Case2 大門 光 ①
――――暑いな。
俺は雲一つない空を何処か他人事のように眺める。
感情の無い顔を正面に向けると、三人の男がこちらを見ていた。
一人は腰を屈め、一人は前屈みになり、一人は長い棒を持っている。
腰を屈めた男からの合図に、俺は首を軽く縦に振り意思表示をした。
皆に一様の緊張が走り、そして――――
俺の右手から勢い良く放たれた硬球は、痛快な音を立ててキャッチャーミットに収まった。
そして高らかに響く「アウト」の声と、それに続く仲間の声援。
残るバッターはあと一人。
俺は女房役の指示にもう一度頷くと、またも力一杯右腕を振るった。
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「先輩お先ッス!」
「……おぅ」
今年入部した一年坊が、律儀にも俺に挨拶を交わし帰っていく。
無愛想な上にガタイの良い俺には、声を掛ける者もそう多くはない。苦労してエース投手にまでなったものの、人望まではセットになっていなかった。俺が輝くことが出来るのは、あの狭いダイヤモンドの中だけだ。
部活用の鞄を右肩に担ぐと、
『聖天学園 三年 大門 光』
俺の名が入ったネームキーホルダーがチキリと音を立てた。俺は部員が全員帰ったことを軽く確認すると、汗臭い部室の扉を閉めて鍵を掛ける。その手付きも今は慣れたものだ。
「…………失礼します」
そう一言告げて、職員室に足を踏み入れる。
そしていつものルートを辿り、奥の席に座る男に鍵を差し出すと共に声を掛けた。
「終わりました」
「ああ、了解。お疲れな」
縮れ髪の若い男性教師、我が野球部の顧問だ。
部活終了後、顧問に鍵を返すのが俺の役割の一つとなっている。普段最後まで部室に残る俺がそれを務めるのは、極々自然な流れと言えるだろう。それに関して不満はない、いや……それどころか嬉しくすらある。
俺自身も家に帰るのは出来るだけ遅くが良い。
それは他人から見れば、俺の足取りの重さからも窺えることだろう。
もし家に帰らずに済むのなら、そちらの方が良いぐらいだ。
「失礼します」
学校で一晩過ごす訳にもいかない。
仕方なく職員室を出る俺の足は鉛の様に重かった。しかしそれもいつものことだ。これが駐輪場の自転車に乗る頃には、覚悟も決まり普通になる。
帰宅に覚悟を決める必要がある時点で、普通とは程遠いのだが……。
気温と共に下がる夕日を追いかけながら、俺はオレンジ色の住宅街を自転車で横切って行く。陰鬱な家への道のりだが、この風景だけは嫌いにはなれそうに無かった。
住宅街の外れにある二階建てのボロアパート。
ユニットバスを除いたら、部屋は台所と居間の二つしかない。
俺はその軋む階段を上り、端から二番目の部屋へと足を踏み入れる。鍵など掛かっちゃいない。この部屋で取られて困る物など、そもそも存在しないからだ。
「……帰ってねぇな」
部屋の電気が消えている時点で察しはついているが、自然と声に出して確認している自分に気付く。以前、暗い部屋の中に奴が居たことがあった。
俺はそれを警戒しているのだろうか?
きっとそうだが、そんな弱い心を認めるつもりもない。俺は乱暴に部活用の鞄を床へと投げ出した。大きな音で自らを鼓舞したのだが、その意味の無さに気付くのに、そう時間は掛からなかった。
狭すぎるバスタブ。
俺はそこで、体にこびり付いた汗と泥を湯で流し落とす。この時間は嫌いではない。この家にいる時間で一番好きだと言っても過言では無いだろう。水を浴びれば冷静になれるし、この中には俺を熱くする者もいない。
「……はぁ」
風呂から上がってする事は、もう一度室内を見渡すこと。
二つという部屋数だ。首を動かすだけで部屋の全てを把握する事が出来る。
奴が居ないのを確認した後は、コンビニで買ってきた弁当で腹を満たし、部屋の隅にある仏壇に手を合わせた後で寝るだけ。
それが俺にとっての普通の一日。
普通でなくてはならない一日だ。
あいつのいない安息の中。
俺は万年床となった二つの布団の内の一つに潜り込み、深い眠りをひたすらに祈った。
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どうやら全霊の祈りも通じなかったらしく、俺は深夜に玄関の扉の開く音で意識を覚醒させる。だがそれは“意識が起きた”だけに過ぎない。俺は目を開ける訳でもなく、只じっと『奴』の就寝を待った。
「お~い! もう寝てんのかぁ? ケッ。つまんないねぇ」
暗くなった居間を見て、奴が思ってもないそんな言葉を零す。
或いは俺にちょっかいを出せない事が、残念だとでも感じているのかも知れない。
俺に奴を迎える気など更々無い。
視界に入れることさえ嫌悪している。……イヤ、正しくは視界に入れてしまう事が何より俺を蝕むからだ。胸のざわつきなど、誰も覚えたくないだろう。
「今日も一日~ご苦労さん~」
隣の部屋から鼻歌が聴こえ、俺はそれさえ遠ざけるように布団を深く被った。
容姿、性格、声、臭い、そして気配。その何もかもが気に入らない。
「パチっとな!」
遂にはこの部屋に侵入し、折角の暗闇は奴によって払われる。
この瞬間が訪れる度に、俺は電球という発明を憎々しく思った。
「かあぁ~! 犯罪的に旨すぎるねぇ! 本当に犯罪までやりかねないぜ~。なあカ○ジ君よぉ?」
訳の分からない事を言いながら、奴は一人で晩酌を始める。
以前そのボリュームの大きさから隣人の苦情まで来たというのに、奴は全く改める事も無く、今もこうして一人騒ぎながらテレビを見ている。
俺が注意したところで、説教混じりの罵倒が飛ぶのは目に見えている。
やり過ごすのが一番穏便な解決方法だ。まあ、単に関わるのが嫌なだけなのだが……。
晩酌は空が白むまで続けられ、奴が寝るのと入れ替わるように俺は起床する。
頭が重く、上手く働こうとしない。昨日の疲れも殆ど残ったままだ。これというのも、全てはもう一つの布団にアホ面で寝ている『親父』のせいに他ならない。
「……酒くせぇな」
ボサボサの汚い頭に、手入れのされていないむさ苦しい髭。
締まりのない面に、弛んだ腹。
良い歳をして働こうともしないくせに、居酒屋には毎日足しげく通っている。
5年前に死んだ母の遺産を食い潰す白蟻。
それが俺の父親。
こんな存在から俺が生まれたのだと考えると、反吐が出る。
「チッ」
朝から嫌な“物”を見てしまった。
俺は舌打ちしてから、手早く登校の準備を始める。こんな家には一分一秒足りとも居たくない。
玄関ポストの中身を乱雑に鞄の中に放り込み、俺は無造作に止めていた自転車を引っ張り出すと、それに股がり逃げるようにアパートを後にした。
詰まらない 学校での授業も、部活への繋ぎだと考えれば苦にならない。教師によっては、睡眠を取る事も出来る。
そして昼休み。
俺はグラウンド近くのベンチに一人腰掛け、コンビニで買った鮭握りを頬張る。
ベンチ裏の大木が暑い日差しから守ってくれる、この場所は俺のお気に入りのスポットである。静かなところも高ポイントと言わざるを得ない。唯一の欠点があるとすれば――――
「先輩! こんな所でまた一人飯ッスか?」
一年坊の小門 連次。
こいつが気安く話し掛けてくる事ぐらいだろう。
「孤独にグルメってんだよ。ほっとけ」
どこからともなく現れた後輩に、俺はぶっきらぼうに返事をする。
大抵の者はコレで引き下がって行くのだが、
「ああ、そうそう! 先輩知ってます? 駅前のゲーセンに、『バーチャファイティング』入ったんスよ!! 今日一緒にやりません?」
コイツはいつも全然引かない、どんどん押して来るスタイルだ。
無視する訳にもいかない俺は、聞き流しながらも相槌だけは打つことにしている。
「……20年前に出たゲームじゃねぇか。需要あんのかそれ?」
「懐古厨ってのは何処にでも居ますからねぇ。いやぁ~オレも出た当時は熱狂したもんです!」
「……お前何歳だよ」
皮肉な事に、この聖天学園で俺に親しげ気に話し掛けるのは、空気を読めないコイツぐらいなものだ。いや、もしかすると……この世界の何処を探してもコイツしかいないのかも知れない。そう考えた俺は自分の人望の無さに、深いため息を吐いた。
「興味無さそうッスね? じゃあこんなのはどうスか? 『他殺教習所』について!」
鼻息を荒くして俺の隣に座ってくる小門。
昼飯時に男二人、ベンチに腰掛ける姿は如何なものだろう? 俺は隣の後輩から少し距離を取り、先程の言葉を吟味する。
『他殺教習所』
他殺免許証を発行しているイカレタ施設だ。
なんでも「殺人のデータを取る事により、事件の解決に役立てると共に、凶悪犯罪を未然に防ぐ」……というモノらしい。つまりは犯人の心理状況や手口、それを“実際”に行わせる事で、より正確な情報を得るとかなんとか……。
実に胡散臭い。
「田代文具店の正面にあるでかい建物だろ? 選ばれでもしたのか?」
「まさか! あれ選ばれるの千人に一人とか、万人に一人っていう噂ッスよ? マジ羨ましいッスよねぇ~!」
「羨ましい? まさかお前……」
そんな風に考えた事が無かった俺は、小門の言葉に首を傾げた。
殺したいほど憎んでいる相手がコイツにはいるのだろうか? 普通に生きていれば、この免許を使用する機会など訪れないハズ。俺は脳天気な後輩の闇を感じ、更に距離を置いた。
「誤解ッスよ先輩! 知らないんスか? 他殺免許を持っていると、就職にも有利らしいッス! ネットの情報じゃ、最終学歴が小卒のニート歴20年でも、一流企業に就職出来るとか!!」
「はあ? ありえねーだろ?」
「それがありえるんッスよ! ネットじゃ常識ッスから!!」
自信有り気に語るいい加減な後輩だが、もしかしたらそれも本当の事なのかも知れない……。商売敵や悪質クレーマー、しつこく居座る窓際族。企業として考えれば、消したい人間など幾らでもいるだろう。
「っと、オレ用事の途中でした! そんじゃ先輩また放課後に会いましょう! 押忍!」
自分の言いたい事だけを伝えて走り去っていく小門。
俺はその背中を見送った後で、態々教室から持ってきた鞄の蓋を開けた。昼休みの時間、家に届いた手紙を見るのが俺の習慣になっている。時間を潰せる上に、重要な手紙の確認も出来るからだ。まあ、家で言う『重要な手紙』は、その殆どが親父宛の請求書なのだが……。
「ん……?」
俺は鞄の中から、変わった封筒を見つけた。
真っ黒な封筒だ。朝良く見ないまま鞄に放り込んだポストの中身だろうが、こんな手紙が家に来たのは初めてである。
「悪戯か?」
あまり深く考えずその手紙を裏返した俺は、そこに書かれている文字に絶句した。
『他殺教習所』
封筒の裏には、間違いなくそう記入されている。
そして他殺教習所の下には『大門 光様』の文字。
「…………マジで?」
その瞬間。
俺の意思とは無関係に脳が躍動的な働きを見せ、消したい人間の捜索を始める。
――――そして、
脳内コンピューターは、やがて一人の男を見つけ出す。
「………………親父」
ある晴れた日の美しい木漏れ日の中、俺はポツリと呟いた。