油小路の変 ~別れ~
カンナ達は、月の下で息を潜める。
カンナの目線の先には、先程までご機嫌そうに歩いていた伊東の倒れる姿。
あらゆる所から血を流し、月明かりはそれを微かに照らす。
その臭いをかぎつけて、御陵衛士達はやってくるだろう。
そこを、まとめて粛清するのだ。
隊士達の空気は重い。
しかし、その空気を忘れさせるかのように数人の足音がきこえる。
急ぐようにパタパタと音を立てている。
冷静であったなら、周りの状況を確認せずに駆けてくることはないだろう。
しかし、彼らにはもうそんな余裕などなかった。
「伊東先生!」
彼らは悲痛に呼びかけるが、伊東の応答はなく、
その牙は新選組へと向けられる。
その新選組が近くに潜んでいることに気付かぬままに新選組を非難する声をあげる。
それを合図に新選組隊士約40名ほどが一斉に飛び出し、周りを取り囲んだ。
たったの7名に、である。
その中には藤堂の姿もあり、その瞳は敵となったかつての仲間に怯えきっていた。
その他6名は刀を抜くが、藤堂だけはそれをせず立ち尽くしている。
藤堂は出来なかったのだ。かつての仲間を斬ることなど。
まして、藤堂は新選組を出たことを後悔していたのだから。
自分の本当の魂は、御陵衛士ではなく新選組にあったのだと藤堂はやっと気付く。
藤堂の揺れる瞳を見て、永倉は心を決めた。
刀がぶつかり合う音が聞こえた瞬間、永倉は藤堂に叫ぶ。
「行け!!!」
藤堂は永倉の優しさに突き動かされるように必死に駆けた。
しかし、藤堂の目尻には汗とも涙とも言えないものが溜まっていた。
新選組隊士たちの輪の中を抜けたと思えば、藤堂の背中に絶えず当たっていたはずの月明かりは絶え、
鈍い刀の光だけが目に入った。
藤堂が振り返ろうとした瞬間、藤堂の背中には美しい一文字が刻まれた。
自然と落ちていく体。 藤堂は薄れていく意識の中、優しく気高い鬼の瞳を見た。
しかし、その瞳は悲しみを帯び、一筋涙を流していたのである。
藤堂は最後に声を絞り出す。
「...ありがとう。......一君...」
藤堂の体はどさりと地に崩れる。
「平助ーーーーっ!!! ...っ」
永倉の絶望の声が空気を震えさせる。
涙すらぬぐうこともしない斉藤は、これで良かったのかと自身に問いかけるが、答えは返ってこない。
カンナは一人を切り伏せた後、血に濡れた斉藤の刀を見て、唇をかんだ。
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御陵衛士7人中4人が地に伏し、残りは取り逃がした。
二刀流の使い手であった服部に手こずり、手が回らなかったのだ。
しかし、その服部も原田の一突きであっけなく息絶えた。
斉藤は未だ藤堂の亡骸を見つめている。
永倉は、冷たくなり始めている藤堂を抱き起こし揺すって声を掛けている。
そんな光景をカンナは自分とは遠い事実として傍観していた。
そのカンナの頭に優しく一瞬触れた大きな手は気付けばきつく握りしめられていて、
その人は冷たくハッキリとした声で静かに屯所への帰還を命じたのだった。
カンナは、心の中で涙を流しながらも鬼の顔をぴくりとも動かさない副長に心が揺れ、不安に駆られた。
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カンナは屯所に戻った後、血塗れのまま土方の部屋である副長室を訪れた。
「失礼しますよっと。」
応答はなく、土方の背中は小さく見える。
鼻につく血の臭いが気になったのか土方はカンナを見上げた。
「ひでぇな。」
「すまん。床を汚したかも。」
カンナにとって、返り血を浴びるのも慣れたことだった。
相変わらず、気持ちの良い物ではないが。
「お前はすぐに血を浴びる。 浴びないように斉藤か原田に教われ。
あいつらには、ほとんどの暗殺を任せちまってる。 情けねぇ。」
「うん。」
「平助を死なせちまったのも...俺の失態だ。
それどころか、あの日にお前を守ると決めたくせに、逆に守られやがって...」
「うん。」
「...敢菜。 一度、...ここを離れちゃくれねぇか。」
「え...」
「頼む。」
「... ... 嫌だ。」
土方の縋るような目をカンナは見ることが出来なかった。 認めたくはない。
京の街が燃えた日、新選組に来てからここを出ようなどと思ったことは一度もなかった。
人が苦しみ死んでいくのは見たくなかったが、それ以上に仲間がいて、自分の居場所がいつの間にか
出来上がっていたことが嬉しかった。
カンナは、ここを去れば、居場所を2回失うことになる。
一つ目はかつと通武がいた『藤』という茶屋。
二つ目は新選組という仲間の中。
「本日付で、土方カンナの離隊を命じる。 副長命令だ。」
「...了解。」
「夜が明けたら、出て行くよ。」
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カンナは男隊士達が風呂を出たのを確認してこっそり風呂に入り、血を洗い流し湯船につかっていた。
すると、脱衣所に誰かが入ってくるのがわかった。
「敢菜か?」
「あぁ。ッ信太郎か。」
風呂の戸は開けないまま板一枚を挟んで風呂のそとに林信太郎が居る。
三番組の伍長である。
「慌てずとも大丈夫だ。 知っている。
ここを開けはしない。」
「っなんで...」
信太郎は柔らかく笑う。
「わかるさ。 確かに剣の腕は並じゃないが線は細いしな。
それに、見たことがあった。 ここらでは珍しい異人の着物姿。
確か、もうなくなってしまった『藤』という茶屋でだったな。
女物の着物を着て、幸せそうに笑って美味い飯を出すのさ。
気付けば俺はそこの常連で、いつも行くたび異人のおなごを見ていた。 お前だろう。」
「だが、そんなにあの頃のお前を見ていても、ここに来た最初の頃は気付かなかった。
何故かって、それはお前の顔に幸せがなかったからだ。同じ人とは思えなかった。
気付き始めたのは、お前が初めて沖田組長と試合をした日ぐらいからだ。
だんだん笑顔が増えて、ーあぁ、やっぱりーって。
特に、斉藤組長や土方副長と話し笑うお前は嬉しそうで楽しそうだった。
けれど、最近はそんな顔も全く見せない。」
「実は先程副長に呼ばれてな。
お前が離隊すると聞いてきた。近々斉藤組長が戻るからそれまで頼むってさ。
あと、副長から伝言を頼まれた。
夜明け、ここを出たら池田屋近くの呉服屋へ行けって。
あの人も心配性だ。 離隊を命じたのもお前のためさ。ここ最近は戦の匂いがするから。」
「わかってる。」
カンナの声は震えていた。
林が去ったのを確認してから風呂を出て自室に戻った。
・・・・・
カンナは少ない荷物をまとめ始めた。
新選組に戻ってこないつもりは無かったが、先を見越しての事だ。
カンナは常に懐に入れてあるあの句集を取りだして優しく表紙を撫でる。
あの冬の日だまりのような優しい笑顔が目に焼き付いていて、
未だその人を過去には出来ていない自分にカンナは気付いた。
・・・
夜明け
カンナは屯所の稽古場に足を運んで、こっそりとまだ新しいながらも傷の付いた柱を見た。
恐らく、隊士達の稽古への熱がそうさせたのだろう。 それは、暑苦しい男達のかけ声が証明している。
カンナは、誰にも挨拶をせずに門まで来ていた。
「もう、か。」
カンナは思ったよりも屯所が小さかったことにため息を漏らす。
今から出て行く世界に比べればここはその世界の一部でちっぽけだ。
「カンナ。 今までの給金だ。」
門に寄りかかってカンナを待ち伏せしていた土方。
門番の平隊士二人は土方の存在にビクビクとしている。
「呉服だけで充分さ。 このお高い刀だって。」
カンナはヘラヘラと眉を下げて言う。
「お前の重病を治すにゃ、金がいるだろ。 もってけ。」
門番に離隊理由を示すようにわざと聞こえるように言う土方。
本当に稀な例外であると。
「へいへい。 ま、そのうち戻ってくるよ。
あんたら新選組が困ってる時頃に。きっと。」
カンナは重い金を懐にしまって、着物の上から大事そうに触れた。
「いや。お前と再会するのは来世になるだろうよ。」
土方は暗に土方歳三でなくなったらと言った。
新選組の土方歳三はきっと一生恨まれ追われる身に違いない。
「心配性か。トシのほうが厄介な病抱えてるよ。
じゃ、近藤局長とその他に宜しく言っといて。 ほんなら、来世で。」
カンナは土方に背を向けて門を出た。
背中に土方の視線と、門番の同情の念を感じた。
「あ、トシ。 俺は何処にいても新選組だぞ。心に刻んどけ。」
カンナは万一の事を考えて土方にその言葉を残した。
離隊は嫌だ嫌だと言っていたカンナの心は既に晴れ晴れとしていて、
後ろ髪引かれるなんてことはひょっとしてもなかった。
遠ざかっているだろう土方の視線は角を曲がるとなくなっていた。
「呉服屋なんてごめんだね。 女物の着物に決まってる。」
カンナは呉服屋を避けて花町へと向かう。
カンナの旅のはじまりである。