越ながら、殿下らしいかと。ご幼少の頃から、クリスティーナ様にそれはそれはでございましたゆえ」
彼方を見やりつつ、そろそろお助けに戻るべきだろうか思案する。
殿下はたいへん愉しそうなのだが、クリスティーナ様が茹で上がっておられるのだ。
確かに、もともと殿下の成人と共に速やかにご成婚のご予定であるおふたりだが、にしてもそれはもう少しばかり先の話で、今はまだ飽くまでもご婚約中。自ずとふさわしい距離というものが存在する。
今の状態が微妙であるのは誰の目にも明らか。
とはいえ、あそこに割って入る度胸は、殿下付きはもとより、クリスティーナ様の侍女にも護衛にも無いだろうと思う。
「白昼堂々、やりすぎだろう、あれは」
キース様が、ちょっとしょっぱいお顔で呟くのも、むべなるかな。
「せめて陽が落ちていればまだしも。いやそうじゃない。助けてやってくれ、ドロシア。お前にしか出来ん。少なくとも俺には無理だ。軍馬あたりに蹴られる。まだ死にたくない」
…私は蹴られないとでも?
……蹴られないかもしれませんね。殿下がごくお小さい頃からお傍に上がり、長い年月、畏れ多くも姉弟のように過ごさせて頂きましたから。
お小言を申し上げるのも、姉の勤め。
「それでは失礼して、行って参ります。お見送りも致しませず、申し訳ございません」
「何の、構わん。見ちゃおれん。早く行ってやってくれ」
大笑して大股に歩み去るキース様に一礼し、急ぎ足で殿下の元に向かう。
ああああクリスティーナ様の御髪が大変なことになっておられるではないですか。何をやっていらっしゃいますか殿下!その不埒な手は、いま何処にあります?!
「戻ってくるのが早いなドロシア!もっとゆっくりで良かったんだぞ?」
「充分、ゆっくり戻って参りましたとも。…クリスティーナ様、あちらに見頃の薔薇がございます。お好きなだけお持ち頂くよう、王妃様から申し付かっておりますので、ごゆっくりお選びくださいませ」
べりべり殿下を引きはがしながらお付きの侍女に目配せすると、感謝の眼差しと共に、胸元まで上気したクリスティーナ様のお手を引いてサササと東屋から去って行く。
乱れた御髪を気にしながら、目を潤ませて、足元も覚束なく侍女に支えられて去って行くクリスティーナ様は只ならぬ色香を漂わせておられ、同性の身ながら酔いそうなほど。
そのお姿を非常に名残惜し気に見送った殿下だが、こちらを振り返った時には、ものすごく恨めし気であった。
「良いところだったのに」
「何を仰いますか白昼堂々人前で。私共は人目のうちには入らぬとは申せ、ノーラン様が居られましたでしょうに」
「覗き見とは出歯亀かあいつ」
「覗くどころか、遠くからでもしかと丸見えでございました」
いま、舌打ちなさいましたか殿下。
「他にも何処から誰が見ておりましたことやら。不埒な真似をなさっていたと、アディントン侯爵様に告げ口なされないと宜しいですね。……そもそも今回の破棄騒ぎ、それこそ不意打ちでなさいましたでしょう」
ぴく、と殿下の頬が引き攣る。
「陛下からも侯爵様からも、表立ったお叱りは無かったと存じておりますが。ご家族の皆様、クリスティーナ様を大変に大事になさっておられることですし、これからじわじわ難癖お付けになって、ご婚儀が伸びなければ良うございますが……」
げ、とか仰ってますが、何処でその様な下世話な表現を覚えてこられましたやら。
「殿下のご真意が何処にあっての所業か、端には直ぐには解らないよう振る舞っておられたわけですし、それならば当然のことご不満がある云々クリスティーナ様付きの方々の前で言い放った以上は侯爵様のお耳にも一直線に」
「それはね!」
何を今更、慌てなさいますか。
「不満というか、まあ、不甲斐ない私が悪いんだよ、判っているけどさ」
ちょっと不貞腐れて、殿下はぼやいた。
「一生、年齢なんぞに変な引け目を持たれて、政略ありきの伴侶だと思いながら傍らにいて欲しくなんか無い。言いたかないが、私は今まで散々アピールしてきたつもりなんだが」
ええもうそれは間違いなく。見てきた我々は、もはや満腹どころか食傷気味で。
深く深く頷くと、殿下はより一層、遠い目になられた。
「それが肝心のティナにだけ通じてない。何なんだろうな。それほど未だに洟垂れ小僧かと情けない思いでいたところに、ややこしいことを始める奴は出てくるし。手間を掛けさせられついでに新規まき直しを図ろうと思ったんだが……割と洒落にならない手違いがあって心底肝を冷やしたし、もう後には引けないしで、こっちだって磨り減らしたんだいろいろと」
「私に仰ってどうなさいますか」
「勿論、本人にはとうに訴え済みだ。もう正面突破しか選択肢が無かったからな。……ティナの好きな薔薇に誓って、今までのお仕着せと思われてる婚約なんざ破棄して、これから先は、貴女自身を心から求めていると信じてくれるまで、誠心誠意、口説きまくると堂々宣言してきたとも」
それでこそ我が主。
「ご首尾は如何でございますか?」
「まあ見ての通り」
いきなり、ふにゃふにゃの笑顔になって、殿下は惚気た。
「可愛いよねティナは。恥ずかしがって抵抗しようとするんだけど押しに弱いし、キスにも弱いみたいであっという間に蕩けてめろめろに」
「そこまでで良うございます」
何を言い出すかと思いきや。
夫ある身の私とはいえ、そんな赤裸々、聞かされても困るというもので。
「では、あとは侯爵様という高い高い城壁を撃破するだけでございますね。心よりご武運お祈り申し上げます」
「縁起でも無いことを言うな。そもそも、おおやけには婚約破棄なんざしてないんだ、撃破もへったくれもあるか」
そう言って剥れる殿下は、洟垂れではないかもしれないが、悪戯小僧の面影は色濃く残る。
クリスティーナ様の透き通るようなお声が、風に乗って薔薇の茂みの向こうから聞こえてきた。
お身繕いを終えられて、薔薇園にお戻りになられたらしい。
お付きの侍女の穏やかな声、恭しい庭師の声に混じり、時折、抑えておいでだけれど愉しそうな笑い声が流れてくる。
ふっと表情を緩めた殿下が、引き寄せられるように向かって行く。
その後ろ姿をお見送りして、納まるべきところへ納まった安堵に、ひとり小さく笑みを浮かべてしまう私だった。
*******
侯爵様は甘くなかった。
殿下は先日来、アディントン侯爵家一同総出のクリスティーナ様を囲む防護網を何とか突破しようと四苦八苦しておられるが、非常に手強いらしい。
ご本人に逢えないどころか、下手をすると取次ぎすらして頂けていない可能性があるらしい。
というのも。
クリスティーナ様のお好きなお菓子に添えたお手紙にも返事は無く。
お好きな花に熱烈なカードを添えても音沙汰が無く。
流石にそれらを突き返されはしないものの、あまりの手応えの無さに、果たしてご本人の元に届いているのか、怪しい節を感じておられるのだという。
今朝もまた、お手ずから摘んだ薔薇を携えて突撃なさったは良いが、自ら前線にお出ましになられた侯爵夫人に見事に煙に巻かれ、薔薇こそ受け取っていただけたものの肝心のクリスティーナ様は影も形も見えずと、またしても大敗を喫してきたとのことで、そろそろ午後も深まろうとする今もまだ意気消沈して、書類を前に突っ伏しておられるお姿が哀れである。
「この前まではいつ訪ねても逢えたというのに……!」
呻いておられますが、やはりアレでしょうよと私は思う。
「先日の殿下の狼藉が、余すことなく侯爵様にご報告されたのでしょうね、間違いなく」
殿下は、がばりと起き上がった。
うっすら涙目なのは、見なかったことにしたい。
「何が狼藉か!愛する婚約者殿に罪のないキスを送ったくらいで、何で未だに門前払いを食わされねばならん」
いや、罪が無くないでしょう、アレ。
クリスティーナ様、かなりな有様になっておられましたからね。
なので、この厳重極まりない防護網は、クリスティーナ様ご自身の羞恥心と煩悶に裏打ちされているのであろうと思っているのは、殿下には内緒である。
ひとしきり呪いの呟きを駄々洩れさせていた殿下だが、どうやら鬱憤は仕事にぶつけることになさったようで、突如、猛然と書類を捌き始めた。
この切り替えが出来るところ、さすがは殿下である。
暫く傍らに控えて眺めていたのだが、この調子でさくさく執務に励まれるのなら、片付いた頃合いでご褒美など、と、うっかりほくそ笑んでしまったのが良くなかったらしい。
「ドロシア。お前、何か隠しているだろう」
こちらを見ておられる気配も無かったが、鋭く指摘されてしまった。
まだまだ私も側仕えとしての修業が足りないことを痛感したが、時すでに遅し。
「何のことでございましょう」
「誤魔化すな。何か変だと思っていたんだ。いったい何を企んでいる」
「それはまた人聞きの宜しくないことを。こんなに殿下の御為を思う私に」
「御託はイイから、素直に白状しなさい。何を笑っていた」
書類はみるみる減っていく。
これならば、まあ、良いであろうかと、控えているお付きの文官とも目配せを交わし、私は書類の山の一番下に忍ばせておいた一通の書状を、我ながら思わせぶりに抜き出した。
品の良い箔押しの入った、見るからに上質な封筒に、殿下の御名が麗しい文字で綴られている。
「!ドロ、それ!!」
「はい。クリスティーナ様からのお手紙ですね」
伸びる手を素早く躱し、にこやかに部屋の隅まで下がる。
そのように中腰になるほど慌てなくても、お手紙は逃げません。まあ、いま、持った私は逃げましたけれど。
「お早くそちらをお片付けなさいませ。そうしたら、お渡し致します」
「覚えていろよ」
歯噛みする殿下は、更にスピードを上げた。
忍び笑った文官が冷たくひと睨みされて、口の中で笑いを噛み殺したが、堪えきれずに肩を揺らしている。
王族相手に不敬を問われても不思議は無い振舞いだが、咎める近衛も口先ばかり、目元を綻ばせている有様。
僭越ながら、殿下は本当に臣下一同から慕われておられるなあと思うのは、こんな時だ。
いつまで経っても、悪戯好きで困った方ではあるけれど。
我らを照らす、光のような殿下であらせられますよう。
最愛のクリスティーナ様も、ようやく殿下にお逢いする勇気を振り絞られたようでございます。
お手紙と共に、お茶の時間には登城なさると先触れがございました。
仮初めに、婚約破棄は、したものの。
揺るがぬ絆のおふたりに、我ら一同、末永くお仕え致す所存でございます。
お目に止めて下さり、ありがとうございました。