萩での決心
カンナらは、ようやっと長州萩にはいった。
この日は天気が悪く、雨がしとしとと降り続いていたため、桂の気は晴れないでいた。しかし、それに反してカンナはにこにことして桂の前を歩く。
「雨だというのに、はしゃいでいるな。」
おかげで、カンナが地を踏むたびに桂の袴に泥がとぶ。
「だって、この地は初めてだもの。それに、...もっと色んなものを見れば良かったって、後悔したから。」
「後悔するには、まだ早いだろう。いや、もう22歳だったか。」
桂がそう言ったきり、カンナはだんまりとして口を開こうとはせず、ただ自分の少し膨らんだ合わせの部分を優しく労るようにさするばかりであった。それを桂は横目に垣間見るだけで、声をかけることすらままならない。桂は、大切なものが目の前で息絶えるのを身に染みるほど経験したが、十分な弔いすらしてやれず、ただ自分の命を惜しんで逃げるしかできないことがどれほど情けなく非情なことか、よくわかっていた。桂を育て、支えてくれた恩を仇で返していることも。しかし、それでも逃げ続け好機を待つしか桂の選択はあり得なかった。既に散ってしまった仲間たちが時代の流れを変えたならば、自分はその流れの中で好機を待ち、ことを成すほかない。
「桂、会いたい人って誰?」
「桂さんと呼べ。女子はそのような男の呼び方はせん。女子らしくしていろ。」
カンナは無意識に、母もそうであった、と思った。本当に幼いころの記憶がぼんやりと蘇ってきた。
仕事をして帰ってきた父に、母は柔らかく敬語で話していた。
「これから、同志たちに会いにいく。...といっても、もう既にこの世にはいない者も多いが。」
桂の遠い目には何が映っていたのか。その者たちの死に様か、或いは生き様か。それとも、そのどちらでもないのか。
「戦に向かない。あんたは優しすぎる。」
「そうじゃない。覚悟が、できていないのだ。だから皆に会いに来た。覚悟して果てていった者たちの、その志を私は引き継がねばならない。国を守ることを考えれば愛する者のことなど、ちっぽけなことだとわかっている。だからこそ会って気を引き締め直さねばならぬ。」
口早に、引っ掛かりもなく話す桂は、決してカンナの顔を見てはいなかった。カンナは、桂は生き残れると言えたらどんなに楽だろうかと思うのだが、確信はなく、また勇気もない。
桂のその顔を見ていると、カンナはとたんに自分の過ちに気づき、息をのんだ。
ー...あたしは、この渦に、呑まれてはならなかった ー
この時代の人たちと同じように生きてはならなかった。争いに、干渉してはならなかった。
なんてことを、したんだろう。 新選組のために人を斬った。新選組の未来のために庄吉にピストルを与え、鍛えた。新選組のために150もの銃を買った。 そのすべてが、玄瑞や桂の同志の死に繋がっていく。
どちらの敵でもなく、味方でもない中立の立場に立つべきであったのだ。
ただ、国の幸せを目指し、自分が正しいと思うことをする。この時代の人々でない現代人の考え方で、動くべきだった。
カンナは、それが自分の役目なのだと突然悟った。
「桂、ごめん。...あたし...、行かなきゃ...」
家茂公は死んだ。竜馬も死んだ。大政奉還が成り慶喜は将軍職を辞した。
遅かった。もう、どうにもならないかもしれない。けれどきっと、やり直しもきかない。
「どこへ行く!?君はトーマス・グラバーに会わなければならない、そうだろう?」
桂はカンナの腕を力強く掴んで離さない。
「坂本の言うことだ。大切なことなのだろうっ!」
「それは関係なかった!!...ただ、間違った...。」
桂はカンナが地に堕ちたような目をして言うことに眉をひそめ、首をかしげる。
桂はいつもカンナに普通の人とは違ったものを感じていたが、この時ほどではなかった。
「君は、どこにいる。」
一瞬互いの目が合うが、カンナの瞳は揺れ焦点が合わない。
桂は、昔堕ちていってしまった仲間の目を思い出す。 ひとを斬り殺すことに耐えられず、精神が崩壊してしまった者達の目も同じであった。 ひどく揺れ焦点が合わず、周囲のもの、いや、血にまみれた世界を見まいと体が拒絶しているようになっていた。 その目に、似ている。
「君も...か。...いや、君はおなごであったな。当たり前か。」
桂は諦めたかのようにカンナの腕を掴んでいた手を緩め、力なくおろした。
「すまなかった...。君なら、敵であろうが最後まで共に国のため戦えると、思ったが...。」
桂はカンナから目をそらしていたが、カンナの目は見開き、真っ直ぐと桂を見ていた。 もう既に、揺れてなどいなかった。かんなの目に映っていたのは、仲間を失ったという孤独と、この先で待っている激しい戦への不安、恐怖だった。
「わかった。桂、一緒に戦おう。あたしが共に行く。」
「...っ敢菜?」
ようやく二人の目が合う。今度は桂の目が驚きで揺れていた。
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ようやく落ち着き、ふたりは偉人たちの墓を目前にして坂を上る。
「新選組はいいのか。 簡単に裏切るのは感心せんが。」
「戦場に行けば会えるから。実質もう幕府はないわけだし、彼らが戦ってもどうにもならない。だったら、あたしが薩長の人たちと仲良くなって、行き過ぎる戦いを止めてもらうしかない。そうでしょ?」
そう言うと、桂は笑う。困ったように。しかし、先ほどのようなかげはない。
「簡単に言ったな。...だが、それも良い。君ならできそうな気がしてくる。 平和的に解決することは、こんな乱世の中では難しいことだが、皆が望むことだ。 君は良い夢を見させてくれる。」
「夢にしないでほしい。実現させるんだから。」
カンナは、本気でそう思えた自分に、ほっとした。真っ直ぐに進む自分でありたいと願った。