妖精?いいえ、魔女様です
『――前略 カカオ=ド=ドルチェ殿
久しぶりだな。
突然だが、俺は予言する。
近々、迷い事がお前の身に起こるだろう。
その時には、魔の森の魔女の元へと訪れれば、運命の扉は開かれる。
臆病なお前には酷な話だが、騙されたと思って立ち寄ってみるといい。
――お前の最愛の兄・テアより』
十年も昔に家を出て、すっかり行方を晦ませていた兄から突然手紙が届いた。
突然始まり突然終わる文章の中には、彼が本人であるという思い出話のひとつ、彼が今どこにいるのかという手掛かりも何も記されていなかったが、それでも不思議と本人からの手紙であると理解した。
兄は、浮世離れした存在だった。
一を理解すれば、十と言わず百を理解する――兄は所謂神童と呼ばれる類の人間だった。
変な事を言っていると思えば、しばらく時間が経った後ようやくあれを言っていたのかと理解できる。
だが、それは凡人である周囲の人間にとっては必ずといっても全てが終わった後の話。
終いには子どもながらに誰かに忠告しても無駄だろうと諦めたのか、「こうなったら、ああしろ」と何かが起きた際の道筋を語るようになった。
――そういう人だった。
魔の森、というはデセール王国王都デコラシオンの西に広がる大陸最大規模の森である。
幾万の巨大な木々が聳え立ち、空を覆い隠すほどに枝を広げ葉を茂らせたその森は昼でも薄暗く、何人もの旅人がその森を抜け王都へ向かおうとしては迷う事から、人をからかう妖精が住むという伝承もある――というと、とても幻想的なのだが、単純明快に言ってしまえば方位磁石すら狂う、凶悪な樹海なのだ。
別名、魔女の森とも呼ばれている。
「もう、やだ。帰りたい……」
半べそを掻きながら、足場の悪い道を進む。
森に入ってもう二時間程経っただろうか。
念のために持ってきた方位磁石は寒気がするほどグルグルと回りっぱなし。
ギャーギャーと森に住む烏が不気味な声で鳴いている。
大木たちは風にザワザワと歌い、朝露に濡れた葉をカカオの襟へと忍び込ませる。
時折青虫まで降ってくるものだから、怪異とは違う意味でも叫び疲れてヘトヘトだ。
今朝、王城に出向いたのが朝の十時頃。森へ向かう道に一時間掛かったから、今はお昼の一時過ぎくらいだろう。
喉はカラカラだし、お腹もすいた。
だが、森の周囲に川はあっても内部にまともな水源は無く、得体の知れない果物を知識無く口に含めば死に至る。
王国の五大貴族の一つ、ドルチェ伯爵家の次男として何不自由なく生まれ育ったカカオにとっては地獄といっても過言ではない。
挙句、その前に立ち寄った場所が場所だけに、正装をしていたものだからシルクの生地が水気を含んでべったりと肌に張り付いてくる。
ここまで苦しい想いをしてここまできた。
だが、本当に魔女に会えるのか時間の経過につれ不安は増していく。
――いいや、そもそも世界に魔女などいないのだ。
千年前には魔法使いを名乗る偉人の姿があったものだが、近年史に於いては一人もそのような者はいない。
魔法など、子供だましの妄想。妄言。
魔法使いも魔女も、物語のなかだけにいる脇役たち。
賢い兄が、そんな代物を本気で語るわけがない。きっと何かの暗号に違いない。
「しっかりしろ、僕。目を凝らして、魔女っぽいものを見つけるんだ」
涙と汗の混じる目元を手の甲で乱暴に拭い、キッっと周囲を見渡した。
――ザワザワザワ。
――ギヤアァアアァァ。
胸から溢れ出る決意という熱情は、周囲の雑音に瞬く間に冷まされる。
挙句、真後ろから何か――冷静になって後から考えれば烏しかいないのだが――の羽ばたく音が近づいてきた瞬間、追われるようにカカオは駆け出していた。
「うわあああん、やっぱり帰りたいよ~!!」
走って走って走って……とにかく無我夢中で駆け抜ける。
「!?」
――瞬間、大木の波は糸が切れるように忽然と視界から消失した。
代わりに、カカオの琥珀色の瞳に飛び込んできたのは、眩い閃光だった。
目を焼かれて立ち止まれば、白く眩んだ世界はやがて、あるはずも無い湖を視界に捕らえ始める。
流石に大樹も湖の上には生えることはできないようで、空を覆い尽くした枝と葉が途切れ二時間ぶりの青空が覗いた。
その空の色を映した湖は日の光を受けて青くきらきらと煌き揺れている。
対岸には白い石でできた砦らしき存在があり、長い年月に風化・植物に浸食された廃墟と化していた。
背後に広がる黒い森、空と湖の青、砦の白――文明の終焉を思わせる風景は絶望的でありながら、どこか神秘的で、カカオの目を奪った。
中でも目を奪うのは、湖に乱雑に突き刺さる砦の柱らしきものの上にいる、赤。
日の光に溶けてしまいそうな滑らかな雪白の肌。
柔らかな弧を描く薔薇色の頬と唇。
それらの色彩を圧倒する、この上なく鮮やかな深紅の髪と瞳。
見た事の無いような異質さ、それでいて誰もが認めるだろう美少女が一人、林檎を片手に腰掛けていた。
その華奢な体に纏うのはありふれた村娘の衣類のシルエットでありながら、喪服のように彩りが無い。
ふと、カカオの脳裏に『魔女』という単語が浮かんだ。
だが、少女は魔女というにはあまりにも若く、あまりにも可憐。
魔女というより、妖精といった方がしっくりとくるだろうとひっそりと首を横に振って己の思考を否定した。
(声をかけなくちゃ)
どこか物憂げに伏せられた少女の瞳を見つめ、ひっそりと深呼吸をする。
赤毛や赤い目と言う代物は大陸に珍しいものではないのだが、ここまで赤い色彩は初めてだ。
ただ、少なくともデセール王国の者ではなさそうだ。
何語で話しかけるべきか。
あの薔薇色の唇で語られる言葉を、妙にドギマギしながら考えた。
「……あの、糞、女っ垂らしめぇ……」
ぽつり、とカカオの鼓膜をどこか幼さの残る女の声音が揺らした。
それは、デセール王国で使われる、慣れ親しんだ言語である。
だが、その言葉を理解するまで、カカオはしばらく時間が必要だった。
(え、今、あの子、糞って言った?い、いやいや、聞き間違いだよ。あんな品の良さそうな感じの子が――)
「あの馬鹿め、何が『棒のような体型をしていようと、女性と争う趣味はない』よ。思いっきり喧嘩吹っかけておきながら、人質とって逃亡?不戦敗押し付けられるってどういうことなの?馬鹿なの、死ぬの?むしろ死ねよ、糞テア=ド=ドルチェめぇええぇぇっ」
戸惑うカカオに追い討ちを掛けるように少女の唇は憎悪を垂れ流す。
女の目は暗がりにありながら煌々と赤く煌き、周囲には小さな炎がふわりふわりと浮かび上がる。
これは魔女、というか、鬼女。もしくは幽霊の類ではなかろうか。
「ひっ」
あまりのおぞましい姿に乾いた喉が悲鳴を上げてしまった。
それは些細な音に過ぎなかったが、間の悪い事に女には聞えてしまったらしい。
「……誰かいるの?」
立ち上がる女の血色の髪が、突然の突風に逆立ち揺れる。
心なしか空まで暗くなったように気がする。
「テアとの一件で機嫌が悪いから近づくなと各部署に連絡したわよね?うっかり燃やしてしまうかもしれないって。それに、この森は死の森よ」
少女が首を傾げた瞬間、足元からゴォッと巨大な炎が巻き起こった。
それはもう、魔法のように。
「ルージュ第六位後継者《煉獄の鬼姫》レーチェ。サグア様から管理を任された者として、お仕置きをしなくてはいけないわね。……そうね。その気障ったらしい髪型に出来ないよう、毛根から燃やし尽くしてあげようかしら」
ああ、まずい。
迷い事の解決どころか、自分はここで死ぬかもしれない。
兄の言う事など、当てにしなければよかった。そもそも、本当に兄の手紙だったのか。
走馬灯のように思考が駆け巡った。
けれど、不思議なことに心臓は魔女が近づく度に甘さを帯びて加速していくのである。
怯え立ち竦むカカオを目の前に、勝利を確信する魔女の微笑み――それは臆病でこれといって突出した技能も持たないカカオには到底出来ない、悠然と構える強者だけに許されたもの。
恐ろしくも、美しい、魔性のモノ。
「わたし、あまり気が長いほうじゃないの。三つ数える間に今すぐ帰るか、つるっぱげを覚悟して話してみるかを決めなさい。――三、二、一」
「……ま、まって。お願いだから、ちょっと……」
「ゼ」
「――僕は、テア=ド=ドルチェの弟のカカオと申します!」
カウントが終わる瞬間、ほぼ自棄になってカカオは腹の底から叫んで停止させた。
終わった。
兄が何をやったかは定かではないが、八つ当たりで髪を燃やしてしまうまでに怒り狂った者を相手に、元凶の弟だと告げてしまった。
自分は若くして丸禿げになってしまうかもしれない。
でも、それならこの恐ろしい森に立ち入ったのは何のためか。
カカオの猫背でなで肩の背中には、髪の毛よりも恐怖よりももっとずっと大事なものを背負ってきたはずだ。
「『赤の切り札』がわたしに頼れ、ですって?」
無我夢中で差し出した兄からの手紙を彼女は躊躇いがちに受け取ると、心底驚いたように緋色の瞳を見開いた。
「すみません、兄だけではなく僕までご迷惑を……でも、僕一人ではもうどうしようもなくて……」
魔女の凄みに抜けた腰を庇い、何とか姿勢を正すとカカオは深々と頭を下げた。
伏せた姿勢では、魔女の姿は目に入らない。
岸に茂った雑草と、そこにぽつんと咲いた名も無き花が吹き抜ける風にそよぐ様を、処刑台の罪人さながらの気分で待ち受ける。
「どうか――どうか、僕の友人を、僕らの王国をお救い下さい。魔女様」