俺、転げ落ちて
あの日の夕食は、普段とは明らかに違っていた。親父とかあさんと妹と俺、家族四人がそろうなんて、もう一生ないものとさえ思っていたというのに、その日はみんなして食卓を囲んでいた。別に食事の内容はこれといって豪勢でもなければ、逆に貧相というわけでもなかった。鶏肉と夏野菜を味噌で炒めたのと、少し漬かりすぎて酸味の出てきた胡瓜の浅漬けと、それに玄米の半分混じったご飯になめこのみそ汁。何の変哲もない献立だ。ただ、顔を突き合わせて飯を食う、その行為だけがなにより一番の違和感だったのだ。
口火を切ったのは、妹の沙智子だった。というのも、あの奇妙な状態に対する理由が欲しいらしく、それで痺れを切らしたのだった。口を開くのさえ気まずいこの空気の中で、妹のそれはありがたかった。その反面、なんということを、という思いが頭の中で静電気のように飛び跳ねる。同時に飛び跳ねたのは嫌な思い付きだった。
まさか、離婚なんて、冗談じゃないぞ。
そして、嫌な思い付きほどよく当たるのだ、この世の中は。
「何にもないんなら私、ご飯後で食べるから自分の部屋戻る。あまり具合よくないし」
と半ば独断的に主張した沙智子は、軽い咳をしながらも席を立った。しかし、親父がそれを制した。手を大きく上に伸ばすと、「ちょっと座っていなさい」と、珍しく口を開いたのだ。
親父は元来口数の多い方ではなかった。といっても、寡黙という言葉が似合うというわけでもなく、ましてや、不器用ですから、なんて男らしい一面もないオヤジだった。気弱で、さらに女々しいのだ。沙智子が食べようと思って買ってきたミニシュークリームを、目ざとく見つけてきて、食べていいのかと小さな声で聞いた時なんかは、沙智子もあきれた様子で「いいよ」といった。あんな風にされては食べる気も失せる、というものらしい。
沙智子と親父の仲が悪いのは、そういった日々の積み重ねに起因するところがある。親父は沙智子の病気を気にして、なんとか関わっていこうとしているのだが、その歯車がまるでかみ合っていない。だから、どうせ今回もきっと、沙智子は無視をするんだろうなと、思っていた。むしろその方が、嫌な思い付きを思いつきで終わらせることができるのだと。しかし予想に反して、沙智子はへの字に眉を曲げ、おずおずと席に戻り、手元にあった箸をごちゃごちゃといじりだした。そして、親父から離婚をするという話を聞くことになったのだ。
俺は大学に入るときに、一年の浪人をし、今現在さらに一年の留年を経て、大学三年生をしていた。あと一年と半分ほどの学生を、親父は許してくれるというわけではないらしい。やさしい声で、
「もう二十歳も過ぎたんだし、な」
といわれた時にはめまいがしそうになった。大学をやめることになるなんて、見通しが甘い、自業自得、なんとでも言ってくれ。とにかく俺は今、無職だ。泣きっ面に蜂で、俺は家を出て一人暮らしをすることになった。家賃の援助はすると言った親父の言葉も、どこまでが本当かわからない。実際、夕食が終わって時間もそれほど立たないうちに、敷金、礼金は、自分の貯金でなんとかならないか、なんてことを聞いてきた。だから、一刻も早く何か、仕事を見つけなければならない。といっても、なんでもいいというわけではない。仕事を探し始めて分かったことだが、最初の月は研修だから正規の給料がもらえないなんて、ざらだ。そもそも、一か月も給料が入ってこない仕事では緊急性に欠ける。寝られなくなって、余計に不安な時間が長くなって、けれども、時間は短いまんまで。俺は放りだされるようにして家を出た。敷金、礼金だけが払われたアパートの書類と共に。
何だってこんな思いをしなければならないんだ、と自棄になって、紙幣の少ない財布から、千円札を一枚抜き取って、コンビニに直行し、サントリーのウイスキーを買った。それをコップにあけて、一息で飲むと、息が苦しいような、世界がぼやけているような感じで、次の朝を迎えられた。起きるとさらなる不安に駆られ、また何かしらのアルコールを取った。そのぶん財布の中の金と、精神がすり減っていくのはわかっていたが、当然、やめることはできなかった。不安の重圧から解放される手段が、それだけ、しかなかったら、誰だって迷わずに道を踏み外しただろう。そう、道を踏み外したのだ。
その日暮らしの金が欲しくて始めた仕事は派遣のアルバイト。一日働いて、少し無理を言えば次の日に纏まった金が入る。纏まったといっても、六千円から一万円の間くらいで、その月を生活するには十日以上働かねばならなかった。十日働けば、うまくすれば家賃と食費と、それに交遊費も少し出る。しかし、派遣のアルバイトというものは、毎回同じ職場にいるというわけではなくて、だから時給もまちまちである。運悪く金払いの悪い仕事しかなかった月は、それはもう苦しいものだ。あと一回、日数を増やして働けばいいだけなのだが、どうもこの生活に慣れ始めるとそれができない。水がタダではということがどれだけ恨めしかったことか。それでも、腹が減ったらごまかすかのように水を飲むしかなかった。
もう一つよくなかったのは麻雀にはまってしまったことだ。パチンコやスロットはやってはみたものの、溶けるように金がなくなっていってしまい、正直一度で十分すぎるくらいだったし、競馬やそれに準ずる何かは、少しはできたが、時間がたつと、どうも自分で賭け事をやっている実感がなくて、やはり駄目だった。しかし、麻雀においては違った。肉体労働の仕事終わりに入った雀荘で、一度勝ってしまったのがいけなかったのか。その時は本当に馬鹿馬鹿しいくらいに大勝ちだった。リーチをしてはツモり、またリーチをしてはツモり。漫画のような勝ち具合で、一晩にコロッと四万円もの金ができてしまった。馬鹿らしいじゃないか、遊んで四万と、働いてせいぜい一万のどちらがいいかはだれの目にも明らかだ。しかし、それが罠だったのだ。それから行けども行けども、勝ちで終わることなどない。もう勝つことはないと、自分でわかっていながらも足がそちらへ向いてしまう。よせばいいのに、負けが込むとレートの高い卓へ行って取り返そうとする。
そのうち、金が足りなくなると、消費者金融に行って金を借りるようになった。初めは軽い気持ではなかった。子供のころから、金の貸し借りだけはいけないと、耳にタコができるほどに言われてきた俺だ。けれども、とうとう、雀荘から電話がかかってきたのだ。
「あなたね。こっちだって言いたくはないんだけども、これ以上賭け分を踏み倒すようなら、それなりの措置をとらねばならないいんだよ」
最初は優しい口調だったが、だんだんと脅すかのように聞こえてきて、すぐさま、この恐怖から逃げたくて泣く泣く消費者金融から少しばかりの金を借りた。親の言うことは聞いておくべきだ。一度借りると、借りるというハードルが下がってきて、二度目、三度目とするうちに、借り癖みたいなものがついてきた。一度は親に泣きつこうかと思ってかあさんに電話をかけたこともある。
「二十歳過ぎて、とりあえずも独り立ちして、そろそろ顔も見たいもんだよ。正月は家に帰るの」
何にも知らずにそういわれて心が痛く「いや、なんでもない」といって受話器を置いてしまった。見る見るうちに、四十万円ほどの借金をし、とうとう首が回らなくなってしまった。
日雇いの仕事を少し増やして、増やした分を借金に充てるが、四十万という数字はびくともしなかった。季節はもう冬で、俺は何とかして暮らすに過ぎない毎日を送っている。冬に入ってからはポケットの中の小銭で買う温かい缶コーヒーが、ささやかな楽しみで、それ以外は弾に出る職場の弁当と、あまりに腹が減って仕方のないときは百五円で買えるカップラーメンを買いだめしておいたのを食べて過ごしていた。麺を食べ終えると、少し味の濃いスープをお湯でうめて、湯気の立つそれをちびちびと飲み、寒さをしのいだ。
首都圏では今年も年内には雪が降らないらしい。ざまあみろ、と道行くカップルに悪態をついてみることもあるが、考えてみれば、物心ついてこのかた、年内に雪が降ったことなど一度もないではないかと気づくと、妙に腐った気持ちになって、ため息ばかりでるのだった。そんな中、かあさんからメールが届いた。とうとう離婚届を出し、一区切りついたらしい。妹の大学に行くための学費は何とか親父に出してもらうことになったらしく、かあさんのメールが届いてしばらくもしないうちに、沙智子も、安心したという内容のメールを送ってよこした。沙智子は病弱で、自分の病気のことを知ろうと医大を受験していたのだが、六年間分出してもらえるのかと思うと、すこしずるい気もする。俺は、今日の分の缶コーヒーの、そこに残ったわずかな一滴を飲み干すと、ハローワークの自動ドアへと俺は吸い込まれていった。正月が過ぎるまでに、などと考えていた。正月が過ぎる前までに、なんとか、安定した収入で、どうにか、なんて曖昧なことばかりを考えていて、結局、動かねば何にもならないという結論に達したのだ。
歳も盛りを過ぎた感じの、女性の案内員は俺を一瞥すると、すぐに手元のパソコンの画面に視線を落とした。見たくもないってかと、悪態をつきたい気持ちにもなるが、あたりを見回すとこの案内員の気持ちもわからないではなかった。ハローワークの中は暖かく、それでいて少しムッとするような、汗の乾いたような臭いがした。男も、それも、どうも野暮ったい奴らばかりだ。ずいぶん若いな、と思うくらいのやつもいれば、もう仕事なんてないだろう、と思ってしまうようなやつもいる。大半はジャージのズボンを履いていて、およそ外に出るような恰好ではなかった。そして全てが、辛気臭い顔をしていた。案内員は、要するに見慣れていたのだ。俺みたいなやつを。
そそくさと、仕事を検索するようにおいてあるパソコンの前に座ると、質素な検索画面に「おすすめ」とリンクが貼られているのを見つけた。へえ、行政でもおすすめなんてものを使うようになったのだな、と斜に構えて、それでも何でもいいから仕事が欲しい俺は勧められるままにそのリンクをクリックしたのだ。
俺はいぶかしげにその求人を眺めていたが、この生活を抜け出すチャンスと思えば怪しさなどどうということもなかった。住み込み、食事つき、残業なしで、時給千円。手早くレシートの裏に電話番号をメモして、ハローワークを出る。新聞配達とはいえ、今の俺には手堅い仕事に思えていた。
高校のころに取っていたバイクの免許が、こんなところで役に立つとは思っていなかった。灰卓の手段は二つ用意されていた。自転車とバイク。車体に対して前カゴが異様にでかい、出目金のような自転車と、低速ばかりとはいえ天下のホンダのスーパーカブとで選ぶのだったら、確実に後者だろう。スーパーという言葉が、実質以上にスーパーという言葉が頼もしく思えてくる。トラックの排気音がまだ麻ひもでない街に響く。俺らはそれを耳ざとく聞きつけて、今日という日が始まる。時計は二時半。ボロのプレハブ小屋の中に作られた部屋から、眠い眼をこすりながら階段を下りていく。階段を下りる踊り場には洗剤やトイレットペーパーなどの景品が置かれている。これらはいってしまえば配達員が自分で買って、新しいお客様の開拓に使うもので、会社が支給してくれるなんて甘いものじゃない。できる限り、景品を使わないように、契約の切れそうなお宅へ押しかけるのが上手いやり口だろう。そのままずんずん階段を下りていき、一階の酷く寂びれた事務所に出る。寂びれたとはいえ、この時間にはその日配達を割り当てられているすべての配達員が下りてくるのだから、じきに忙しなくなる。俺が下りたときには地区長と、新聞の運搬業者だけがいた。しばらくすると降りてきたのは、吉岡さんという五十過ぎのおじさんで、今日もニコニコ早起きが生きがいですといった顔を、俺に向けてくるのだった。俺はこの顔が苦手だった。毎朝三時になる前に起こされ、草木も眠るという中、なぜ自分は起きていなければならないのか、という、怒りにも似た苛立ちを覚えているこの出勤時間に、そんな笑顔を向けられたら、こちらの立つ瀬というものがなくなる。苛立って申し訳ありませんでした、とばかりに小声で「おはようございます」というと、吉岡さんは、
「おはよう。元気がないなぁ」
と、近所迷惑になるかというほどの大声を出して、俺の背中をたたくのだった。その声を号令にして、徐々に人が集まってくる。十分もすればほとんど全員が事務所内に集まっていた。降りてこないのは二人、俺の向かいのプレハブに住む佐々木さんと、もう一人は拡張員上がりの宮内さんだけだった。いつも通りの事態に、全員で顔を見合わせてため息をつくと、各々紙入れに取り掛かる。紙入れとは、新聞に公告を挟む作業の事だ。早いときは三十分ほどで終わる。大体半分を過ぎたあたりで佐々木さんが下りてくる。佐々木さんは、ともすれば浮浪者になってしまうのではないかというほどのひげを蓄えていて、人柄は優しいのだがとっつきにくい印象があった。宮内さんは、俺がこの仕事についてから紙入れの間に姿を見たことがない。それに対する愚痴はあるものの、宮内さんの風貌がその愚痴を押し黙らせていた。金髪のベリーショートに大きなピアス、袖の隙間からは彫り物が見えるという噂もある。拡張員」にはそんな人ばかりいるらしい。一度、気になって、拡張員とは何かを吉岡さんに聞いたことがある。
「拡張員っていうのは、新聞拡張団に所属している人の事なんだけど、世間一般にはあまり知られてないなぁ。新聞を売る契約を取ることを専門にしている人たちなんだよ。宮内さんは、この地域のうちの新聞を拡張するためにお呼ばれしているらしいんだよね」
なるほど、それで紙入れに来ないのか、と、妙に合点の言ったものだった。
紙入れが終わると、時間はそろそろ三時半をすぎる。バイクに自分の担当地域分の新聞を載せて、大体二時間ほどかけて新聞を配って回る。朝日が顔を出したころに、一息ついて、二度寝を始めるのだ。そして昼の二時に起こされ、今度は夕刊の準備をする。楽ではなかったし、楽しくもない一日が明日も、そのまた明日も、繰り返されていく。
一か月経って、ようやく配達にも慣れてきた頃に、初めての給料が手渡された。毎日六時間、無心に働いた結果が、茶封筒の中に入って手渡された。当然、プレハブの値段は天引きされているだろうが、それでも手に持った瞬間、少し重みがあるのが分かった。千円札が八枚、一万円札は十二枚あとは小銭が八百円ほど入っていた。初めて手にした一か月分の給料だ。その数字の多さに、夢が膨らんだ。これなら、借金もすぐに返すことができる。その封筒は上着のポケットに突っ込み、借金を返しにいくよりも前にと、かあさんに電話をかけた。夕刊さえ配達してしまえば、今日はもう何もない。少しくらい顔を見せられるのではないか。
「帰ってくるといいよ。何か食べたいものでもあれば作っておくよ。あんまり高いものはダメだけどね」
と聞こえる声が、ずいぶんと懐かしかった。もう半年ほども会っていないのだ。特別に食べたいものはなかったが、鶏肉と茄子を味噌で炒めたものをふと舌の上で思い出し、それをリクエストする。名残惜しいが「じゃあ、今日、また」と、電話を切った。時間は二時半。意気込んで夕刊の紙入れをし、バイクに乗せて店を出た。風が心地いい気がする。いつも通りの大きな通りに出て、線路を越える陸橋を渡り終えると、目の前を大きな黒い影が横切って、それから俺は、意識がなくなった。
トラックに轢かれたにしては、まだよかった方だと、医者が言った。目が覚めると、俺はベッドに横たわっていて、足が鈍く痛むので唸り声を出した。すぐにナースコールを押して、看護婦を呼ぶと、一緒に医者がついてきて、今回のあらましについて、とうとうと語ってくれたのだ。
正直俺はそんなことはどうでもよかった。足をしきりに攻め続ける痛みを何とかしてもらう方がまず第一であったし、それが済んだとしても次に気になるのはバイクの事だ。あのスーパーカブは会社のもので、それが壊れたら、修理は自分自身でしなければならない。それがもし加害者に請求できたとしても、この入院費まで請求できるだろうか。借金に追い打ちをかけるようにして、金がかかる。医者が言うには、
「陸橋を上るところで雪が凍結していて、それでトラックがスリップしたんだろう。死んでもおかしくないような事故だったんだ。それが骨折だけで済んだ。君は命があるんだ。命があれば今後もなんとかなる」
だそうだ。そんなジョークをお医者様にしてもらうとは、俺もいいご身分になったものだ。できることなら、今すぐ折れた足を引きずって、仕事に出たいくらいだった。全治二か月。悔しくてたまらない。横目に見たサイドテーブルに置いてあった茶封筒が、ボロボロになっていたのが、一層、悔しくて、涙が出た。
医者が部屋から去ると、すぐにコンコン、とノックの音がした。声を出すのさえ煩わしかったが、無視するわけにもいかず「どうぞ」と返事をすると、引き戸を開けて入ってきたのは親父だった。それが、うれしくないはずがなかった。いかに見捨てられるような状況になっていても、事故をすれば見舞いに来てくれる親類がいるのはありがたいことだ。
「どうしたの」
「いや、ちょっとな、元気かなぁと思って」
元気であるはずがなかった。何せこっちは事故にあいこっせつしている身だ。しかし、そういうところに気が使えないのが、この親父だった。離婚を迫られたのも、そういった、気の遣えなさに原因があったといってもいいだろう。親父は女々しく続けた。
「あの、災難だったな。仕事、始めたばっかだったんだろう」
「……まあ、ね」
「気持ちはわかるけど、仕方ないと思ってな、次に挑戦するんだな」
わかられてたまるかと、喉まで出かかって止めた。仕方なくも、ない。俺の何が悪くてこんなことになってるんだと、それさえも押しとどめた。
「……まだやめたわけじゃないし、仕事」
「あ、それ、なんだがな。店長という人から電話があってだ。……もう一度、最初からやり直さないか、ほかの仕事で」
「なに、それ。辞めろってこと」
「だって、あんな仕事だろう。あぶないし、あんなどうしようもない人間がやるような仕事わざわざ選ぶ必要ないじゃないか。沙智子だって」
言葉を遮るように、思わず殴ろうとして、足が痛んで声にならない声で叫んだ。こっちにだって我慢の限界があるぞ。誰のせいでこんなに落ちぶれたんだ。うめき声をあげながら、言葉にならない言葉で悪態をつきまくった。死ね、くず、どうしようもない親父め、消えてなくなれ、早く。喚いているうちに看護婦が飛んできて、俺の肩を押さえつけ「落ち着いて、落ち着いて」を念仏のように繰り返し唱えていた。親父が逃げ去った後、俺の目はどうしてもボロボロの茶封筒に行ってしまって、どうしようもなく自信を失うばかりだった。
じっとしているだけの生活は、想像以上に辛かった。治療費もカブの修理費も、加害者であるトラックの運転手が出すことになってくれたときは、飛び上るほどうれしかったが、まるまる二か月分の仕事ができないということを考えると、どうも気が滅入ってくる。加えて、トラックの運転手が自分とそう変わらない歳であるという話を聞くと、なんだか申し訳ない気持ちにさえなってくるのだった。
雪はもう溶けて、気温も春間近という様子なのに、俺はまだ冬眠から覚めることのできない爬虫類か何かになっているようで、日に日につくため息の数も増えていくばかりだ。
ある日、退院も迫ってくるころに、高校のころの友人である多田からメールが届いた。来年から社会人で、懐かしい顔集めて何かやりたいからという、結局は飲み会の誘いのメールだった。俺は、即座に断りのメールを書いて、送信ボタンを押そうとして思いとどまった。確かに大勢に今の体たらくを見せるのは恥ずかしい。恥ずかしさで死ねるくらいだ。しかし、多田と少し話すくらいだったら、話すだけなら話してみたい気持ちもある。
多田は夢想家だった。自分のやりたいことは常に決まっていて、それは大抵、夢見がちな話だった。だからこそ気になる、奴はどうなったのか。現状をなるべく丁寧に、恥ずかしい所は冗談で隠しつつだからみんなには会えないが少しお前とは話したい気もする、などとメールを書き多田に返事を返した。ものの数分で多田からメールは返ってきた。なら退院祝いで奢ってやろう、とのことだった。
何事もなく現場に復帰できたのは、ひとえに宮内さんのおかげだった。新しいバイトを雇うくらいなら、今のやつを使った方が得だと、宮内さんは地区長に進言し、俺の担当区域を受け持って配達をしてくれていたというのだ。当然プレハブはそのままで、少し時間がたったせいかすこしかび臭かったが、俺が配達に出かけたその瞬間のままで時を止めていた。日中に配達先をぐるっと一回りし、経路を思い出す。途中、撥ねられた場所を通りかかると、地面のところどころに赤茶色の跡が残っていて、自分のことながら、結構な事故だったんだなあ、と他人事のように感じてしまった。
一通り回り終えて、店へ帰ると、珍しく宮内さんが起きていて、「今度は事故らないように」と念を入れるかのように交通お守りを渡してくれた。意外と人付き合いが苦手なだけかもしれない。
復帰してすぐに飲みに行くのは気が引けたので、多田と会うのは例の、俺が行かない飲み会、の後にすることになった。俺の給料日の後だ、交通費くらいは出せるだろう。親父はその後、一人でそこそこ達者にくらしているらしい。俺の遺伝子の元なのだから、そこそこ、というのはほんとうにそこそこ、なのだろう。できればせせこましく、長生きしてもらいたいものである。そして、今日こそ電話をかけて、顔を見に行かねばならない。かあさんのところだ。
「うん、今日は事故、気を付けるから。うん、お守りももらったし、大丈夫だよ」
「なら、こんどこそ、あなたは帰ってらっしゃいね」
かあさんは、事故のことは何も言わなかった。ただ、強く、帰って来いといい、それ以外は何でもいいといった。入院して、お見舞いに来なかったのはなぜか、聞きたいところだったが、どうしても忙しかったのだろうと、聞かないことにした。それに、嫌な予感が重いったったから、余計に聞けなかった。
仕事に復帰できたことによって借金返済のめどは立った。楽しくもない一日が明日も、そのまた明日も、繰り返されていくのだろう。けれども、生きていただけなんとかなりそうじゃないか。
今年の春は妹の墓に花を供えに行くことを決めた。