白い軽自動車と彼女のこと
車のドアを閉める。
銀色のボディが、カチャリと落ち着いた音を立てた。
あの頃の車とは、ずいぶん違うな、と苦笑する。それなりの年齢になり、収入や地位も、ささやかながら「それなり」に見合うようになった。乗っている車も。
ズボンのポケットにキーをしまう。
オートロックのリモコン、そして自宅の二重鍵がついたキーリングは、妻からもらった。ジャケットの内ポケットには、スマートフォンと財布。ワイシャツの胸に、久しぶりに煙草の箱を入れた。
妻の前では吸わない。でも、今日は特別。
深夜、家から車で走り出した。
――何年ぶりだろう。もう25……いや、27年になるか。
あの日も、この道でハンドルを握った。
当時の愛車は、先輩から譲ってもらった、中古の白い軽自動車。譲り受けた日のことも覚えている。
「あんまりボロだから、タダでいいよ」
そう言われて、本当にタダですむ……と当時の俺は思ったが、そんなに甘くなかった。
先輩は、要は廃車費用をケチりたかったのだ。
早速乗ろうと思ったら、切れたばかりの車検を通さなくてはいけなかったし、名義の書き換えなど、諸々の手間もかかった。自分でできる手続きはできるだけ自分でやって節約したけど、それでも乗り始めるまでに 10 万円くらいはかかったと思う。
エンジンをかけたまま停車していると、アイドリングが不安定になって、しばらくするとエンストしてしまった。大学の同級生たちに「お金貯めて、買い替えたら?」と言われてしまうほどボロだった。
でも、東京の片隅で、安アパートで一人暮らしをしながら大学生をしていた二十歳の俺には、お似合いだった。大学時代の俺の大切な相棒だった。
きゅるるうぅん
きゅるるるうぅぅん
一番後ろまで下げたシートにゆったり座り、キーを捻る瞬間が好きだった。バッテリーが弱ってくると、エンジンのかかりが悪くなって、そのたびに焦らされたっけ。
愛車との最初の一年間は、バイト後の深夜に東京を走り回った。
いつも夜 10 時まで、大学近くの食堂でアルバイトしていた。個人経営の、大学前のごみごみした通りにあった店。金のない学生達で夜はいつも満員。バイトが終わったあと、膝の破れたジーンズのポケットに財布と、車とアパートの鍵だけついたキーホルダーを押し込んで、こっそりドライブに出かけた。
近所じゅうの道を覚えて、毎晩1時間程度、音楽を聴きながら運転するのが日課になった。
深夜ドライブをするようになって一年近く経った頃。
マコとバイトで知り合った。大学も学年も同じだと、しばらくして知った。学部は違ったから、授業で会ったことはなかったと思う。
「バイトのあと、いつも何してるんですか」
バイトとしては少しだけ俺が先輩だった。そのためもあってか、彼女は俺に敬語を使った。
「ドライブ……といってもそのへん走ってるだけだけど……」
「へぇ。一度乗せてもらってもいいですか?」
「いいけど、ほんとにふらふら走ってるだけだよ?」
小さな白い軽自動車。
同級生にはどうやって買ったのか、新車のスポーツカーに乗っているのもいた。そんな連中に比べたら、格好つかない車だった。そのかわり、中古で売るようなことももうないだろう、と遠慮なく自分好みにいじった。
ガソリンスタンドでバイトしてる友達から安く譲ってもらったスピーカーを、後席の背中に自分で取り付けた。内装を外して、スピーカーの配線を埋め込んで。安売りで見つけた CD チェンジャーに、お気に入りの CDを厳選して詰め込んで……速くはなくても、快適にはできる。休みに一人で車をいじって過ごす時間も好きだった。
お気に入りの曲ばかり流しながらの深夜ドライブに、マコがついてくるようになった。
最初の日は近所を20分ほど走って、マコをアパートに送っていった。
そのうち1時間になった。音楽の音を少し絞って、二人で他愛のない会話をした。
三ヶ月経った頃には隣の埼玉や神奈川……さらには海まで、山まで。距離と時間は延びて、23時から始めたドライブが深夜2時まで……なんてことになった。二人とも大学三年生……一年生の頃から真面目に単位は取っていたので、卒業に必要な授業はわずかになっていて、時間と気持ちに余裕のあった時期だった。朝の早い一時間目の授業はほとんど残っていなかったから、少しくらい寝坊しても……とだらだらドライブに時間を費やした。
「この車、かわいいよね」
助手席から女性の声がしたのは、大学時代だとあの頃、マコと一緒にいたときだけだったと思う。
「おかしいかな?」
「二人で乗るには、ちょうどいいよ。ここが……すごく落ち着く」
彼女の笑顔に、何か言おうと思った。
ずっと、何かを言うべきだと感じていた。いつも口が渇いた。
「お気に入りのCDもってきちゃった」
ある日、彼女は俺の知らない洋楽のCDをプレーヤーに入れた。その日から、CDは彼女が持ち込んだもの半分、俺のもの半分、でミックスして聴くようになった。
運転に疲れたら深夜のゲームセンターで、古いゲームを遊んだり、コンビニに車を止めて、あんぱんや缶コーヒー、それに煙草――二人で吹かして休憩した。
「俺は楽しいからいいんだけど、こんなしょっちゅう夜遅くなって大丈夫なの?」
「全然、大丈夫!」
マコが、車の向こう側でおいしそうに煙をふーっと吹いて、温かいコーヒーをすする。
俺とドライブするようになって、彼女は少しだけ吸うようになっていた。
「でも、もう午前3時近い……送ってかなきゃな」
大学四年の夏が過ぎていく頃。
俺もマコも就職は決まっていた。
俺は東京でそれなりに大きな企業に。彼女は実家に戻って、地元の役所に。
お互いの進路が決まってしばらく。涼しさを感じる秋の日に、ドライブで千葉まで行った。
普段はお金がかかるから……と乗らない首都高に乗り、そのままアクアラインで房総へ渡った。
この日は二人とも、ずっと黙ったままだった。
気がついたら房総半島の南端にいた。
空が白み始めていた。
房総の「南端の碑」の手前で車を降りて、内房と外房……海を二つに分ける半島の先端に二人で立った。
何かを言う、最後の機会だということを、俺も、マコも自然と察していたんだと思う。
「あのさ…」
「うん」
「…俺さ」
「うん」
そのまま。
たっぷり時間をおいて、はぁ、と彼女がついたため息。
その音が波間に、かすかに聞こえた。
◇
サイドブレーキを引き、革巻きのハンドルから手を離して車外に出た。
あの頃の軽とは違う重厚な造りのボディはしっかりコーティングされ、新車のような光沢を保っている。半島南端の潮風を浴びて、朝の光が車体の表面をなめていくのを眺める。
海から朝日が昇るのを二人で見たあの日。
あの日と同じ場所で朝日を見たくなった。
一昨日、大学時代の友人から電話があった。
「……マコ、ずっと悪かったんだってさ。離婚してから、酒とか増えてたみたいで……」
「……離婚したのは聞いてたけど、そっか」
「あの頃おまえたち、付き合ってたよな?」
「……いや、付き合ってはなかった」
「そうだったか?バイトのあと、いっつも出かけてたと思ったから」
「……ああ。ほんと、ただふらふら……走ってた。それだけ、だった」
マコとのドライブはあの日が最後になった。
それからはバイトで会っても、彼女と俺の仲は何かが変わっていて……その後に交わした会話はわずかだったと思う。
「ねぇ」
「うん」
遠い記憶の中にある、潮の匂い。
あのとき、何か言えていたら、俺たちはどうなっていただろう。
何も変わらず、こうなっていただろうか。それとも――
房総の海と空に光を投げる朝日は、あの日と同じで、泣きたいほど美しかった
(了)