Case1 家治 満子④
夜。
夫は昨日の言葉通り早く帰宅した。
「おお。何だか懐かしい香りだなぁ」
「今焼き始めたところですが、先にお風呂になさいますか?」
「いや。先に飯にするよ。冷めては嫌だからね」
それから10分程して、ポテトサラダや、豆腐とえのきのお吸い物、ケチャップソースのハンバーグがテーブルの上に並ぶ。それを見て心なしか目を輝かせる夫は、まるで子供のよう。
「君の手料理は随分久し振りな気がするなぁ。とても嬉しいよ。ハンバーグはお袋の得意料理だったんだ」
「前にも聞きましたわそれ。でも、今日のハンバーグは……特別な味がするかも知れません。ソースに隠し味が入ってますから」
「それは楽しみだ」
夫は何一つ私を疑っていない。
それはそうだろう。私が『他殺教習所』に通っていた事は、友人はおろか、たった一人の肉親である妹にも言ってはいない。会社と自宅を往復しているだけの夫には、知りようも無い情報に違いないのだから。
嬉しそうにナイフとフォークを持つ彼を見ると、胸の奥が罪悪感に刺激されない事もない。彼が嫌いな訳じゃなく、ただ意見が合わないだけで私は夫を殺そうとしている。だけど、それ以上に『自由』と『贅沢』を欲する気持ちを抑えられない。
「では、いただきます」
「ええ、いただきます」
夫はハンバーグを一口大に切り分け、“特製”のソースをたっぷりと絡める。
そして……そして……。
私の目がどうかしてしまったかのように、その瞬間はゆっくりと進んだ。
VTRのスローモーションを彷彿とさせる空間の中で、それでも時間は確実な歩みを見せる。どんな映像だって、いつか終わりがやってくるものだ。
「うん。美味いね」
「そ、そう……」
夫の口内へ侵入し、胃へと送られた、成人男性の致死量を超える“トリカブトの毒”。
青酸カリと同じぐらいの即効性があり、致死量はほんの数グラム。今更どう足掻いたところで、夫はもう助からない。
まるで頭から生温い湯を浴びたかのように、私は自身の体から何かが流れ落ちる感覚を覚えた。それが一体何だったのか? 私には理解出来ない。
「ふっ……はれ?」
10分も経たない内に、彼に異常が現れた。
顔が紅潮し、頻りに口唇を気にしている。
「ひたが……おはしい……」
そして舌が痺れ呂律が回らなくなり、それは次に手足へと伝播する。
だが、それを味わう時間はあまり無いだろう。
数分も経てば赤みは消え、夫の顔色はみるみる内に悪くなった。口唇に至っては青紫色に近い。やがて座っても居られなくなったのか、彼の体は椅子からずり落ちて、床に強か体を打ち付ける。けど、そんな痛みなどどうでも良いようだ。
「ゼェ……はぁ……はっ……」
彼は呼吸をする事すら苦しそうにしているが、それも時間の経過と供に、弱く小さなものになっていく。
「…………し……が…………い…………き……み……」
夫は意識が混濁し、涎を流しながら言葉にならない声を出す。
だけどそれも少しの間だけ。そう、後もうちょっと……。
私はギュッと目を閉じて、心の中で60秒を数える。
そして目をゆっくりと開いた私が、次に夫を見てみると。
彼は――――弱々しい呼吸すらしていなかった。
「こんなに……あっと言う間なのね……」
実に呆気ない人生の終わり。
何十年も蓄積してきた彼の命は、ただの植物によって終わりを迎えたのである。それが辛かったのか? 事切れた夫の顔は、何処か悲しそうにも見えた。
「いけない。連絡……しないと」
私は動かなくなった夫を暫く眺めていたが、やるべき事を思い出し食卓を離れた。手にしたのは、教習所で最初に貰った携帯電話。他殺を終えた場合は、速やかに連絡を入れなくてはいけない決まりだ。震える指で画面を操作し、私は時間を掛けて教習所に電話を掛けた。
「あ、あの……。今日他殺申請した“プラヴァ”ですけど……。はい。その……はい。場所は申請した住所です。ええ、そこです。分かりました……お待ちしてます」
殺人を報告したというのに、電話の相手は何一つ驚く事無く、マニュアルに書いてあるような内容を私から聞き出すと「その場でお待ち下さい」と告げ電話を切った。あまりに現実的なやり取りに毒気を抜かれた私は、相手の言う通りただその場で待ち呆ける。
20分ほど待っただろうか?
インターホンの鳴る音に気付いた私は、まるで誰かに操られるかのように玄関へと向かった。
「こんばんは。他殺教習所の者です」
扉を開けると、喪服を来た20~30代ぐらいの男が4人立っていた。
彼等は私に夫の居場所を聞くと、何に使用するのか分からない機材を持ち、リビングを目指す。
夫に近付いた一人の男は瞳孔や脈を確認し、背中を向けたままで私に声を掛けた。
「ええ。確かに死んでますね。撮影は出来ましたか?」
「多分……大丈夫だと思います」
彼の言う撮影というのは、最初の授業で貰った校章の事である。
実はあの中には超小型のカメラが入っており、その映像はリアルタイムで教習所へと送られているらしい。他殺実行時には、充電した校章カメラでその様子を撮影するように言われている。色々な確認に必要なのだろう。今回私はそれを棚の隅に隠し、食卓の方へずっと向けていた。
「では本人確認の為に免許証の提示と、この画面の手の平マークに手を当てて頂いてよろしいですか?」
板状のパソコンみたいなのを私に差し出す喪服の職員。
彼の言う通り、画面には手の形の青いマークが表示されている。首を傾げながら、言われた通り右手を置くと、青いマークの色が緑へと変化した。
「はい。ありがとうございます。初回時にカードを作成する端末を操作したと思うのですが、あの時に指紋を登録する仕組みになってます。疑うようで申し訳御座いませんが、成り済まし予防ですので」
「構いませんわ。はいこちら免許です。……因みに手袋の場合はどうなるのかしら?」
「はい。確認しました。その場合は操作が利かないようになってます」
「ハイテクねぇ」
職員は部屋や夫の様子を詳しく調べた後で、一度私の前に集まって来る。
「旦那さんの死体は如何しますか? 葬儀屋への紹介も出来ますし、密葬をご希望でしたら、こちらで火葬サービスも行っておりますが?」
「お葬式は良いわ。私達夫婦には両親も居ませんし、近所には『失踪』という形を取りたいので……火葬だけお願いしても良いかしら?」
「大丈夫ですよ。火葬の日取りはまたご連絡致します。一週間も掛からないとは思いますが、死亡診断書はその時でも構いませんか?」
「ええ。構いませんわ」
全ての手続を終えると、喪服の職員達は旦那の遺体だけでなく、教習所で借りた小瓶に入った毒と、食卓の上の物を全て回収して帰っていった。
水道の一滴が落ちた音すら響きそうな室内で、一人残された私はポツンと佇み呆けていた。ほんの数分前まであった夫の死体は、今や影も形も無い。教習所に関わった今までの事が、まるで全てが夢だったかのような錯覚さえする。
「いえ。夢にしないわ。夢を見るのはこれからよ。たくさんの自由と幸せが、私を待っているんだから!」
私は笑った。
壊れたおもちゃのように、ケタケタと笑い続けた。
そして一頻り笑った後で、私の頬を温かい何かが伝う。
それが何だったのか? やはり私には、理解出来なかった。
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それからの一年。
遅咲きの花だった私は、完全な開花を迎えていた。
「このルビー素晴らしいわ。あらあら! そちらのダイヤのネックレスも素敵ね!」
「流石お目が高い! どちらも当店ではトップクラスの品質の物で御座います。如何なさいますか?」
「もちろん。両方頂くわ!」
面倒くさい相続の手続きに数ヶ月を要したが、それが終われば私には最高の人生が待っていた。お金の管理を全て夫に任せていた私は、彼の死後に知った貯金の額を知り、文字通り飛び上がって驚いた。通帳には何と、九桁もの金額が表示されていたのだ。
大企業の社員なら当たり前の事かも知れないが、世事に疎い私には寝耳に水な金額だった。悲しい事に相続税で半分近く持っていかれてしまったのだが、それでも私の余生を謳歌するのには十分な額には違いない。
「この毛皮のコートも貰うわ。あとそっちの襟巻もね。あらぁ~、この靴も良いわねぇ」
我ながら、毒々しい存在だと思う。
人の生命を奪って得たお金で、私は贅沢の限りを尽くしているのだから。
『だけど、私は何も悪い事をしていない』
ただ権利を行使しただけ。
法は私を罰さないどころか、何よりの“味方”となって支えてくれる。
「素晴らしい! 素晴らしいわ!」
猛毒を持つトリカブトにだって、綺麗な綺麗な花は咲く。
私はそう――――トリカブト。
強く美しく咲き誇る。
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「はいはい。海外旅行は楽しかったのねぇ。それはようござんしたね」
「拗ねないでよ。わざわざ向こうで買ってきた高級紅茶が不味くなるじゃないの」
「会う度に自慢話を聞かされるこっちの身にもなって欲しいわぁ。まったく」
どんな素晴らしい体験だって、人に自慢出来なければ楽しみは半減である。
私はイギリス旅行から帰国早々、妹を自宅に呼び寄せ、自慢話に花を咲かせていた。
「それにしてもぉ、一年でかなり部屋の様子が変わったんじゃない?」
「気に入った物は何でも買ってるからね。最高よ? 我慢しなくても良いって」
妹は首を右へ左へ動かして、部屋全体に視線を這わす。
その瞳には「羨ましい」という感情がありありと浮かんでおり、それが私を堪らなく満たしてくれる。
「ああ、そうそう。あんたが欲しがってた新作のバッグも買ったのよ? 見せてあげる」
「高価な物で胸焼けを起こしそうだわ」
椅子から立ち上がった私は、自慢用に買ったバッグを求めてクローゼットを開けた。
「んっ?」
その中で私は、随分と懐かしい物を発見する。
教習所の校章と、もうとっくに充電が切れてしまった携帯電話だ。
「そう言えば、火葬以降は一度も足を運んでいなかったわ。そろそろ更新の時期かしら? でも足を運ぶのも面倒くさいわねぇ」
「どうしたのぉ、お姉ちゃん?」
クローゼットを開けた状態で固まった私を見て、妹が心配そうに声を掛けてくる。
私は「何でもない」と返答し、件のバッグを手にテーブルへと戻った。
「お姉ちゃんにお願いがあるんだけどさ?」
「なによ?」
卓に着くなり、妹が両手を前で合わせる。
彼女がそうポーズを取る時、それは大抵ろくでもない頼み事だ。私は眉間に皺を寄せた。
「お金をね? 少し貸して欲しいのよぉ」
そらキタ!
私は内心うんざりしながらも、好奇心から値段を聞いてみる。
すると妹は、申し訳なさそうに指を5本立てた。
「500万? 何に使うつもりなのよ?」
「ううん。……5000万」
「5000!?」
あまりにも常軌を逸した金額に、私は裏返った声を上げた。
そして妹の遠慮の無さに腹を立てながら、落ち着く為にと紅茶を啜る。
「旦那の事業が上手くいってなくて……さ? ダメぇ?」
「ダメに決まってるでしょう? 夫の残した貯金だって限りはあるんだから!」
この一年で貯金の四分の一ほどを使ってしまっている。
これ以上の出費はご免だ。
「でもまだ残ってるんでしょ? 経営が軌道に乗ったら返すからさぁ」
「嫌よ。まだまだやりたい事は沢山あるの。私は自分の努力でお金を手に入れたんだから、あんただってそうしなさいな」
妹は不満顔で口唇を尖らせるが、私は間違ったことは何も言ってない。
自分の力で解決するからこそ、得るモノに価値があるのだ。ま、半分以上はただ単純にお金が惜しいだけだけど。
「ケチねぇ」
「そうよ。私は家治満子。ケチなのよ」
「お姉ちゃんならそう言うと思ってた……。まあ良いわ! 自分の力で何とかするから」
「あら? いつもと違って聞き分けが良いじゃない? 良い事だわ」
そう言って紅茶を飲み干した私は、体の火照りに気が付いた。
この感覚はそう――――アルコールを飲んだ時に似ている。
「この紅茶アルコールでも入っているのかしら? 何だか酔ったみたいな感覚がするわ」
「そう? あたしは何とも無いけど?」
「味も何だかへんらない? はら?」
変だ。
おかしい。
舌が上手く動かない。
「おなは……ひあい……」
手足も痺れてきた。
そして酷い嘔吐感と共に、胃や腸がキリキリと傷み出す。
紅茶に何か悪い成分でも入っていたのだろうか?
「あっ……は……はふへて」
遂に私は椅子に座る事も出来なくなった。
床に転げ落ちた私は、呂律の回らない舌で妹に助けを求める――――が。
「あ~美味しい。高い紅茶なだけあるわねぇ」
妹は呑気に紅茶を飲んでいる。
姉が苦しんでいるというのに……なんて薄情な……。
「お姉ちゃん。話は変わるんだけどさぁ~あ? “トリカブト”の毒ってどんな味がするのかしら? 教えて欲しいなぁ」
――――妹は何を言っているんだろう?
頭が働かない。
視界がぼやける。
「本当はねぇ? 借金ばかり作るうちの旦那に盛るつもりだったんだけどさ。最近のお姉ちゃんを見てたら、もっと良い方法を思いついちゃって。ほら? お姉ちゃんの肉親ってぇ、もうあたししかいないじゃない?」
何を言っているのか、分からない。
けど。
彼女が私を助けるつもりが無いことだけは理解出来た。
「は……はひ……」
私は力を振り絞って、玄関まで這い。
そして、ノブを捻り。
外へ、出た。
「うわっ! 大丈夫ですか!?」
誰かいた。
見知らぬ男の人。
助けて。お願い。
「助けなくて構いません。事情がありますの」
「ええっ? ああ……なるほど……」
何かを手にする、妹を見て。
男の人はどっかいった。
助けて。くれない……の?
「ごめんねお姉ちゃん。嫉妬はしたけど、別に恨みとかじゃないのよぉ?」
かってなコトを……。
いきが……できない……。
くるしい。くるしい。
「は……あ……?」
だれ……かの手が……。
わたしに。のびる。どこかで見た。懐かしい手。
「は…………れ…………なの……?」
私はその大きな手が誰のものか確認するため、重くなった瞼を持ち上げる。
するとそこには……。
右手をこちらへ差し出す、死んだはずの夫の姿があった。
夫は優しい瞳で私を見ている。
『助けてくれるの?』
私はそこでようやく。
自分が何をしたのか理解した。
私は。
この世の中で唯一。
私を助けてくれるであろう夫を、自分の手で殺したのだ。
「ごめ……な…………い……」
もっと二人で話し合えば、納得の行く着地点もあったかも知れない。
面倒だった私は、彼と真面目に会話する事さえしなかった。
『仕方が無いな君は』
夫の声が耳に届く。
彼はこんな私を許してくれるのだろうか?
最期の力を振り絞って伸ばした私の手は、彼の温かい手に触れ、そして――――
光の泡となって消えた。
「どうもぉこんにちは~。はい。本日他殺申請を出した“ショネル”です。住所は記載通りの――ええ。もちろん。はい。お待ちしてますわぁ~! ……………………ふふ。あたしはトリカブト」