お前は何様?魔女様です
デセール王国は大陸一緑豊かな楽園である。
西の国境には険しい山々と深い谷底があり、その高低差により雲を作り、雨を降らせる。
流れ出した川は人の立ち入らない樹海の土を王国全土へと巡り、豊かな大地を生み出した。
雨と共に生まれた風は各地に設けられた風車を回す。
そうして誕生するのは、大陸全土の貴族たちを魅了して止まない、小麦を始めとする最高品質の農作物の数々。
秋には実った小麦が黄金の色づき風にそよぐ様は、海のよう。
つまりデセール王国は、大陸の食料庫。
その地を戦火で焼き払えば、いざという時に飢えに苦しむ事になるが故に、付近の国々はこの国土を欲しながらも互いを牽制、デセール王国に攻め込まない事を誓い合うまでに至っている。
約束された平和と安寧。
深い森と、田畑。石造りの道と素朴な家々。
悠久に続くと思われた人々の営みが、突如崩壊するとは、きっと誰も考えていなかったはずだ。
「――白、くない」
カカオの手配した馬車から降りたレーチェは、呆然と《白銀の剣》と名高いデセール王城を見上げて呟く。
各塔の先端が尖った幾多の塔が剣を思わせる。が、本来誉れ高い観光の名所ともなるその城はいまや得体の知れない漆黒の靄に包まれている。
「以前から、時折靄がかかることはあったのです。ですが、先代国王が亡くなり、現国王が即位した二週間前よりこの有様。もちろん、家臣全員で城の点検もしましたが、異変は見当たらず……国王に至っては、もう二週間も床についたまま、病状は悪化するばかりなのです」
お前は何様?魔女様です
国主たる国王の寝室は、不意な敵襲に備えられ城の最も奥地――各方位を想定とした、中枢に設けられていた。
他の扉よりも幾分も大きく作られたそれは、光沢の美しい群青のベロア生地の上に、剣を天に掲げた王冠を冠した人物の白い石のレリーフが重ねられた、手の込んだ代物。この部屋は特別なのだと見るだけで語りかけてくる。
部屋の前で踵を揃え一つ深呼吸をし、意を決したようにカカオは扉をノックした。
「オウロ陛下。カカオ=ド=ドルチェでございます」
静かにそっとカカオが呼びかければ、分厚い扉の向こうから、帰りなさい、と女性の声が返された。
――ああ、今日もいたのか。
その声に眉間が小さく震える。
オウロは前国王の一人息子である。
いずれ国王になるのだからと、親しい家臣というものを作るべきだという話もあり、同じ年頃のカカオや兄とも交流の場がつくられてきた。
その場に、必ずといっていいほど存在していたのだ。彼女は。
「行かないの?」
背後からレーチェに急かされ、カカオは渋々「ですが」と切り出した。
「オウロ様にどうしても会わせたい者を連れて参りました」
「会わせたいと言われても、オウロなら眠っています。また後日に、オウロが目を覚ましてからにしなさい」
「……いえ、あのぉ……是非、オウロ様を看ていただきたい、魔女様を、ですねぇ……」
「魔女?」
冷たい歓迎に一度躊躇えば、声はヒステリックな様子を帯びて高らかに鳴り響く。
「前々から現実に足が着いた人間ではないと思っていましたが、ついに魔女なんて架空の生き物を信じるようになりましたか」
「い、いえいえ、僕も信じてなんていなかったんですけれどね」
「――帰りなさい」
「え、でも……」
「貴方の下らない現実逃避に付き合っていられるほど、私も暇ではないのです」
取り付く島も無い相手の様子に、カカオは終に閉口する。
いつも、そうだった。
交流の場に現われた彼女は、我が子に悪い虫がつかないように、と鋭い視線と温度の無い声で周囲の子らを拒絶した。
優秀だった兄は模範たるべき子として受け入れられたものだが、兄に何一つ及ぶ事のない落ち零れのカカオは悪しきものとして特に敵視されていたものだ。
それでも一国の王子と友人となれたのは、一重に王子の人柄故。
母が無礼をしてすまない、とわざわざ手紙を書いて寄越してくれる、温かい人だったからだ。
――どうしよう。
助けたいのに、この扉を開けられない。
本物の魔女である彼女なら、助けられるかもしれないというのに、上手く説明する言葉が見当たらない。
己の無力さに目頭が熱くなった――その時だった。
「おおっと、手が滑っちゃったー!」
後ろに控えていたレーチェが、突如棒読みの台詞と共にドアノブを殴りつける勢いで押し開けた。
民家一軒分が余裕で入りそうな広い空間に、木目の美しいキングサイズのベッドが一つ置かれている。
その横に小さな椅子を置いて座っているのは、初老の女性。
澄んだ湖を思わせる蒼い瞳と淡い金色の髪のその人物は、肌も雪のように白く、繊細。
豊満な胸元を開いた艶やかなシルク地には繊細なレースと刺繍がふんだんにあしらわれた若葉色のドレスを纏う。その様は、差し詰め絵画で喜んで描かれる豊穣の女神のよう。
フロマージュ=アンジュ=ド=デセール。
歳を重ねたにしても、前国王の心を一目で射止めた美貌は今尚健在だ。
だが、その視線は鋭利な刃物のように鋭く、見る者を威圧する重さを秘めていた。
「なんですか、貴方は。此処をどこだと考えているのです。ここは――」
「デセール王国国王・オウロ=グラーノ=ド=デセールの寝室」
「分かっているのなら」
「――そう、貴方の部屋ではないのよ。オバサン」
オバサン。
笑顔で小首を傾げる美少女は、誰も言わない禁句をさらりと口にした。
当然、王太后は怒りに赤く染め、握り締めて拳を震わせた。
「~~っ!なんて口の聞き方を……何様のつもりですか!」
「何様って、魔女様よ。オ・バ・サ・ン」
「またそのような嘘を!」
「嘘じゃないの。本当にわたしは魔女様なの」
「……っ。名を、名乗りなさい!!王家侮辱罪で牢屋に閉じ込めてしまいますよ!!」
怒りを露わにする王太妃に、少女は落ち着いた様子で対峙する。
ハラハラ、オドオド。
女の戦いに立ち入るタイミングを掴めないまま、カカオは二人を交互に見つめるしかなかった。
時間にすれば、恐らく十数秒。
けれどそれまでの二人の言い争いの速度から考えると、ずいぶん長い沈黙の後、魔女は棒立ちのまま囁くように名を語った。
「レーチェ。レーチェ=ルーチェ。捕らえるなり殺すなり、好きにしなさいよ。でもそれは臆病者のくせに必死にわたしの元まで辿り着いたカカオのため、今も戦い続ける王様のため――何よりここまででっかくて重くて五月蝿い荷物を背負ってきたわたしのため、やることを全部終わってからにしてもらいたいものだわ」
彼女はそう言うなり、赤い瞳でカカオを見つめた。
人間、そうそう恐怖に慣れるものではない。彼女をここまで連れてくる際に、カカオが凛としてエスコートできたのかと言われれば、答えはノーだ。
烏の鳴き声に悲鳴を上げ、抱きつくまではいかないが小柄な少女の肩に縋りついたのは紛れも無い事実である。
ブワッと嫌な汗が全身から湧き出しながら、カカオは心の中で全力で土下座せざるを得なかった。
「あの、フロマージュ様。彼女を連れてきたのは僕です。痛いのや怖いのは正直嫌ですが……その、彼女の罪を僕も背負いましょう。もう既に我が国や隣国の医者たちは匙を投げたと聞いています。ですから、ここはどうか、彼女に任せていただけませんか」
緊張と恐怖と戸惑いに固まる両足を引きずるように部屋の奥へと足を運び、カカオは深々と頭を下げた。
しばらくそうしていると、いつもならすぐに否定の言葉を再び滝のように浴びせかける王太后が黙り込んでいる事に違和感を覚えた。
恐る恐る姿勢を直せば、彼女の青い瞳は、すでに彼女の脇をすり抜けて行った赤い少女の後姿を凝視していた。
まるで、幽霊でも見たかのように。