Case2 大門 光 ③
親父は何の封筒を持っていたのだろう?
夜のアパートで独り。
俺はずっとその事について考えていた。
「明らかに様子が変だった……」
変と言えば、確かに最近の親父の行動はいつもと違っている。
夜に帰る時間も早くなったし、最近は深夜まで酒盛りもやっていないようだ。もしその変化に、あの“封筒”が関わっているのなら、余程重要な内容である事が容易に想像できる。
「まさか……親父にも教習所から……?」
そう呟いた後で、俺はその思考の矛盾に気付く。
親父が郵便受けに立っていたのは今日の事なので、教習所からだとすると数日前からの異変に説明が付かない。
「いや待て。数日前の異変と、今日の挙動不審が別の可能性もあるんじゃないか?」
もしそうだとしたら、今日親父に届いた封筒は――――
そう考えてしまうぐらい、奴の様子はおかしいように感じられたのだ。
だがどれだけ自問自答したところで、答えに辿り着ける訳じゃない。
俺は布団の中へと潜り込み、悶々としながら眠りについた。
その日の深夜。
体温を持った何かが這うような、不思議な感触で目を覚ます。
緩慢に目を開けると、薄暗い中に人影が浮かび上がるのが見えた。それが誰であるか? 考えるまでもない。
「……親父?」
この家の中にいるのは、俺を除けば奴しかいない。
「あっ? 起こしたか? 悪いな」
俺の左側に座っていた親父は、そう言って自分の布団に入っていった。
一体何をしていたというのか? 押し寄せてくる睡魔から、深く考えずに俺は寝返りを打つ。
だがその時。
心の内からの声が、ある可能性を示唆した。
『毒でも注射するつもりだったのでは?』
不意に聞こえて来たそんな声に、意識は一度に覚醒を迎える。
「………………まさか……」
奴に聞こえないように小声で呟いた俺は、その可能性を否定した。
手紙が届いたのは今日なのだ。どう頑張ったところで、届いたその日に免許を取得する事は不可能だろう。
『だがもし。それが他殺の予行練習だったら?』
心の中のもう一人の俺が、更にその考えを否定する。
「馬鹿馬鹿しい。何で親父に殺されるんだよ」
そうだ。
動機がない。
逆はあっても、俺が親父に殺される事は有り得ない……ハズ。
『本当にそうか?』
それでも心の声は口を閉じない。
『奴がどうして豪遊出来たのか? 忘れた訳じゃないだろう?』
「あっ」
そうだった。
母の生命保険金を手に入れた親父は、人が変わったように金遣いが荒くなったのだ。そして“贅沢”という名の甘い蜜を、奴がもう一度「啜りたい」と考えたとしたら?
「……まさか本当に?」
遂に心の声に反論出来なくなった俺は、それから一睡も出来ぬまま、翌日の部活を迎える事となる。
「ナイスボール!!」
晴天に声高らかに響くキャッチャーの声。
そして帰ってくるボールをミットに収め、俺はロージンバッグを手に持った。
やはり野球は良い。
心に巣食う暗雲を吹き飛ばしてくれる。
親父が俺を殺そうと考えているにせよ、そうじゃないにせよ……。
今は野球に打ち込めればそれで良い。
母との約束を果たせればそれで良い。
俺は夢へと向けて、力一杯に腕を振った。
「大門。ちょっと良いか?」
放ったボールがキャッチャーミットに吸い込まれるのと同時に、顧問の教師が声を掛けて来る。
「……なんすか?」
「ちょっと来てくれないか?」
何処か普段と違う雰囲気の教師に、心の中に再び暗雲が押し寄せるのを…………俺は感じた。
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「いきなりですまないが……部を辞めてくれないか?」
空き教室で教師に突然そう切り出された俺は、その言葉の意味を理解できず放心した。教師はその理由をゆっくりと説明していたが、それを理解するのに掛かった時間はどれくらいだったのだろうか? 大量の時間を消費し、窓の外が茜色に染まった頃。教師の去った空き教室で俺は独り、その言葉を反芻していた。
『お前の父親が昨夜、居酒屋で騒ぎを起こしたらしくてな? ただそれだけならまだ良かったんだが、喧嘩した相手が悪かった。野球連(盟)の関係者で、今日、聖天学園に電話をかけてきた……。すまないが、こちらとしては揉め事を避けたいんだよ。分かってくれるな? 代わりのピッチャーなら小門を使う。一年生エースっていうのは、メディアの受けも良いしな』
俺は遂に、
親父から夢さえ奪われたのだ。
正直……そこからの事は良く覚えていない。
自転車を漕ぎながら、叫んだ事は記憶している。それから……それから……何かの建物に入った気がする。
意識が帰ってきた俺は、いつの間にか自宅アパートに戻っていた。
そして何故か、右手にはボールペンを握りしめている。
「……そうか。“あそこ”に行っていたのか」
そう呟いた俺の目の前には、何処かで見た『他殺申請書』。
それを見る事により全てを理解した俺は、何かに操られるようにボールペンを書類の上で走らせた。
「場所は……アパート。名前は……大門 光雄」
他殺申請書の欄を一つ一つ埋める度に、記憶の中の親父が蘇る。
『光! 誕生日プレゼントだ。ミスノのグローブだぞ!』
「決行日は…………一週間後の俺の誕生日」
『今日はお父さん疲れてるからなぁ。キャッチボールは少しだけだぞ?』
「他殺方法は…………」
『クリスマスケーキ買ってきたぞ! 皆で食べよう!』
「方法は…………」
その時。
俺は申請書に落ちた幾つもの水滴に気が付いた。「ボロアパート。遂に雨漏りでもしたか?」そんな現実逃避にも似た考えが頭を過るが、今日は雨など降ってはいない。
だから直ぐに理解する。
その温かい水滴が、自らの瞳から流れ落ちていた事に――――。
「なんで……どうして……」
それを知った俺の感情は、再びの爆発を見せた。
「なんであんたは最初からクズじゃなかったんだよ!!!!!!!! 最初からクズだったなら!!!! こんなに……こんな……に……苦しまずに……済んだのに!!!!!!!!」
爆発した感情は、ぶつけどころを求めて俺の中を彷徨い、やがてそれはペンを持つ右手へと集中する。
「俺から球を奪ったあんたは、弾によって命を奪われるのが相応しい!!」
『他殺方法』の欄に“銃殺”と書き殴った俺は、憎しみを糧に面を上げた。
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決行日当日。
俺は消音器付きの自動拳銃を片手に、薄暗いアパートの中で息を潜めていた。
「奴が生きてる限り……幸せになれない……」
聖天学園野球部が大阪に出発する前の日。
何とも言えない表情の小門と目があった。その双肩に掛かるプレッシャーは甚大なものなのだろう。会場に行くことすら教師から断られた俺は、最早テレビでしか後輩を応援出来ない。
「それも全て奴の所為だ……あいつさえいなければ……」
念仏のように呟き続ける俺は、本日何度目かのシミュレートを行う。
他殺方法は至って単純。間抜け顔で帰宅して来た奴に、銃弾を浴びせる。引き金を引くだけの、子供にだって出来る簡単な動作で、今日親父は生涯を終えるのだ。
「バッジは着けた。携帯も充電済み……後は帰ってくるのを待つだけ……」
俺は自分の手で幸せを掴み取る。
俺は親父とは違う。
そう自分に言い聞かせていたその時。
聞き慣れた音が耳へと飛び込んでくる。親父の乗るスクーターの音に間違いない。
「はぁ……はぁ……」
心臓が早鐘の如く鼓動を刻む。
震える足に活を入れ。俺はゆっくりと立ち上がった。
「先ずは……安全装置を外して……照準を目線に」
足から手へと震えが伝播し、やがて人差し指にまでそれは訪れる。
石のように固くなった手の筋肉に痺れさえ感じた頃。アパートの階段を上る奴の足音が聞こえて来た。それは今まで聴いたどの音よりも鮮明に響き、奴の寿命を縮めていく。
そしてその足音は、
遂に扉の前までやってくる。
「はぁ! はぁ!! はぁ!!!!」
息も鼓動も分からない。
グニャグニャに歪んだ視界を何とか整え、俺は銃口を扉へと向ける。
そして開いた玄関の扉から姿を現す黒い影。
影は「こんな時間にもう電気消してんのか?」などと呑気な台詞を吐く。
セールスか何かだったら良かった――そう考えた弱い心を力でねじ伏せ。
俺は
引き金を
ゆっくりと
引いた。
冷蔵庫を開ける音にも満たない銃声が一発響き。
室内は、完全な静寂に包まれた。
どれくらい時間が経過したのか?
放心状態だった俺は、ようやく現実世界へと帰還する。
そして部屋の明かりを点け、今を認識した。
「……終わった」
そこには玄関を血に染めて事切れる、紛れもない奴の姿。
心臓を一発。走馬灯を見る時間すら無かっただろう。
銃弾と一緒に感情まで放ってしまったかのように、俺の心は恐ろしく静かだった。こんな状況にも関わらず、一つの疑問について、思考を巡らすほどの余裕があったからだ。
「なんで俺は……2回撃たなかったんだ?」
しかし、そんな疑問も今となってはどうでも良い。
結果的に奴は死に、これから平穏が訪れるに違いないのだ。
「また酒か? それで俺の人生を狂わしたってのに……懲りない奴だな」
奴は手にビニール袋を持っていた。
どうせ近所のコンビニで買って来たのだろう。俺はそれに腹正しさを覚え、袋を憎しみを込めて踏みつける。
――――だが。
「あっ?」
足裏から伝わる感触は、缶ビールのそれではない。
不思議に思った俺がその中を改めると、そこに入っていたのは――――
「野球の……グローブ?」
有名スポーツ店の比較的高価な野球のミットだった。
そしてそのグローブは、何か白い物を掴んでいる。
「……手紙?」
何処にでもある白い便箋。
宛名も差出人も書かれていない。
俺は特に何も思考せず、その中身へと視線を走らせる。
『夢を奪ってすまない』
そう書き出された文は、間違いなく親父の字に違いなかった。
そしてその次からはこう綴られている。
『お父さんはどうしようもない人間です。光を放置し、ずっとずっと腐っていました。でも、そんなお父さんは、ある日ふと生まれ変わる機会に恵まれました。お前が甲子園に出場するという話を知人から聞いたからです。そこでお父さんは、お母さんの事を思い出しました』
そこまで読んだ俺は動揺を覚えると共に、母としたあの他愛も無い約束の場には、父も居た事を思い出していた。その先を読むことに只ならぬ悪寒が背中を駆け上ったが、俺の視線は便箋から全く離れてくれない。
『だからお父さんは光に負けないように。頑張る事にしました。そして一週間前にようやく、新しい仕事への就職が決まりました。町外れの工場の作業員という、友達に自慢できる職業では無いけれど、そこは許して欲しい』
一週間前。
それは郵便受けの前で、様子のおかしい父を見た日である。
「じゃあアレは……他殺教習所から封筒が来た訳じゃなく。採用通知が来たから、舞い上がっていた……だけ?」
更に手紙は続く。
『二人でまた親子に戻れる事が嬉しかったお父さんは、その日飲みすぎてしまい、お前の夢を潰す喧嘩をしてしまいました。謝って済む問題ではないし、許して欲しいなんて思わない。だけど、言い訳だけはさせて欲しい。揉めた相手は、“コントロールだけの投手だ”とお前の事を悪く言ってました。それがどうしても許す事が出来ず、手を出してしまいました』
文字を書くのが苦手な、拙い親父の文章。
なのにそれは、俺の心を酷く揺さぶり続けた。
口で言うのが億劫だった親父は、それでも気持ちを伝えたくて文にしたのだろう。
『こんな物が罪滅ぼしになるとは思っていませんが、それでも何かしたかった。こんなクズで良ければ、またキャッチボールをしよう。誕生日おめでとう』
光へ。
そう締められ、手紙の中の親父は居なくなる。
そこで漸く、俺には全て合点がいった。
深夜親父が触れてきたのは、今日のサプライズを実行する為に、サイズを調べていただけだったのだ。不器用なダメ親父の、不器用なサプライズのプレゼント。
それは、不器用な俺によって失敗に終わる。
もしかしたら……。
親父だって色々悩みを抱えていたのかも知れない。
苦しんでいたのかも知れない。そして時間を掛けて「今変わろう」と足を踏み出した最中に……俺によって終わりを迎える。
「何が“親父とは違う”……だ」
一時の感情から、取り返しのつかない失敗を犯す。
そんな俺達は、何処までも親子に違いなかったのだ。
「は……はは……はははは」
脳裏に母の悲しそうな顔が過り、視界には父の寂しそうな表情が映った。
乾いた笑みを浮かべている筈なのに、俺の瞳から止め処無く涙が溢れては、藍色のグローブを濡らしていく。
そして俺は今更になって気が付いた。
俺は親父が好きだったから、腐っていく姿に嫌悪感を抱いたのだ。
俺は親父が好きだったから、父を嫌いになったのだ。
「……今知ったところで、もう……親父は……帰ってこない」
お互いを想っていた筈なのに、
どうしてこうなってしまったのだろう?
何が間違っていたと言うのだろう?
俺はコレからどうすれば良いのだろう?
その答えは凄く単純明快だった。
親父がそうしたように、詫びを入れれば良い。
許して貰えるとは思えないが、きっとそれは大切なこと。
俺は床に放置していた拳銃を、
再び手に持った。
「ニュース21のお時間です。今週は痛ましいニュースが飛び込んで参りました。今月8日、○○県○○市のアパートで親子の遺体が発見されました。死亡していたのは大門光雄さんと、その息子の光さんの二人。二人は自宅アパートの室内で、拳銃で撃たれ死亡した模様。光雄さんは胸、光さんがこめかみを撃たれている事から、警察は光さんの無理心中であると見て捜査を続けています。光さんは高校では野球部に入っていたらしく、彼が心中を図った翌日は、所属する野球部の甲子園初戦となっていました。残念ながら聖天学園は初戦敗退という――――――」