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赤須きん

作者: 伊野尾咲和

満月の夜が特別に好きだった。

いつもより明るく照らされた街並みが、尾方隼冬の目には、まるでゴールドのオーラをまとったように映った。立ち並ぶビルも、歩道に整列する緑も、すれ違う人々も、全てが黄金色の糸で縁取られている。見慣れた日常が、どこもかしこも輝いて見えた。

こういう夜はどうしても女が欲しくなる。 どこからともなく漂ってきた香りが尾方の鼻腔をくすぐった。

 近くにいるに違いない。

 尾方が探しているのは同類だ。絶え間なく行き交う人々が奏でる無数の足音に耳を澄ませる。同じ目的を持った人間の足取りだけを聴き分けるのだ。

 おかしなことに、満月の夜は普段よりも高確率でその出会いが訪れた。特にここ数か月は狙いを外していない。おかげで、気分も体調もすこぶる良かった。

 見つけた。あの音色だ。

 それは軽やかな響きだった。より強い遺伝子を嗅ぎ分けようとして、女のつま先が躍っている。その様子は地下を這うようにして、尾方の足の裏にダイレクトに伝わってきた。

 尾方はその音が充分に近づくのを待ってから、女から見える位置へと移動した。

後はそのまま、そこに立ってさえすれば良かった。

「あのう、道に迷ってしまって、困ってるんです。この辺りにあるJackalっていうBarを知りませんか?」

 女の甘ったるい声が脳を刺激する。今夜もたっぷりと御相伴に与れそうだと尾方は思った。




 食後のドライブは尾方にとってルーティンの一つだ。素晴らしいディナーとの別れを惜しみつつ、尾方は愛車を走らせていた。今宵はエンジンから伝わるリズムさえ、いつもより軽快に聞こえてくる。満足感がそうさせるのか、あるいは高揚感が未だに続いているのか。どちらにしても、最高の夜であることに違いなかった。

 どれくらいの時間が経ったのか。ヘッドライトに浮かぶ街並みが、街から町へ、そして、本能が懐かしいと感じる地へと、すっかり様変わりしていた。道路脇には木々がうっそうと生い茂り、外灯も民家もほとんど見当たらない。ここ二十分ほどは曲がりくねった山道が永遠と続いていた。

 尾方は浮足立っていたせいで、予定外に遠くまで運転して来たことを、ほんの少し後悔し始めていた。道幅が狭い上にUターンできるような場所も見つからない。とにかく今は先に先にと進むしか無かった。

 ようやく余裕を持って対向車と擦れ違える道幅になったところで、尾方はハザードランプを点灯させて愛車を停車させた。

 ナビゲーションシステムでこの先のルートを検索しながら、ガソリンスタンドを探す。気が付かないうちに、ガソリンが残り僅かとなってしまっていた。

 燃料不足を告げる警告灯はいつから点いていたのだろうか。確認不足だった自分を呪ってやりたい気持ちになる。ここで何とかUターンして戻るべきか、それとも、このまま進むべきか。

 距離だけを見ると、進んだ方がスタンドは近いと表示されている。ルームミラーに映る『来た道』は暗黒に飲み込まれていた。こうなれは、『行く道』を信じるしかない。尾方は先を急ぐことにした。


 標高差の影響なのか、辺りには白い靄のようなものが立ち込めてきた。

 段々とアクセルを踏み込んでもスピードが出せなくなってくる。

 そして、ついに尾方の愛車はその動きを止めた。車内に沈黙が訪れる。ヘッドライトの明かりだけが空しく前方を照らしていた。

 尾方はエンジンを再始動させようと試みるが、愛車は何の反応も示さない。

 もう一度、もう一度、もう一度。

 何度試しても、結果は変わらなかった。恐れていたことが起こってしまったのだ。スマートフォンを手にして、更に愕然とする。

 液晶画面には『圏外』と表示されていた。


 どうするべきか考えあぐねていると、ルームミラーに後方から来る車のライトが反射した。

 尾方は車から飛び出ると、何とか後続車に停まってもらおうと大きく腕を振った。後続車は速度をギリギリまで緩めたが、停まるべきかを決めかねているようにゆっくりと尾方の横を通り過ぎて行く。

 駄目か。

 まあ、こんな夜更けにこんな場所でわざわざ他人を助けてやろうとするのは、相当なお人よしか別の目的がある奴くらいだろう。大人しく夜明けを待つとするか。

 そう判断した瞬間、通り過ぎたワゴン車が少し先で停車した。運転席から降りてきた人影がこちらに向かって歩いて来る。

 ヘッドライトに浮かび上がったのは、美しい色のロングカーディガンを羽織り、そのフードを目深にまとった女だった。顔全体は見えなかったが、その香りが若い女だと告げていた。

 尾方は惹き寄せられるように、女の細く白い首筋と、形の良い唇に目をやった。

 更に、彼女がフードを後ろに流すと、尾方の心臓は大きく跳ね上がった。

 女の長いまつ毛と黒い瞳が尾方を真っ直ぐに捉えている。

 尾方は体中が急速に渇いていくのを感じていた。あれほど満たされていた部分が嘘のように飢えへと変化していく。目の前の女を今すぐにでも手に入れたかった。呼吸が激しく乱れる。抑え込むのは無理かもしれない。

 不意に、女の唇がゆっくりと動いた。

「どう、されましたか?」

 尾方は再び強い衝撃を受けた。

 なんと美しい声なのだろうか。

 ますますこの女を手にしたくなった。




 女は『赤須きん』と名乗った。曾祖母の名を受け継いだらしい。

「おばあちゃんの名前みたいでしょう?子供の頃はこの名が嫌で、だけど、今はすぐに人に覚えてもらえるので、良かったなって思っているんですよ」

 そう話す女の横顔は穏やかで、眠りを誘うような心地よい声色もあってか、尾方の衝動はいつの間にか鳴りを潜めていた。

 きんは尾方の事情をすぐに理解し、自宅に泊まるようにと進めてくれた。きんの自宅は数年前まで小さな民宿を営んでおり、今でも来客があった時のために宿泊用の部屋を幾つか残しているのだという。

 本来であれば、ガソリンスタンドまで乗せてもらって何とか愛車まで戻るべきなのだろうが、女の話によるとこの辺りのガソリンスタンドは朝8時~夕方6時までの営業で、しかも日曜日である明日は定休日らしい。きんの家で電話を借りて牽引車を呼ぶか、知り合いに頼るという手もあったが、それらはしたくなかった。今夜を含めて二晩もきんと過ごすチャンスがあるのだ。逃すなどありえなかった。

 外からでも見える位置にガス欠のため停車中と書いたメモを残し、尾方はきんの運転するワゴン車に乗り込んだ。

 やっぱり今夜はツイているのだと思う。愛車が止まってしまった場所は道幅も広く、交通の妨げにはならないだろう。しかも、きんの話ではこの道路は国道からの古い抜け道で、新しいルートの開通以降はきんのような地元の人間だけが使っているんだとか。

 尾方は愛車を走らせているうちに、どこかの地点で道を誤った。

 その結果がこれだ。

 思わす笑みがこぼれる。何もかもきんに出会うための導きだったに違いない。

 尾方は満月が持つ不思議な力とその恩恵に改めて感謝していた。




「おばあちゃん、ただいまー」

 真夜中だというのに、きんは大きな声で帰宅を告げた。

 だが、返事を待つことはせずに、来客用のスリッパを手に取ると尾方の足元にそっと並べる。

「これを使って下さい」

 続いてきんは玄関横の部屋に消えると、部屋のキーを手に戻って来る。

「お部屋の鍵です。ご案内しますね」

 きんは尾方にキーを手渡たすと、下駄箱の上に置いてあった1本のペンを手に取った。

「えっと、名前とか住所とか記帳した方が良いのかな?」

「いいえ、大丈夫ですよ」

「じゃあ、それは?」

「これですか?ライトです」

 そう言ってきんは尾方がペンのキャップだと思っていた部分を回して、ペンの底だと思っていた部分に明かりを点けた。

「そう多くはないんですけど、時々ブレーカーが落ちてしまうことがあって。この辺りは外灯も少ないので、思っている以上に真っ暗になってしまうんです。念のためにこれを持っていれば、怖い思いをしないで済みますから」

 きんはペン型のライトを洋服のポケットへと差し込んだ。

「尾方さんも必要だったら言って下さいね。まだありますから」

「いや、僕は大丈夫だよ。これがあるから」

 尾方は自分のスマホを取り出して、きんに見せながら言った。

 その瞬間、車の中で感じた絶望感を思い出す。スマホの画面を覗き込んだ尾方は、表示されているその文字を声にした。

「圏外」

「はい。だから、スマートフォンを持っていなくて」

「でも、良いことだってあるんですよ。大会前の学生さんたちが集中して練習に励めるからって合宿で使ってくれたり、当時のお客様だった方がデジタルデトックスをしたいからって遊びに来てくれたり」

「その度に民宿を再開するのって大変じゃない?」

「それが、学生さんたちってすごいんですよ。お風呂の準備から食事まで、全部自分たちでこなしちゃうんです。それも含めての合宿だからって。私はただ場所を提供しているだけなんです」

「何だか僕が食事まで出してもらう約束をしたことが、申し訳なくなるよ」

「良いんですよ。一人増えても変わりませんから。遠慮なさらないで下さいね」

 きんが動くたびに、何とも言えない良い香りがした。

 尾方は再び衝動を感じ始める。このまま自我を解き放ってしまいたかった。

 しかし、途中で邪魔されることが何よりも嫌いだった。

 まあいい。『おばあちゃん』がいるならそちらを先に排除し、その後でゆっくりと堪能すれば良いだけの話だ。

 玄関から続く廊下を数歩進んだところで歩みを止め、尾方は言った。

「おばあ様がいらっしゃるなら、先にご挨拶をしておきたいな」

「ごめんなさい。今はもういないんです」

 少し沈んだ声できんが答える。その眼差しには寂しさが滲んでいた。

「もしかして…」

 尾方は同情を表わすように悲しい顔を作る。

 その意味に気が付いたきんは、慌てて付け加えた。

「今はここには住んでいないっていう意味です。誤解させてしまったみたいで、ごめんなさい」

「いや、こっちこそ…誤解で良かったよ。でも、そうだとしたら、さっきのは何で?」

「さっきの?」

 きょとんした顔をしたきんのために、尾方はきんの言い方を真似ながら実演してみせる。

「おばあちゃん、ただいまー」

 尾方の質問の意図を理解したきんの顔に笑みが広がった。

「小学生の頃に防犯教室で習いませんでしたか?」

 今度は尾方が困惑する番になった。

「ほら、例え家族の留守中に帰宅する場合でも、大きな声でただいまを言う習慣をつけること!って」

「ああ、そんなことを言われたような気もするかな」

 尾方にはそんな記憶はなかったが、適当に話を合わせた。

 そもそも、そんなことをしても無意味だ。ただいまもペンライトもこれからきんが体験することになる怖い思いからは守ってはくれない。

「それじゃあ、こんなに広い家に今は一人きりなの?」

 きんが尾方の顔を見上げる。

 見つめられた尾方はいたずらが見つかった時の子供のように一瞬ビクッとなった。

「いいえ、今夜はお客様もお泊りですし」

 はっきりとした口調でそう言うと、きんは唐突に話を切り上げる。

「さ、お部屋にご案内しますね」

 きんは一度も振り返らずに前を歩く。

 尾方は何だか狐に化かされている気分になった。お客様というのが尾方を指す言葉なのか、それとも全く別の客が宿泊しているという意味なのか。

 尋ねるタイミングを逃したまま、尾方はきんの後ろをついて行くしかなかった。




「ここのお部屋を自由に使って下さい」

 きんに通されたのは八畳ほどの和室で、中央にテーブルと座椅子、壁際にはテレビが設置された、シンプルな部屋だった。

「お布団は尾方さんが入浴中に敷いて置きますね。着替えは浴衣がスエット生地のジャージなら用意できますけど、どちらが良いですか?」

「ジャージで」

「分かりました。このままお風呂場や食堂も一通りご案内しても良いですか?」

 尾方が頷くと、きんは尾方を誘導しながら家の中を回った。

 壁には案内板や注意書きがあり、民宿時代の面影をそのまま残していた。案内された場所はどこもかしこも整理整頓がなされていて清潔感がある。そこからは、きんの丁寧な暮らしぶりもうかがえた。 

 最後に一階の廊下奥にある朱色のドアの前で足を止めると、きんは言った。

「この部屋のドアだけは開けないで下さいね」

 尾方が不思議そうな顔でドアを見つめる。

 それは握って回すタイプのドアノブが付いた何の変哲もないドアだった。朱色地に白い方眼紙のような細かい格子模様が入っている。別段興味はなかったが、開けないでと言われると開けたくなるのが人の心理だ。

 この中には一体何があるのか。

 尾方は急速に知りたくなった。

 そんな尾方の心を読んだかのようにきんが続ける。

「長い間物置として使っているので、散らかっているんです。見られると恥ずかしいので、絶対に開けないで下さいね」

 尾方は恥ずかしいと言ったきんの顔を見る。

 このドアを開け放ったら、きんはどんな表情をするのか。柔らかい微笑みを浮かべているきんの表情を乱してみたくなった。思わず、ドアノブへと手が伸びそうになる。

 自分の呼吸が乱れていることに、この時の尾方は気が付いていなかった。

「尾方さんって、とっても身長が大きいんですね」

 不意に、きんが尾方のおでこの辺りに手をやる。

 反対の手を自分の頭の上に置くと、両手を平行に移動して身長差を表わした。

「こんなに違いますよ」

 そう言って無邪気に笑うきんに対し、何て無防備な女なんだろうと尾方は思った。自分の置かれている状況が全く分かっていない。安全だと思っている世界は、すでに崩れかかっているというのに。

 きんは思い立ったように尾方の両腕を掴むと、ドアの前へと大きな体を導いた。

 尾方は急に体に触れられたことに驚き、なすがままになる。全身の毛穴が逆立つのを感じていた。

 それは、恐怖にも似た感覚だった。

「やっぱり、尾方さんがドアの前に立つと、何だかドアがとっても小さく見えますね」

「そうかな」

 続けてきんは尾方の手を優しく包み込むようにして持ち上げると、自分の手のひらに重ね合わせる。

「手もこんなに大きいんですね。どうしてこんなに大きくなったんですか?」

 ほのかな甘い香りが脳内にまで入り込んでくる。

 尾方は何だかくらくらしてきた。

 頭の中に靄がかかったようになり、上手く言葉が出てこない。

「ご両親も大きいとか?」

「……いや、どうだったかな」

「じゃあ、何かスポーツをやっていたとか?」

 小首を傾げたきんが興味深そうに尾方の瞳を覗き込んでくる。

「え、ああ、陸上競技を少し……でも、関係はないと思う」

 瞼が重かった。手も足も思うように動かせない。体中を駆け巡る血液が鉛へと変化している気がした。

 疲れているのかもしれない。今日はすでに食事を済ませている。ここはいったん引くのが得策だろう。

 尾方は入浴をする旨をきんに伝えると重たい足を引きずるようにして風呂場へと向かった。

 大丈夫だ、まだもう1日ある。




 翌朝、昨日の疲れは嘘のように消えていた。尾方は身支度を済ませると1階の食堂へと足を向けた。

 様々な匂いがしてくる。食べ物と濃い森の香り。

 その理由はすぐに分かった。木々の間を通り抜けて来た風が食堂にある白いレースのカーテンを揺らしていた。

 テーブルの上にはきんが尾方のために作った朝食が美しく配膳されている。悪くない朝だった。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 窓から入ってくる自然光に照らされたきんは、満月の夜ではないというのに黄金色の糸で縁取られているように見えた。

 鼓動が大きく跳ね上がる。

 どうしたというのか。

 尾方はかぶりを振った。

「お口に合うかは分かりませんが、お好きな物を召し上がって下さいね」

 きんに促されるままに尾方は朝食に口を付ける。自然と言葉がこぼれた。

「うまい」

「良かったです」

 そう言って、きんは嬉しそうに笑った。

 きんには尾方を惑わせる何かがあった。どうしても脳の働きが鈍くなる。

 チャンスは残り1日だ。もっと思考をクリアにする必要がある。

 尾方は先ず昨晩聞けなかった疑問をぶつけることにした。

「そういえば、今日の宿泊客は僕だけ?」

 きんは不思議そうな顔をして答える。

「今日も尾方さんだけですよ」

 ようやく分かってきたと尾方は思った。

 こちらがあれこれと考えて計算をしているせいで、当然相手も同じようにしていると思い込んでいたのだ。最初からきんの言葉に深い意味などなく、思うがままの言動なのだ。そこに意図を求めようとするから、こちらの心が乱される。頭の中にあったもやもやしたものがスッと消えていく。

 尾方にはやるべきことが見えてきた。

「朝食を済ませたら、少し散歩してきても構わないかな?」

「あまり遠くまでは行かないで下さいね。この辺りでは人よりも野生動物に出会う確率が高いので」

 きんは心配そうな表情を浮かべながら、尾方を諭すようにして話を続ける。

「彼らと遭遇することは、お互いにとってリスクがありますし、あまり良い結果にはなりませんから」

 まるで僕らのことを言っているようだと尾方は思った。

「確かにそうだね」

 そう同意しながらも、ますます今夜を楽しみだと感じている自分がいる。

「むやみに出会ったりしなければ、失われなかった命もたくさんあるんだろうね」

 尾方の言葉に、きんは哀れみを宿した眼差しで「そうですね」と小さく言った。

「参考までに、この辺りにはどんな野生動物がいるの?」

 聞くまでもなく尾方はその答えを知っていた。森の香りが生きとし生ける者の存在をすでに教えてくれていたからだ。

「猪や鹿、それに熊が出ることもありますよ」

 他にもイタチや野ウサギ、野ネズミが近くにいる。きんの知らない世界が見えていることに、尾方はほんの少しだけ優越感を抱いていた。

「祖母が子供の頃には狼にも頻繁に遭遇したらしいです」と、きんは言った。

「人里離れたこの地域の人たちにとっては、どれも貴重なタンパク源で、有難いご馳走だったみたいです。特に狼は、その骨の髄まで万能薬として重宝されていたらしいですよ」

 尾方は一瞬ぎょっとした。

 そんな話は噂程度にも聞いたことはなかった。思わす言葉が漏れる。

「残っているのかな?」

「え?」

 小首を傾げるきんに、尾方はあくまでも自然体を装った声色で聞き直す。

「今でもこの地域には、その風習は残っているのかな?」

「いいえ、あくまでも祖母の子供の頃の話ですよ。今は車でどこへでも食料を調達しに行けますから」

 安堵感が尾方の体を駆け巡る。

 パキッ。不意に乾いた音がした。

 つい反応してしまい、尾方は音の方向に素早く顔を向ける。

 きんは申し訳なさそうに言った。

「すみません。古い家だからなのか、たまにああいう音が鳴ったりするんです。色々と修繕しないといけない場所も増えてしまって。実を言うと、昨日開けないで欲しいとお願いした部屋のドアなんかも、建付けが悪くなってしまった影響で外側からなら開けられるんですけど、内側からは全く開けることが出来ないんです」

 尾方の目を真っ直ぐに見て、きんは続ける。

「閉じ込められたら大変なので、絶対に開けないで下さいね」

 そう言われるとますます開けたくなるのが心情だと尾方は思う。

 きんは本当に何も分かっていない。今まで無事に過ごせてきたのは、人里離れた場所で育ったおかげだろう。それともこの地が今のきんを作り上げたのか。

 どちらにせよ、終わりはもうそこまで来ている。

「あの、もし良かったらここから少し距離はありますが、日曜日でもやっているガソリンスタンドまでお連れしましょうか?そうすれば今日中にお帰りになることも可能だと思いますよ」

 親切心からの提案だろう。普段であれば有難い申し出に感謝したに違いない。きんはどこまでお人よしなのだろうかと尾方は思った。

「いや、明日の朝を待たせてもらうよ」

 そして、尾方は本音を口にした。

「もう少し堪能したいんだ」

 思わす顔がほころぶ。本当の意味を知った時、きんはどんな顔をするのだろうか。

「こんなに豊かな緑に囲まれて過ごすのは久しぶりだから」と、念のためにもっともらしい答えも付け加えておいた。

「それに、今夜も美しい月が見られそうだしね」

 嬉しそうに語る尾方に向かってきんが尋ねる。

「それなら、夕食に何か食べたい物はありませんか?有り合わせの物で出来るかは分かりませんが、出来るだけご要望に沿えるように頑張ってみます」

「そうだな…」

 尾方は考えるふりをした。本当の答えを今はまだ口に出来ない。

「それじゃあ、野菜中心の物をお願いしようかな。メインよりも副菜や汁物なんかを用意してもらえると」

 想像するだけで唾液が溢れてくる。尾方はゴクリッと喉を鳴らした。

「それが、僕にとっては最高のディナーになるんだ」

 尾方の感じているこの衝動を満たせるのはきんしかいないのだと、きん自身に分からせたかった。その時が待ち遠しかった。

「分かりました。それじゃあ何か尾方さんに喜んでもらえるような物を考えますね」

 そう言ってきんは微笑む。


 尾方が朝食を済ませると、きんはその後片づけをしながら、あれこれと考えを巡らせているようだった。時々洗い物の手を休めては、様々な野菜を手に取り小首を傾げる。

 懸命に食されることのないレシピを考案しているのだろう。自分がメイン料理だとは思いもしないで。

 それはそれである意味幸せなことかもしれないと尾方は思った。




 尾方はきんに気付かれないように玄関を抜け出そうとしていた。

 昨晩はこの周囲にまで気を配る余裕がなかったので、明るいうちに状況を把握しておきたかったのだ。

 玄関の鍵を出来るだけそっと開けようと試みる。

 甲高い音が短く鳴った。

 尾方がしまったと思った時には遅かった。食堂からきんが顔を出す。心配そうに尾方を見ていた。

 こうなってしまえば開き直るしかない。堂々と周辺を散策してくればいいのだ。

「大丈夫、遠くまでは行かないよ」

 一応、きんの心配を和らげる言葉を言った。

「尾方さん、行ってらっしゃい」

 その言葉は尾方の胸にざわざわしたものを生んだ。行ってきますの一言が口から出てこなくなった。

 仕方なく、返事の代わりに軽く頷くと尾方は玄関を出た。

 とたんに、動植物の生死両方が混じり合った匂いが襲って来る。

 久しぶりに嗅ぐ山の匂いは強烈だった。むせ返りそうになる。部屋の中で嗅いだ時はここまでだとは思わなかったが、空気そのものが濃過ぎる匂いに染まっていた。

 尾方は都会暮らしで自分も柔になったもんだと情けなくなった。

 とにかく今はやるべきことに集中するしかない。


 尾方は先ず民宿の外観に目を馳せた。

 よし。

 防犯カメラのようなものは設置されていない。

 続いて私道全体と道路脇にある納屋のようなプレハブ小屋を見やる。そこにもそれらしものは付いていなかった。

 念のため、周辺の住宅の存在も確認しておきたい。来る途中では見かけなかった。あるとすれば、その先ということになる。

 ハッとして立ち止まる。

 それは、ひっそりと設置されていた。プレハブ小屋から道路の方向を見ている。ずい分と型落ちした古い物のようだが、ダミーではなく、現在も使われているようだった。当時の画素数でどれほどの映像が取れるのかは定かではないが、顔が映らないように用心しながら敷地の外に出た。

 10分ほど歩いたところで踵を返す。民家は見当たらなかった。何かあってもすぐに駆け付けてくれる隣人は皆無ということだ。

 今夜きんの家で何が起ったとしても、誰にも気づきようはない。




 敷地内に戻った尾方はワゴン車に目を向けた。

 ここから去る時にはきんの車を使うしかない。さすがにこの車でスタンドに寄り、再び愛車まで戻るにはリスクが大きすぎるだろう。愛車と別れるのは心苦しいが、動かない以上はどうしようもない。

 本当のところ、愛車を失わないで済む方法があることを尾方は理解していた。

 このまま何もせずに、この週末を終えるのだ。愛車に燃料を補給して、きんには何もせずに別れる。

 そして、次の満月を待って再びこの地を訪れるのだ。それは、再来月でも良い。再々来月だって良いはずだ。

 それなのにどうしても今日しかないと思うのは、心のどこかに今日を逃せば、もう二度ときんに会うことは叶わないという予感めいたものがあるせいだった。

 今までとは違って本能のまま行動すれば、積み上げてきたもの全てを捨てなければならなくなる。尾方はそれでも良いと思っていた。

 それほどまでに、どうしようもなくきんが欲しかった。


 ワゴン車に近づくと、そこに家の中と同様の民宿時代の名残りを見つけた。民宿名や電話番号をボディの部分に張り付けていた跡だろう。剥がされたと思われる個所だけに若干の色の違いがあった。

 この車を動かすにはキーを手にしなければならない。

 恐らくは玄関横の部屋にあるだろうと尾方は推測していた。昨日きんは玄関を入る時には持っていた手荷物をその部屋に置いて出てきた。ということは、車のキーもそこにある可能性が高い。きんがその後で移動させていたとしても、きんにとっての生活スペースはこの建物の中のほんの一部だ。探し出すまでにはそう時間は掛からないだろう。

「おかえりなさい。お散歩はどうでしたか?」

 尾方が戻って来たことに気が付いたきんがなめらかな声で尾方を出迎える。

「リフレッシュできたよ」と、尾方は笑顔で答えた。

 それにきんも笑顔を返した。

 ふと、きんと連絡が取れなくなって心配する人はいるのだろうかという思いが尾方の頭をよぎった。今は一緒に住んでいないという祖母は、大事な孫娘の異変にどれくらいで気が付くのだろうか。

「お昼は13時、お夕飯は20時くらいにしようかと思うんですが、それで良いですか?」

 きんの問いに尾方は頷いた。




 20時という言葉が尾方の頭から離れなくなった。きんに残された時間は後2時間だ。尾方は部屋の窓から空を見上げる。低い位置にほんの少し右側を失くした月が見えた。

 尾方がその姿を人ではないものに自由に変えられるのは十四夜から十六夜まで、つまり満月を挟んだ3日間、それも月が輝く時間帯のみだ。感覚が研ぎ澄まされ、より遠くの音を拾い、より多くの匂いを嗅ぎ分け、より遠くの物が見えるようになる。それ以外の時も多少は獣の血の能力を残してはいたが、それらは月の満ち欠けに合わせて増えたり減ったりした。

 後は何ら他の人間と変わらない。生まれたときからそうだったから、別段自分が特別だともおかしいとも思ったことはなかった。そういう体質なだけだ。

 まだ子供のうちは良かったと尾方は思った。

 その衝動は大きな声を遠くまで轟かせたいだとか、とにかく大好きな人に遊んで欲しくて仕方ないといった可愛らしいものだった。

 それがいつの間にか変わってしまった。

 最初から尾方の中に存在したものなのか、誰かに影響を受けたものなのかは分からない。腹の奥底から涌き出てくる衝動はいつの間にか尾方の一部になっていた。

 同種族の中にはそれを上手く抑え込んで普通の人間と大差ない暮らしを手にしているものもいる。

 だが、今の尾方には無理な話だった。一度でもこの感覚を味わってしまえばもう元には戻ることなど考えられない。最初の衝動をどれだけ封じ込められるか、それがどれだけ大事なことだったのか、今ならはっきりと分かる。あの時に一線を越えなければ、生涯に渡ってこの渇きに惑わされることはなかった……

 十六夜を見ているうちに尾方の中の獣の血が騒ぎ出してくる。

 早く食べたくて仕方がなかった。美味しい物を食らうには忍耐も求められるが、それを抑え込むには限界だった。

 きんが欲しくて欲しくて堪らなかった。




 尾方は音を立てない様に一階に降りると、食堂の中を覗き込んだ。奥にあるキッチンでは、エプロンを着けたきんが野菜を刻んでいた。そのリズムに合わせて、頭の高い位置で結ばれた髪が軽やかに揺れている。ポニーテールの名の通りに、それはきんが捕食する側ではなくされる側だということを強調しているようだった。

 唐突に、きんが何かに気が付いたかのようにこちらを見る。

 これには尾方の方が面を食ったが、平静を装って言った。

「僕にも何か出来ることはないかな?」

 きんとキッチンに並んで立つ羽目になった。

 と言っても尾方が任されたのはスナップエンドウの筋取りという工程で、これは大きな手の尾方には不向きな作業に思えた。きんには「筋の先端を摘まんだら、スーッと引っ張るだけですよ」と教わったのだが、肝心のその筋の先端とやらが摘まめずに悪戦苦闘をしていた。

 困ってきんの方を見ると、きんも尾方を見る。きんはにっこりと微笑んだだけで、すぐに自分の作業へと戻って行く。

 このやり取りを何度か繰り返した後で尾方は匙を投げた。

 再び、きんのことを観察する。今度は気が付かれないように筋取りをするふりをしながら横目で流し見た。

 きんは鍋で何かを煮ていた。甘い香りが漂っている。きんは鍋の中をジーッと見ていたかと思うと醤油のボトルを手に取り、それを鍋の中に注ぎ入れた。部屋の中が甘じょっぱい匂いに変わる。

 尾方はどうせ後から入れるなら、最初から同時に入れてしまえば良いのにと思った。その方がずっと効率的だ。

 ふと、遠い記憶が蘇る。醤油を先に入れると甘みが食材に浸透しにくいとかなんとか、誰かがそんなことを言っていた気がする。

 つまり、料理にもベストなタイミングがあるということなのだろう。それは狩りも同じだった。それ以上でもそれ以下でもない最高の瞬間を逃さないことが大事だ。

 尾方はきんの身に付けているエプロンのポケットにあのペンライトが入っていることに気が付いた。キャップの頭の部分がポケットから覗いている。

 これを持っていれば、怖い思いをせずに済みますから。

 そう言っていたきんはこれから自らに起こる出来事をどう感じるのか。想像したとたんに口の中が急速に乾いて行った。

 尾方の呼吸が乱れてゆく。尾方の目にはきんの細い首筋が早く来て欲しいと誘っているようにしか見えなかった。


 息が出来ずにもがくのは最初のうちだけだ。すぐに大人しくなる。

 だが、獲物の動きが止まったとしても慌てて放してはいけない。まだ気を失っているだけだ。そこで先を急げば、思わぬ反撃を食らって逃げられる可能性がある。

 せっかくのごちそうだ。逃がす手はない。何よりもしっかりとその機能を停止させてからの方が、余計な物が溢れ出ずに食べやすくなるのだ。


 気が付くと、尾方はその姿を本来のものへと変えていた。

 きんが驚いて逃げ出す。

 尾方はその背を追って飛び掛かった。

 きんは床へと倒れ込む。尾方の黒くて大きな手がきんの背中を抑え込み、その自由を奪った。黒い獣の口から止めどなく溢れる唾液が、きんの背中の上に滴り落ちる。

 尾方は限界だった。

 もう待つことはしない。

 大きく口を開き、きんの首に噛み付こうとした。

 その瞬間、甲高い叫び声がやまびこのように響き渡った。

 尾方が悶え苦しんでいるのが自分の方だと気が付くまでには、しばらく時間が掛かった。顔中が痛かった。目も鼻も口の中も今までに感じたことのない痛みで支配されていた。

 くそっ!くそっ!くそっ!

 一体何が起こったというんだ!

 駄目だ。こういう時こそ冷静にならなけばならない。

 考えろ。考えるんだ。

 尾方は痛みを必死に堪えながら恐る恐る瞼を開いた。床にはきんの姿はなかった。

 歩き出してすぐに何かを踏んだ。ぼやける目を近づけてそれが何かを確認する。

 それはペンのキャップのように見えた。



 きんは食堂を出て廊下を走ると、朱色のドアを開けてその中に飛び込んだ。ドアを閉めると、部屋に置いてあった針金をドアノブの付け根に巻き付け、その反対側を室内にあったものに結び付けて鍵代わりに固定する。

 きんは上がってしまった息を整えようと、部屋の隅に座り込む。その手にはペンライトが握られていた。キャップが無くなり露見した部分には噴射口があった。何もなければ使うことのなかったそれは、防犯用の唐辛子スプレーだった。

 まだ中身は残っている。

 噴射した時に付いてしまった成分のせいで指先と首の後ろの皮膚がヒリヒリしていた。



 尾方はきんの匂いを辿ろうとしていた。

 しかし、鼻の奥まで入り込んだヒリヒリしたものに阻まれてそう上手くはいかなかった。どちらにしても、家の中にはきんの痕跡が多すぎる。

 先ずは玄関先を確認し、きんが家の中にいることは確かだと思った。

 パキッ。

 またあの乾いた音がした。

 おかげで、尾方は閃いた。鼻や目が利かなくなっても耳があった。地を這う振動も尾方には手に取るように分かるのだ。

 どこに隠れていたって無駄だ。きんを必ず見つけ出してやる。今夜のディナーに逃げられてたまるものか。

 尾方はどんなに些細な音も聞き逃すまいと耳と手足に全神経を傾けた。



 きんは部屋の外の様子を伺おうと耳を澄ませていたが、何も聞こえてはこなかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 もしかしたら、あの獣はすでにこの家から去ったのではないかという思いが脳裏をよぎる。それを確かめるにはこの部屋の外に出るしかなかった。

 きんは深いため息を吐いた。

 もう少しドアに近づけば何か聞こえるかもしれない。きんは這うようにして移動するとドアに耳を当てた。

 とたんに、爪が床を激しく蹴る音が聞こえてくる。

 その音は段々と近づき、そして、ドアの前で止まった。

 静寂が訪れる。

 きんには自分の吐息だけが聞こえていた。



 尾方は勢いよくドアに飛び掛かった。

 部屋の中からきんの短い悲鳴が聞こえる。

 大人しく食われれば良いものを。よりにもよって、きんはどうしてこの部屋を選んだのか。まさか、開けないでとあれだけ念を押したから、ドアを開けるはずはないと信じているとでもいうのか。

 ドアノブを回そうとするが、人の手とは違って上手くノブを握ることが出来なかった。イライラした。ドア一枚を挟んでごちそうが待っているというのに、開けることが出来ない。ドアノブを激しく揺すった。

 駄目だ。このままではドアノブごと壊してしまいかねない。

 仕方なく尾方は人の姿へと戻ると、いったん食堂へと引き返して電化製品のコードを拝借してきた。今度は逃げられないようにきんの手足を拘束するためだ。

 ドアノブを回す。

 さあ、ディナーの時間だ!

 尾方はドアを勢いよく手前へと引いた。

 その瞬間、激しい衝撃が尾方の体を貫いた。首がガクンっと下を向く。自分の体に何かが突き刺さっているのが見えた。

 とたんに息が吸えなくなり、目の前が真っ暗になった。



 朱色のドアの向こう側には、置き型式のボーガンを模した大型の装置があった。

 それは直径五センチ程の先端の尖った鉄柱が発射される装置で、ドアを突き破って獲物の体を貫通し、反対側にある壁で止まる仕掛けになっている。更に細かい数字が書かれたダイヤルがあり、それを調節すると自動的に心臓がある辺りに狙いを定めてくれるという仕組みだ。ダイヤルには『推定身長』の文字があった。

 きんは尾方に襲われてこの部屋に逃げ込んだ後、ドアノブに絡ませた針金を引っ張ってきて、この装置の引き金の部分に固定しておいた。

 つまり、ドアを開けなければ、尾方は死なずに済んだ。

 彼は自らの手で引き金を引いてしまったのだ。


 きんは部屋にある隠し扉から廊下へと出た。廊下中に獣の血の匂いがしていた。

 いくら童話の赤ずきんの世界であっても、出会っただけの狼には何もしたりしなかったはずだ。

 何もしなければ、何もしなかった。

「引き返すチャンスは何度もあったのに」と、きんは呟いた。




 月曜日。

 きんはワゴン車のボディ部分にマグネットシートを張り付けた。そこには『アーカーズ・キッチン』のロゴが可愛らしくデザインされている。普段は張り付けたままにしているのだが、祖母の家に遊びに行くために一時的に外していたのだ。

 きんは丹精込めて作った商品をワゴン車に積みこむと、今日の出店場所へと向かった。

 きんの営むアーカーズ・キッチンは、手作り弁当の販売を行っている。基本的には注文を受けた商品を配達する仕組みなのだが、時折、こうして移動販売も行っていた。


 ワゴン車を停めたのは、オフィス街からほど近い場所にある公園の敷地内で、アーカーズ・キッチン以外にも許可をもらった移動販売車が並んでいる。どの車のターゲットもランチタイムの会社員たちだった。

 昼時近くになり、休憩時間を迎えた会社員たちの姿がちらほらと見え始めた。

 その中にいた若い女性がきんのワゴン車に向かって真っ直ぐに歩いて来る。彼女はお得意様で、どういう訳か特別限定メニューのある日には必ず現れる。一度だって来なかった日は無かった。

「赤須きんさん、こんにちは。いつものをお願いします」

「はい、かしこまりました。特別限定メニューのオオカミ弁当ですね」

 彼女は小さく頷いた。

 きんはオオカミ弁当をビニール袋に入れると彼女に差し出した。

 それを受け取った彼女は袋の中を覗き込むと、弁当から漂う香りを吸い込んだ。

 おいしそう。きんには彼女の唇がそう動いたのが分かった。

 顔を上げた彼女がきんに聞く。

「次に特別な食材が手に入るのって、いつ頃になりそうですか?」

「ごめんさない、次回の入荷時期は未定なんです」

 ざんねん。再び彼女の唇が動いた。

「それじゃあ、また買いに来ますね」

 彼女は軽快なリズムを響かせながら帰って行く。

 きんには何だか彼女のつま先が踊っているように見えた。

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