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コトノハ

コトノハ3 ~樹木とイツキ~

作者: 群青 坊哉

 じゃああの娘の願いは叶えないのかい?

 樹木の声にコトハは眉根を寄せながら頷く。

「だめなの」

 どうして。助けを呼ぶ声は聞こえていただろう?

 あの娘が家を追い出される度に、おまえさんここに来て儂に登って一緒に見守っていたじゃないか。

「イツキの言う『願い』は、『イツキの願い』じゃないから」

 切りそろえた前髪の下、二対の黒の冷静な光は、古い二階建てアパートの一階で壁を背にしゃがみ込んでいる少女を見つめていた。

 年の頃は十一、二歳か。八歳のコトハよりも一回り大きい。肩までの髪は艶もなく、雨の湿気で膨らんで小さな顔を覆い隠していた。よれた生地のTシャツとホットパンツから伸びた手足は枯れ枝のように細い。肘は赤く、地にぺたりとつけている踵はカサカサだった。細い背を丸めて膝を抱え、じっとアスファルトを濡らす雨滴を見つめている。

「そういうのは叶えちゃいけないって、アルカが」

 ならおまえさんは毎回、一体何しにここに来ているんだい?

 儂の話し相手になってくれている訳じゃあないんだろう?

「わたしは、待っているの」

 何を?

「イツキが、見失ってる願い(じぶん)を見つける事」

 ……本当に変われるのかい。あの娘が。

「わからない。このまま、気づかないままかもしれない。でも、イツキが今持ってる願いを叶えてしまったら、本当のイツキが消えてしまうから」

 それで、儂と一緒に、ただ見ているだけかい?

 あの娘に教えてあげればいいじゃあないか。おまえさんは儂と違って、『言葉』を持っているのだから。

「だめなの」

 どうして。

「イツキのような、ぎゅっと小さく固まってしまった心には他人の言葉は届かないの」

 やってみなければわからないだろう?

「やってみても変わらなかったよ」

 水はね、コトハ。一滴じゃあ、何も変えられないんだよ。大地を潤せないし、森を満たせないし、生き物の喉を癒せないし、川を形成できなければ、海に流れて巡る事も出来ない。

 一滴じゃあ足りないんだよ。

「樹木が教えてあげればいいのに。イツキが小さい時からずっとここで見ていたんでしょう?」

 見ていたさ。

 けれどね、コトハ。儂らの想いはあの娘には届かない。儂らは『言葉』を持たないからね。

「そうでもないと思うけど。でも、樹木には時間がないんだよね」

 悲しいがね。

 ヒトは、花を咲かせなくなった桜には用がないらしい。

「それでいいの?」

 定めなら、受け入れよう。

 けれど、心のつっかえは取っておきたいのでね。

「じゃあ、ってくるね。樹木の願いを叶えに」

 ああ。

 任せたよ、コトハ。



 ぺたんこの腹が、まだ鳴いている。

 空腹には慣れっこ、もう感じていないのに、今日も腹の虫だけは異様に元気だ。

 耳を澄ませばどこまでも聞こえる水の音。近くでも遠くでも、高い位置でも低い位置でも、暗い世界のあちこちで弾ける水の音。おかげで体はあちこちべたべただ。

 雨は余る程降っているけど、水でおなかは満たされない。

 生活音とテレビの音に混じって、ママとおじさんの笑い声が楽しげに響いた。

 台所の小さな窓から温かい光が漏れている。もう怒っていないのだろうか。

 まぁ、今は怒ってなくても、私の姿を見たら怒っていたのを思い出してしまうだろうけど。

 私も、さっきまで向けられていた、つりあがったママの目を今もまざまざと思い出す事が出来る。全身に浴びた憎しみは今もまだ体に纏わりついているのだから。

 あれからどれくらい経っただろう。今何時頃だろう。

 蹴りだされた玄関で、おじさんがテレビを眺めているリビングを振り返った時、目に入った壁掛け時計は九時を指していた。

 多分、まだ、十二時あしたにはなっていない。

 時計の針が明日に進めば、せめて家に入れてもらえるだろうか。それとも今日はもう、無理だろうか。

 また保育園の屋根付き滑り台で朝を待とうか。

 ランドセルはなくとも、学校には行ける。教科書は教室の机の中に置いてきてるから、授業を受けるのには支障はない。給食が出るから腹も満たされる。

 クラスの子は、私が顔を出すと顔を顰めるけど。まぁ無理もない。もう五日もお風呂に入っていない。こんな調子だから普段から、私は相当臭うのだろう。遠くから、色んな言葉で咎められる。汚物が移るという理由で、彼らは決して私には近づいてこないから。

 雨にうたれたら少しは綺麗になれるだろうか。でもきっと、拭くものがなければ風邪をひいてしまう。汚物から、周りに風邪をうつしてしまう病原菌に進化してしまえば周りの人は益々迷惑する。それにまた、この間みたいに先生が家に来たりしたら大変だし。

 やる事がないから、思考は堂々巡りして。ため息と共に一瞬止まる。

 雨音が全身に重く響く。

 ……雨。止まないかな。

「こんばんは、イツキ」

 幼い声に呼ばれて、少しだけ顔を上げると、……一体いつからそこに居たのだろう。すぐそばに黄色い傘を差した見知った少女が立っていた。

 分厚い前髪の下で大きな黒目がちの瞳が、こちらをじっと見下ろしている。

「…………」

 いい年こいて家から追い出されてしまっているこの状況が、さすがに恥ずかしくて顔をそむけた。

 が、気にも留めていないのか、表情を変える事無く少女は口を開く。

「イツキは何をしているの?」

「……ちょっと。……保育園に行こうかなって思ってた所」

「こんな時間に?」

「悪い?」

 小奇麗な身なりの小さな子供相手に、つい、つっけんどんな物言いになってしまう。

 いけない。これ以上黙っていたら答えたくない事まで訊かれてしまう。こんな私に平気で近寄ってくるこの子は物好きで、とんでもなく聞きたがりなのだ。

「えっと、コトハちゃんこそ。こんな夜遅くに何してるの? 危なくない?」

 何か言おうとして口を開いたコトハに、慌てて質問を投げる。

「わたしはイツキに会いにきたの」

「こんな時間に? 親とか心配しない?」

「わたしには親、いないから」

「え? だってこの間お父さんと歩いてなかった?」

 学校帰りにこの子の姿を町中で見かけた事がある。背の高い眼鏡をかけた優しそうな雰囲気の男の人と手を繋いで、珍しく年相応の笑顔を浮かべて楽しげに歩いていたんだけど。

「うん。でももういないの」

「……そうなんだ」

 言葉数少なめな返答に、追及を止めた。幸せそうに見えるこの子にもきっと色々事情があるのだろう。

「でも、こんな時間に私に一体何の用? ……またあの話?」

 迷惑そうな視線を投げると、動じることなくコトハは頷いた。

 そう。これまでも、学校帰りに何度もこの子に遭遇している。

 誰もが遠ざかるこの私に、平然とこの子の方から近づいてきて、謎の質問をしてくるのだ。

「何を願う?」

 無表情で、いい加減聞き飽きた素っ頓狂な言葉をこちらに投げてよこす。

「……願い事ならもう言ったけど」

 なんでも叶えてくれると言うから、言ってやった事がある。幸せにしてくれと。

 その時と同じように、コトハは首を横に振った。

「それは『イツキの願い』じゃないから」

「前にも言ったけど、正真正銘私の願い事だよ。『幸せになりたい』。それとももう少し簡単なお願いの方がよかったかな? じゃあ、「何か食べ物をください」。お腹がすいてるの」

 いい加減この不毛なやりとりから解放されたくて、投げやりに答えた。

 またしても、首を横に振るコトハ。

「キミにはきっともっと、叶えたい願いがあるよ」

「そう言われても、これ以外に思いつかないんだけど。っていうか、なんであんたがそんな事言えるの? っていうか、そろそろ理由を教えてほしいんだけど。なんで私に訊くの? 他の人にも訊いてみたら?」

「だって聞こえたもの」

「何が?」

「声。だから助けに来たの」

 コトハの言葉に顔が赤くなった。家で泣き叫ぶ私の声を、通りすがりに聞かれたのだろうか。

「助けに来たって言っても、私が悪い子だから親から怒られたってだけだし。あなたに出来る事は何もない。……まさか、大人に入れ知恵されたとか? 児童相談所に言いつけるつもり? 私そんな事、本当に望んでないから」

 前にも先生が余計な真似をして、大変な事になった。さらにママの目の憎しみの色は濃くなった。嵐のような怒りに只管耐え、それが自然に過ぎ去っていくのを息をひそめて待って……徐々にまたこの家に存在する事を許された。それからはこれまで以上にママの邪魔をしないように心掛けてきた。……今日また、失敗してしまったけれど。

 とにかく、大変だったのだ。

 なのにまたあいつらが来るような事になったらきっと、ママは私の事、完全に嫌いになってしまうだろう。今度こそ、もう面倒だと捨てられてしまうかもしれない。

 想像して、視界が真っ暗になった。

「そんな事になったら……もう終わりだ」

 ママに捨てられてしまったら、私は世界で独りぼっち。

 恐怖で震える。そんな事になったら生きていけない。

「頼むからそれだけはやめてほしい。本当に、私を助けたいって思ってるんだったら」

 取り乱した私に、しかし再度、コトハは首を横に振る。

「……違うの? なら一体……」

「わたしがイツキにできる事は、たった一つだけ」

「…………願い事の話?」

 願い事は昔から一つだけだ。

 欲しいのは『幸せ』――テレビで見る『家族』の様に、ママと一緒に笑顔で暮らしたい。

 ママを助けて、支える事。出来るようになりたい。

 ただでさえ生きづらそうにしているママの負担(おにもつ)に、なりたくない。

「言ったけど。叶えてくれないじゃない」

「どんな願いだって大丈夫だよ。キミの為の願いなら」

「だから、幸せにしてくれって言って……」

「誰を幸せにするつもりなの?」

 コトハの言葉に、ぎょっとして目を見開いた。

「え?」

「誰のためにそう願うの? イツキの為じゃないでしょう?」

 問われて、思い返してみる。

 幸せになりたい。『幸せ』が欲しい。『幸せな家族』。っていうのは……笑顔が絶えない。笑顔を浮かべる……。

「……なら、言い直せばいいの? ママが幸せな笑顔を浮かべるのがいい。それを見ているのが好きなの。だから私……」

「それはママの為の願い。だから、わたしは叶えられない」

「………………」

 言いたいことは理解った。

「私がしたい事を願えばいいのね? なら……ママの望む良い子になりたい」

 お手伝いが完璧に出来る、ママを苛つかせないような。ママのストレスを解消してあげられるような。ママの問題をなんでも解決出来ちゃうような。「貴女がいてくれてよかった」。そう望んでもらえるような人に……。

「それも、ママの為の願い」

「違う、これは私が望んで……」

「イツキの為にはならない。『ママにとって都合の良い子』は、『イツキ』にはならない」

 言われて、衝撃を受けた。

「イツキの中から、イツキの為の願いが生まれてこないのは、そのせい」

 とても遠くで、雷がなった。

 金槌で背中を殴りつけられたような。重く鈍く響く、音。

「イツキはイツキにならないといけない」

 よくわからないけど、なんだかすごく、ショックだった。

「…………私は。今の私は、私じゃないの?」



 雨音がひどくなっている事に気づいた。

 気づけば冷えた手足が痺れている。

「イツキの、『ママの為の願い』を叶える事はできるのよ」

 コトハの目は変わらず真っ直ぐに私を見下ろす。

「でも、それを叶えてしまったらイツキは、イツキじゃなくなってしまう」

「そんな事……、関係ない、それでも」

「イツキがイツキじゃなくなってしまったら、イツキは必ず壊れてしまう。だって、『ママにとって都合の良い子』は、『望んだ時に消えてくれる子供』なんだから」

 言い逃れできない程の証拠を、視界いっぱいに突きつけられた気がした。

 ぎりぎりの所まで、追い詰められた気がした。

 もう、崖から落ちるしかない。落ちた方が楽かもしれない。

 目指していた目標(みち)が掻き消えて、景色が色を失くした。

 こうなる事を、ずっと恐れていたのかもしれない。北極星(しるべ)が、消えてしまう事を。

 頬を涙が伝う。

 けれど。

 どこかで何故か、すっと、心が軽くなったのを感じた。

 その感覚――感情は『諦め』にも、よく似ていた。

「……あぁ。そうか」

 私は、観念した。

 導に続く道は破綻していた。

 闇の中、手探りで懸命に歩いてきた。けれど。

 滴が一滴、足に落ちる。

 そこに私の居場所(スペース)は、最初から無かった。

「本当はこんな事、教えちゃいけない事になっている。コトハはヒトじゃないから、コトハから関わってはいけないの」

 人じゃないなら、この子は何なのだろう。不思議な子。言葉だけで、私を破滅の道から崖に突き落とした。奈落の底に。こんなに暗いのなら。

「…………気づかせないで、ほしかったよ」

 絞り出した私の言葉に、コトハは僅かに顔を歪ませた。

 そして頷く。

「アルカに言われてた。ヒトに影響を与えてはいけないって」

「アルカ?」

 不思議な響きに、俯いていた顔を上げる。

「原初の海に居る『意思』。コトハを現世に戻してくれたヒト。アルカがわたしの願いをきいてくれたから。わたしもアルカの願いをきかなきゃダメなの」

「願い…………」

「今のイツキになら、『イツキの為の願い』は判るはずだよ」

「私の願いは…………」

 何なのだろう。

 真っ暗で何も見えない。

 目指す星も見えない。

 わからない。

「……わからないよ」

 耐えられずに、蹲った。

 凍えそう。

 現実(しんじつ)に耐えられない。

「どうすればわかる? 温めて震えを止めればいい?」

「真っ暗で何も見えない」

「目になればわかる?」

「それでも星は見えない」

「空を駆ければわかる?」

「独りじゃわからない」

 ママでも、よかった。

 私を破滅させる存在でも。壊す存在でも。なんでもよかった。

 一緒に居てさえくれればよかった。

 だって。

「………………独りじゃ……なにも」

 願いはない。願いが生まれない。

 …………だけど。

「……いやだ」

「………………」

「独りは、いやだ」

「では?」

「……誰かに居てほしい…………!」

「いいよ」

 絞り出した声にコトハは頷いた。

 呆然と見上げると、コトハは小さな手を私に差し出していた。

「イツキが願いを見つけるまで、わたしがイツキの傍に居る。そう願われて、わたしはココに来たの」



 走った。

――願われた? 誰に?

 雨の中を走った。

 足がもたついて上手く進めない。それでも走った。

――イツキは知っているはず。あの大きな存在を。

 なんだかふわふわする。体が、心許ない。

 でも、走った。

――おおきな、そんざい?

 走った。真っ暗な狭い道路を。

――イツキをずっと見ていた。春と秋に、温かい時間を貰ったって聞いた。

 ショートカットの獣道を。

――春と秋? なら、今……夏は……?

 草を掻き分けて。

――初夏はイツキ、顔見せないって、心配していた。イツキは。

 広い閑散とした駐車場を駆け抜けて。

――虫が苦手だからって。

「……そ、んな…………」

 何もなくなってしまった場に、来てしまった。

――もう時間がないからって。わたしを呼んで願いを告げた。

 真っ白な頭で、大きな石で囲われた土に、手を触れる。

――イツキの願いをきいてほしいって。

「……………………」

 かつてここに。一本の大木があった。

 大きな大きな桜の木。パチンコ店の広い駐車場の隅っこで、春も夏も秋も冬もずっとここに立っていた。

 寿命だったのか病気だったか。物心ついた時にはもう、その木は花を咲かせなかった。

 コトハの話によると、コトハに願いを伝えた、その数日後に。

 伐採されてしまったという。

「……………………」

 静かな雨音が、体に響く。

 細かい雨滴が、体を伝う。

 心を濡らす。

「この木にさ。私、ずっと世話になってたんだ」

 コトハの気配を背後に感じて、しかし振り返らずに口を開く。

「この桜、幹が太くて、登りやすくて。幹から伸びたたくさんの長い枝の根元に、子供なら三人位立てる程平らな所があってね。あんまり人が来ないのをいい事にそこにビニールシートを敷いて、根城にしてた訳。葉っぱで雨も避けれるしね。捨ててあった物とか本とか色々持ち込んだりして、ちょっとした秘密基地だったんだ」

 物悲しいのに、涙は出ない。

「って言っても、そんな毎日は来てないし。冬は寒いし葉っぱが無いから登ってるのバレバレになっちゃうし。春が過ぎる頃には毛虫が出るしで敬遠してたんだけど……そっか」

 心にぽっかりと穴が開いている。なのに、何故かずっしりと重たく感じる。

 ……でも妙に、

「心配、してくれてたんだね」

 落ち着いている。

「そこにあった木。ずっとイツキを見ていたよ」

 コトハの声に、頷く。

「高い所まで登るとうちのアパートが見えるの。……そっか。情けない姿も、ずっと見られてたんだ」

 両手をついて。湿った土を握って、瞳を閉じる。

「見ていてくれてたんだね」

 いつの間にか、雨が上がっていた。

 重たい雲間から、半分の月が見える。

――ありがとう。

 淡く仄かな白い光が、イツキの背を包んだ。

「ねぇ、何を願う?」

 コトハの言葉が、今度は素直に心に入って沁みた。

 腫れあがった瞼を開き、自分の落とした影を真っ直ぐに見る。

 立ち上がって、コトハを振り返って、頷いた。

「私の願いは……」



「施設に行く事にしたって」

 アパートの前の道路に立ち、かつてイツキの家だった玄関を見つめながら発したコトハの言葉に、彼女の周りを飛んでいた淡い薄桃色の真珠のような形状の玉は暫くの間無言でいた。

「もうここにはいないよ」

 それが、あの娘の願いかい?

「ううん。施設に行くのは、自分で行動を起こした結果なの。『自信無いけどちゃんと自分を生きてみる』って言ってた」

 では、結局あの娘の願いは見つからなかったのかい。

「ううん。今叶えているところ」

 今?

「ありがとうって伝えてって。樹木に」

 そんな願い(こと)を言ったのかい。あの娘は。

「コトハの言った通りでしょう?」

 何の話だい?

「『言葉を持たないから儂らの想いはあの娘には届かない』って樹木が言ったから、『そうでもないと思うけど』ってコトハは言った」

 けれど、それは、儂の想いをコトハが運んでくれたから届いたんだろう。

「違うよ。樹木の想いがちゃんと伝わっていたから、イツキはコトハの言葉を受け取る事が出来たんだよ」

 そうかね。

「そうだよ。コトハ知ってるもん。ヒトに言葉を届けるのは簡単じゃないんだよ? まず信じてくれないし」

 そうかね。

「樹木がいつも見てたの、イツキは知らない間に感じてたから。だから変われたんだよ、自分を大事に出来るヒトに」

 そうだと嬉しいね。

「自信ないって言ってたけど、樹木に言葉を届ける事を願ったイツキならもう大丈夫だと思うよ」

 そうだね。あの娘は決して弱い娘ではなかったからね。

 では儂もそろそろ行くとしよう。

「もういいの? これからイツキの様子、一緒に見に行ってもいいけど」

 もう十分だよ。

 花を咲かせる事が出来なくなってヒトは儂に見向きもしなくなった。ただ一人あの娘を除いては。

 でもねあの娘の目は孤独で濁っていた。儂は勝手に、自分と重ねてあの娘を見ていただけかもしれん。

 このまんまじゃ、人間に切り倒されてしまうとな。

 儂はもう十分生きた。そりゃあ他のもんに比べると短い生だったかもしれんが儂は満足している。

 だが、あの娘は根を張る事も出来ぬ内に、ロクに枝葉も生やさん内に倒されてしまう。定めとはいえ、さすがに不憫だった。

「もう根っこは張れたのかな」

 張れただろう。あの娘は告げたのだろう? 「自分を生きてみる」と。

 未だ細く、頼りないがようやく大地(せかい)に立った所だろう。

「これから大変だろうね」

 枝葉を生やす為にたくさん、様々なものを吸収せねばな。心地良いものは勿論、これまで以上に不快なものも。

 その内に根も太く逞しくなるだろうて。

「『心配』なくなった?」

 おかげさんで、つっかえは取れたよ。

 さぁ、コトハ。儂を導いておくれ。

「うん、じゃあ」

 コトハが小さな両の手のひらを胸の前へ出すと、薄桃色の玉はその手のひらで出来た揺り籠に収まった。

 ではね。

 先に行って、おまえさんの願いが無事叶う事を祈っとるよ。

「ありがとう樹木」

 コトハが目を閉じる。

 手のひらが発光し、溢れる光が玉を包んだ。玉は振動し、上下左右にくるくる回る。

 光が増幅し、揺り籠に収まりきれずに溢れ出す。構わずにコトハは意識を集中した。しばらくの間コトハは暴力的な光の渦に耐え続けた。

 やがて玉の振動がぴたりと止む。

「樹木の歴史(きおく)を、魂に上書き完了(きろく)

 コトハは開眼した。

「送るよ。アルカ」

 光溢れる両の手のひらの中の玉を頭上高く掲げる。

 膨大な光は一気に上昇し、天に達する一筋の光柱と成る。

 玉はふわりふわりと柱を昇っていった。

「いってらっしゃい」

 コトハは玉の行く末を見つめながらぽつりと別れを告げた。

 玉が天に吸い込まれると、光柱は天からするするとコトハの手のひらに降りてくる。

 手のひらで、光は凝縮し本の形状を取った。

 光が弾ける。

 コトハの手のひらには一冊の分厚い絵本があった。

『樹木とイツキ』

 絵本には、樹木の生とイツキという名の少女との出会い。そして別れが記されている。

 胸に抱きかかえて、コトハは空を仰いだ。

 樹木はとても長生きだから。この絵本にこそ、あるのかもしれない。

 ないのかもしれない。

 コトハの願いを叶える為の手がかりが。

 でも、それでも、いつかきっと。

「届けるよ。樹木みたいに」

 抱く想いが、己の代わりに、ヒトの支えになってくれると信じて。

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