プロローグⅠ
スリラーっぽいのです。
完走できるかな……。
頑張って書いてみますのでどうぞお付き合いくださいませ。
枝が絡まって仕方がない。
手ではなく、足がどうにもままならない。一度地面を踏み込むと二重三重に積み上げられた天然のブービートラップに足を取られて動けなくなる。山中で傾斜のかかった獣道だから慎重に。両手を広げて、なるべく体勢の余裕をとって一歩一歩を踏み出していく。足を取られた状態でバランスを崩してしまうと、枝がクッションになるから危険はないかもしれないが足を捻りかねない。
まるで、底なし沼に浸かっているようだ。だが着実に目的地に近づいている。
藪を抜けると、枝葉の堆積していないスペースに出る。
ここがいい。湖畔もよく見えるし、地面も傾いていない。そう思ってリュックを置くと、巻き付けた紐を外してアウトドアチェアを広げる。どかっと座り込むと透徹した森の空気を吸い込む。
土と葉の香りが鼻腔に充満すると、不思議と肩の力が抜けてくる。僕は腕を組んで天を仰ぎ見た。
僕は何者でもない。これまでの人生で星の数ほど過ぎ去っていった人たちの中で僕の名を覚えている人は何人いるだろう。いや、きっと誰も覚えていやしない。何者にもなれず誰の気にも留まらない。沢に転がる不細工な石、その表面にこびりついた無数の砂利。それが僕だ。
ぱちぱちと燃える薪の弾ける音が聞こえる。
誰もいない湖畔のほとりで僕だけがこの音を聞いている。
立ち上る炎を横目に重苦しい現場ラジオを置くと、何度か躊躇って電源ボタンを押す。
安物のアウトドアチェアに腰掛けて、両手を握りしめたまま背もたれに身を預ける。
息を呑んで、スマホをタップするとやがて哀愁のサウンドが流れ始める。
中高音のスピーカと重低音のウーハースピーカから伝わるシンセサイザーの音。
歌い手のいないコンサートホールで僕は幻想していた。
雨の夜に濡れながら、月と星を見上げながら歌う彼女の姿を。
老いと若さ。美しさと醜さ。彼女の謳う歌詞はまるで僕たちに頭を垂れる罪人のように痛ましい。
僕は両手を合わせて、さすりながら耳に沁み込んでくる音に嗚咽した。
木々のせせらぎも水面を蹴る白鳥も身を切る風も、全て、もう何も聞こえない。
瞼の裏で唄う彼女と、彼女の唄が僕を異世界へと導いてくれるのだから。
「どうも、お久しぶりでございます」
駅前のカフェに入ると僕は改めてそう云った。
「お変わりないようで安心しました」
「そう見えるか?顔色がだいぶ悪いと思うんだがな」
と逝って先導して歩く男はテーブル席へと腰掛けた。巖のような肌に垣間見える細い眼をしばたかせて、乾燥した唇をへの字に曲げた。
「療養……という名の謹慎みたいなもんか。ちと自宅にいる時間が多くてな」
「とてもお元気そうに見えますが」
白髪の生え揃った髪、小麦色のような肌に浮かぶシワやたるみは岩のように厚く凝固していて、大木の幹のようにどっしりといている。ごつごつとした頬骨に四角い顎、それらに押し込まれ細くなってしまった眼孔。
僕の眼に目に映る初老の男は警部、瀬能義隆だった。
本人は自宅待機で不摂生を嘆いているようだが、顔色の善し悪しがわからないほどに色素が沈殿していた。往年の鋭い眼光は見る影もない。くぼみの奥の双眸からは色褪せたような濁った光が見える。
「一週間も動かないでいると体にガタがくるよ。君は分からんだろうが脇が固まると肩が上がらなくなるんだ。肩甲骨もだな。だから、運動せんといかん」
そうでなければ、暇つぶしに取材など受けはしないだろう。
「お陰様で私のような者の取材に応じてくださるのだから、ありがたいことです」
「そう面白い話を期待されても困るがね……」
瀬能はビジネスバッグに手を入れるとビニール袋で包まれた新聞紙を取り出した。長く保管されていたものらしく紫外線の侵食で小麦色に変色してしまっている。
「拝見させていただきます」と云って一面を広げるとベタ塗りの『T山、連続殺人事件』という見出しが目に入った。事件の概要はこうだ。山奥の県境、急勾配の続く山道付近の限界集落にて住民全員が惨殺死体で発見されるという犯罪史に名を残す大事件が起きた。状況があまりにも大袈裟で死体の発見が遅れたため、その捜査は困難を極め、未解決事件となった。
「これほどの醜聞は過去にも未来にもこれだけだと祈りたいね。村一つ消されたのに殺人犯の手がかりすら掴めないとは」
「最終的に、報道管制が敷かれたんでしたっけ?」
「流石に圧力を掛けざるを得なかった。今でも現場に足を踏み入れる野次馬がいるらしいがな」
法治国家にとって暗い汚点だった。事件の規模に相応しく初めこそ大大的に報じられたが、やがてマスコミは示し合わせたかのように政治家の汚職や政策、新しい醜聞へとシフトしていった。事件の進捗状況すら報じられなくなった。一切進歩していない状況を世に伝えたところで警察の信用問題に関わるのだからさもありなん、といったところだ。
「未だに調べてらっしゃるのですか?」
「まぁ、暇を見つけてはな。いっとくが俺だけじゃないぞ。あの事件を捜査した刑事は大抵プライベートの時間を削って調べている」
僕の真面目な問いかけに瀬能はばつの悪い顔で答える。彼の人生にとっても大きな屈辱の記憶だったのは想像に難くない。本当は怒りや苛立ちが仮面の裏に隠れているのではないか、ノンキャリア警部のセンシティブな部分に気を配りながらも、
「どうしてですか?」
「そりゃあ、気になるだろう。住民全員、50人殺したんだぞ?なんでそんな真似したくなったのか、犯人に直接聞いてみたくないか」
瀬能義隆。
5年前に定年退職した元警察官。在職中に警視総監賞を28回受賞している生粋の刑事。40年近く警察官一筋で現役生活を全うした一本気の男であり、僕にとっても興味の尽きない対象だった。
在職中は所轄の県外を超えて強盗犯を追いかけたとか、県内切っての武闘派極道O組を解散させたとか、虚実入り交じった噂話が耳に入ってきた。
引退後は文筆家として書作を複数出版。それにとって瀬能は一躍時の人となった。自伝混じりの『警察官24時』は現代の警察官の生活を描いた赤裸々なドキュメンタリー小説として評価された。大いに脚色もあったとのことだが、某批評家からも「守秘義務を守りつつ、緻密かつ刺激的な傑作」と云わしめたという。この成功があってから瀬能はジャーナリストとして活動をする傍ら、小説家やエッセイストとしても才覚を発揮するようになる。年に一度のペースでドキュメンタリー小説を発表するようになり、出版業界で確かな地位を築き始めている。地元の文筆家ということもあり、気付けば僕もファンになっていた。
刑事として先鋭化を重ねた彼独自の美学、現実に即した世界観、格調高いながらもどこか乾いた印象の文体。
飽和する刑事ドラマや警察小説という作品群に打ち込まれた大きな楔、というのが世間の評価だろう。僕も妥当だと思う。
メジャーでない頃から熱狂的なファンが生まれたのも頷ける。どれだけ高い解像度で刑事生活を描けるか。ストイックな瀬能から生み出される作品は悪く言えば遊びがない。だが、常に読者の期待する題材で期待以上の緻密な描写を供給してくれる。
ドラマ化の企画も複数立ち上がっていると聞く。来年か再来年にはメインストリームで活躍する一線級の作家先生として今以上の知名度になっていることだろう。
否、今でさえ本来ならお近づきになれるような人ではない。
たまたま瀬能が暇をしていると耳に挟んだのは僕にとっては僥倖だった。
「どなたかを投げ飛ばされたんでしたっけ?」
「ああ、婦女暴行の現行犯だよ。アスファルトに投げ飛ばしてやってね。奴は腰を打ったが私もまた腰をやってしまった」
悲痛の表情で瀬能は腰をさすった。
「まぁけしからん相手だとは思っていましたが」
「聞いておらんのかね?」
「僕はただ知人から瀬能義隆が人を投げ飛ばして、仲良く救急車に運ばれたと聞いただけですよ」
「地元のネットワークというのは恐ろしいものだな……」
些細な痴話喧嘩か、ナンパか、想像の余地はあったが僕にとってはどうでもいいことだ。僕は何も聞かなかったが瀬能も話を広げてこなかった。ストイックな刑事らしく武勇伝を語るつもりがないらしい。
「それで、興味があるのは殺人事件の現場だったかな」
瀬能はタバコを口に咥えながら云った。
厳密に言うとタバコを取る仕草をして、店内で吸えないと気付いてやめた。
僕は呼吸を整えながら話を進めることにした。
「というよりは例の村のことなんです」
瀬能の細い眼が大きく開かれた。
要領を得ない僕の言葉の意図を瀬能ははっきりと掴んだようだった。
「あんなところになんの用がある?」
僕は誤解を招かぬよう言葉を選びながら云った。
「仕事ですよ。ちょっとした取材ができればと」
「あの別荘村をか……」
瀬能の顔が途端に歪む。僕を不審な目で見ている。不機嫌にならぬよう柔和な笑みを絶やさぬよう気を払ってきたが、ここに来て努力は水泡に帰したのだった。