Case1 家治 満子①
「はぁ…………」
私は溜息を吐きながら、アイスコーヒーのグラスに刺さったストローを指で回す。カランコロンと音を立てて踊る四角の氷。それに自分を重ね合わせ、再度私は先程にも負けないぐらいの深い息を吐いた。
「まったく! お姉ちゃんは何がそんなに嫌なのよ?」
正面の席に腰掛ける妹が、不満気な表情で私に問い掛ける。
「……だって。私はもう38歳であなたは36。後はもうこのグラスの中の氷のように、誰かに振り回されるだけの人生。溜息だって吐きたくなるわよ」
高級住宅街の中にある、ちょっとリッチな喫茶店。
週に一度は通うこの喫茶店で、妹に愚痴をこぼす事が私達のいつもの光景となっていた。
「大企業の青山商事に勤める旦那と結婚しておいて……一体何がそんなに不満なのよぉ?」
「大恋愛をして結婚したワケじゃないもの。お見合いをして、この人なら将来安泰だろうな~。なんて良く考えもせずに決めちゃったからねぇ。彼の好きなトコロを挙げるなら、お金を持っているって事だけね。歳だって15も上だし」
「まあ! 贅沢ねぇ。あたしなんて、今月の生活費にすら困ってるって言うのに……」
他人が聞いたら嫉妬するような愚痴をこぼす私に、身内である妹ですら恨みがましい視線を向けてくる。妹が結婚したのは容姿も稼ぎも冴えない男だ。逆の立場なら、私も嫉妬してしまうかも知れない。
「あなたから見れば私は幸せそうに見えるかも知れないけど、現実はそうでも無いのよ? お父さんもお母さんも死んじゃったし、旦那は元々身寄りの居ない天涯孤独。子供も作らなかった私には、毎日が暇で暇でしょうがないのよ」
「ほらやっぱり! 贅沢な悩みじゃないの!」
「だから違うのよ! 暇になるのには理由があるの!」
思いのほか大きい声を出してしまった事に気付いた私は、首を左右に動かして周囲の様子を窺う。聞き耳を立てている人間が居ないのを確認した後で、私は話の続きを開始する。声のトーンはもちろん落として。
「旦那がね? 老後の為とか言って、私にお金を使わせてくれないのよ。退職したら静かな所に家を建てて、のんびり暮らしたいんだってさ。そのせいで今は殆ど贅沢出来ないの。唯一の楽しみが、週一度の喫茶店ってワケよ……。ね? 嫌にもなるでしょう?」
「なるほどね~! たしかにそれは嫌かもねぇ。お洒落とか旅行とか、今しか出来ない事も沢山あるのにね」
「そうそう! 今楽しむべき時に楽しまずに、ヨボヨボのお婆ちゃんになってからお金を自由にしていい。なんておかしいと思うわよね? ホント嫌になっちゃう」
「お姉ちゃんも苦労してるのねぇ……ん?」
話の途中で、机に置かれていた妹の携帯電話が声を上げる。
それを手にした妹は画面を見つめた後に、申し訳無さそうな表情でこう言った。
「ごめ~ん。用事が入っちゃった。今日はもう行くわ」
「何よもう! 今度埋め合わせしなさいよ?」
「はいはい。あっと……ここのお代なんだけど……」
レシートにちらりと目を送る妹。
それが何を意味しているのか悟った私は先手を打つ。
「嫌よ。言ったでしょ? 私に自由に出来るお金はあまり無いの。割り勘よワ・リ・カ・ン!」
「ケチねぇ」
「そうよ。私は家治満子。ケチなのよ」
「今は結婚してお互い違う名字じゃない! 良いわよもう!! それじゃあね。あたしは行くから」
足早に店を出て行く妹の背中を見送った私は、また一つ溜息をこぼした。
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邸宅に帰宅した私は、パッとしない上着を洋服箪笥の中にしまい込み、何処にでもあるような鞄を棚へと放り込んだ。
「晩ご飯。何にしようかしらねぇ」
最近旦那の仕事は忙しいらしく、今朝出勤の際に「晩飯は適当に食べてくれ」と言い残して家を出ていった。そういう時は大抵の場合、近所の店から出前を取る。まぁ、旦那がいる時でも、店屋物を取る事が殆どなのだけれど。
「もしもし? タミノピザさん? 大鐘だけどいつものお願い。ええ、ポテトのやつとハムのやつ。30分? 別に構わないわ」
食費に関して旦那はあまりうるさくは言わない。
自身が『付き合い』という形で食費を多く使っているので、強くは言えないみたい。私に許された贅沢は、食事関連ぐらいだろう。だから私が太ってしまったのも、偏に夫のせいであるとも言えるのだ。
「面白い番組もやってないわね。もう寝ようかしら」
夜の11時を過ぎても旦那が帰ってくる気配は無い。
帰宅を待つ気も無かった私は、そのまま就寝する。
そして翌朝。出勤前の夫と顔を合わし、軽く挨拶を交わして見送るだけ。
つまらない毎日。
それが私の日常だった。
そう――――あの日までは――――
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「それじゃあ、行ってくるよ」
「今晩のお食事はどうなさいますか?」
「本当なら君の手料理でも食べたいところだけどね、今日も遅くなりそうだ。先に食べてなさい」
「分かりました。行ってらっしゃい」
翌朝。
いつものように門扉の前で夫のくたびれた背中に話し掛け、いつものように彼の乗る車を見送り、いつものように溜息を吐く私。
またも年齢と全身に皺を刻むだけの一日が始まる。
「…………今日はサスペンスもやって無いのよねぇ」
新聞のテレビ欄と折込チラシを確認した後は、汚れた衣類を全自動洗濯機に放り込みボタンを押すだけ。乾燥した洗濯物を片したら、それで午前の仕事は終わり。次は持て余した時間を如何に潰すか? という作業に没頭するのみだ。
二度寝後にテレビを見ていたら、唐突に腹の虫が声を上げた。
時計を見れば、もうすぐ昼メロドラマの始まる時間。お腹が空くのも納得というものだ。
「昼は何を頼もうかしら? 近所の店も飽きちゃったわねぇ。何か新しい店オープンしてないかしら?」
私は新しい広告チラシを求めて玄関の外に出る。
目指す先は、門扉の隣の埋込み式の郵便受け。その中身を覗くことが、数少ない私の楽しみの一つとなっている。
「今日は少し多めかしら? でも残念。私の琴線に触れるチラシは無さそうね」
塾の生徒募集。新築の内覧会。外壁塗装。
そんな興味の無いチラシを折り畳んだ時、“それ”はまるで捨てられる事を拒むかのように、チラシ達の隙間から飛び出して地面に落ちた。
「んん? 何よコレ?」
一見は真っ黒な封筒。
もしこれが広告チラシなら、目を引くと言う相手の作戦には嵌っているだろう。
だって私は、何処か只ならぬ雰囲気を孕んだその封筒から、目が離せなくなっていたのだから。
「……? 何か書いてある。差出人の住所かしら?」
黒い封筒を裏返すと、その右隅には小さくだが何か書かれている。それは白い文字で綴られた、何かの名前と住所のようだ。老眼によって見えづらいその文字を確認するため。私はリビングに戻り、棚に置いてあった老眼鏡を装着してから、再度封筒の裏へと視線を走らせる。
「まさか……コレって……」
私はそこに書かれていた文字を読み、愕然とした声を出す。
何故ならそこには――――
【他殺教習所】
そう記されていたからだ。