3、『火花』と『月のしずく』を読んで
今更ながらの感想です
またまた徒然に書きます。
久しぶりに文庫本を買った。そして非常に久しぶりの芥川賞関連の本でもある。
話題になったピース又吉さんの著作で芥川龍之介賞受賞作の『火花』。確かに真面目に書いているなと思えたので、真面目に感想を書いていこうと思う。
偉そうに書くが、ただの一読者としての感想なので、気分を害する方がいらっしゃるのならば早めに謝っておきます、……と保身のための予防線を張っておこう。
買うに至る敬意は、NHKが連続ドラマで『火花』を放送していると遅れ馳せながら知ったからだ。僕はテレビをあまり見ないが、しかし民放でなく国営放送たるNHKが放送するとなると多少は期待してしまうので読もうと思った。ちなみにドラマは見ていない。
芥川賞受賞作なので中編ということもあり、すぐに読了してしまった。お手軽文庫はやはりこれぐらいの貢量が丁度良い。頁を捲る手が止まらずに急いてしまう事は別段なかったが、すぐに厭きて栞を挟むということもなかった。
芥川賞受賞作という性格上ストーリーには全く期待していなかったのだが、その先入観があったお陰で純粋な気持ちで純文学を楽しめたのは収穫だと言えよう。
読んだ方なら分かると思うが、冒頭の「大地を震わす和太鼓の律動に ~ 中略 ~ 草履を踏ませながら賑わっている」の二小節で早くも、芥川文学を意識しているのだ、という矜持の欠片を見て取れるのは容易であると思う。そしてそれを匂わすような一節がそのあと一切たりとも出てこなかったと記憶しているが、それが間違いでなければやはり初々しさを匂わせる作品であり、芥川賞候補に上がった事は妥当であると感じた。そして、この作品が受賞するか落選するかは時の選考委員と相対性に左右されるのだから賛否は当然なのだが、その土俵に上がっていることは強ち間違いだとは言えない出来であると僕は思う。もし間違えて三島由紀夫賞まで取ろうものなら出来レースや商法の嫌疑に輪を掛ける事甚だしくなってしまうが。当然、芥川龍之介賞や三島由紀夫賞は文章・文体が若い人向けの作家に与えられる賞であることは周知の事実なので新人賞として捉われがちだが、等式ではなく近似式だ。事実、ベテラン作家や評論家が受賞する事もある。だからこそ芥川賞定義への本質回顧という意味で『火花』の受賞は大いに賛成だ。本作を読んで「つまらない」「面白くない」とだけ評価した人はそもそもの位置付けを理解していないのだと思う。正直言えば、『火花』は内容だけで言うと確かに、つまらない、と僕は感じる。しかしこれは上述した相対対象が直木三十五賞や本屋大賞受賞作に変わるからであって、広義の文学で括ってしまえば確実に面白いと言えよう。関西弁然り、主人公の職業の特殊性も然り、神谷という人間性も然りだ。
もう一つ、特徴を挙げるとするならば、それは観念的な哲学性であると思う。純文学は今や便宜上の言葉として飾られているが、古くルーツを辿れば、十九世紀末にフランスで端を発した自然主義文学運動に始まり、事象の事実のみを書き列ねる私小説の始まりだと聞く。これに反発するようになって出来たのが直木三十五賞の定義するところの云わば大衆小説であった。であるからして、事実上純文学の定義は曖昧に放置されているままだが、大衆小説に対立する位置付けだと思うと理解し易い。形式や形成に美を追求する実に日本的でかつ日本語に最も適した文学定義だと思う。ひらがな片仮名漢字、訛り方言時代、廓言葉や隠語に見られる特殊性、これらを駆使できる言語文化が日本語の最たる特徴であるがゆえに純文学定義が成されたのではないか。閑話を止めるが、ここに登場人物の思考を観念的に述べさせる事で哲学性に富む作品が出来るのではないかと思う。まさに『火花』はそれを地でいく佳作だと思う。哲学定義に花を咲かせるつもりはないのでこれ以上は拡げないが、哲学か哲学でないかは別として、哲学的に感じさせる心象や心証を形式美として参加させているかどうかが純文学の肝になってくるのだ。それは山田詠美さんが現在の芥川賞選考委員になった事で確信に近付いた。男女の恋愛のスペシャリストでありエキスパートのような彼女の作品だが、その実内容は哲学書さながら深層心理と物理的事象の繋がりを見事に地の文と会話に散りばめられているからである。難しい熟語など一切使わずに実に読み易い文体だ。ただ、その官能美を伝える手法が大衆文学に則している節は否めなく、受賞歴を見れば一目瞭然だろう。だからこそ恋愛手引き書のような立場に置かれているのかも知れない。
『火花』を読了した結果、芥川賞受賞たる背景は存分にあったと言えた。あくまで一個人の意見ではあるが、作者の又吉さんが傾倒する太宰治が芥川賞を死ぬほど渇望した背景も手伝っているとは思う。最後にボブ・マーリーを持ってきたのは些か正統性の主張を強く感じてしまうが。
そして、『火花』読了後、やはりというか何故というか、無性に浅田次郎さんの小説が読みたくなり、『月のしずく』という短編を読んだ。選んだ理由はない。浅田次郎の書籍段が僕の本棚にあり、たまたま手にしただけだ。
本作は、冴えないやもめ暮らしの四十男と、若い美人ホステスの椿事から始まる。浅田小説の中ではわりかし有る話だ。しかし、たった二、三十分で読み終えたのに、広がる晴れやかな爽快感と行間ならぬ行後の名残りがなんとも心に響き、あっという間に『火花』の名残りを熱海上空まで吹き飛ばした。大衆小説の文豪の恐ろしさを久しぶりに味わった。
僕は芥川賞関連の小説はあまり読まない。いわゆるエンターテイメント志向が強いのだと思う。だから僕は浅田次郎さんに傾倒する。もしかしたら生粋の読み手ではないのかも知れない。読み手、さらには趣味ではあるが書き手として不純であるかも知れない。しかしそれで良いと思う。『火花』にはその卑しい心を肯定する言葉が綺麗な日本語でいくつも綴られていた。僕が芥川賞作品をあまり読まない事を不純だと思うのであれば、豊胸した神谷はこう言うのだろうか。
「そんなん関係ないやん。自分がおもろいと思うもんだけ読んどったらええ。何格好つけとんねん。居酒屋の店主が料亭の献立考えるんと同じぐらいアホやわ」
自分で想像したら徳永が神谷に救われるシーンと重なってしまい笑えた。
大ベストセラーとなった『火花』が文学への足掛かりとして残した功績は非常に大きいと思った。世間に遅れて感想を徒然と書いてしまって恥ずかしさもあるが、文学の意義を考えさせてくれる作品に出会えた事が嬉しかったので駄文を列ねました。