傘
ある宿屋の店先で、斉藤はため息を吐いた。
それというのも、御陵衛士の屯所である高台寺月真院を出るときには予想もしていなかった
大雨が斉藤の刀の柄を濡らしたからだ。
「旦那はん、こんな大雨や。
これでも使ってやって下せぇ。」
「あぁ。使わせて貰う。」
斉藤は、質の良い傘を開いて足下を濡らしながら歩き出した。
宿屋には伊東が薩摩藩の者と残って話している。
伊東は警戒しているのかなかなか供をつけない。
もともと用心深い男だ。
だが、伊東は繊細でもあった。
以前、斉藤が伊東と酒を飲んでいたとき、伊東はため息を吐いて漏らした。
ー・・・犠牲が必要と分かっていても、納得できない自分がいるのです。
もうずっと前に、自分のあり方を決心したというのに。ー
斉藤はその時初めて伊東の心の内を知った。
しかし、斉藤にはどうしても新選組を守ることにしか重きを置けなかった。
斉藤にとって守りたいものが新選組にはあった。
それは、近藤・土方への忠義と、カンナへの想いだった。
人通りのない道を歩いていたところ、雨の向こうに見慣れた影を見つけた。
「平助か。」
「もう、なんだよ。
お前が出るとき傘持っていってなかったから迎えにきてやったのに、とんだ無駄足だったじゃねぇか。」
「誰も迎えに来いなどとは言っていない。
それなのに何故俺が憎まれる対象にならなければならん。」
もっともな斉藤の物言いに、藤堂はむくれて目を逸らした。
「・・・んじゃ、俺、つかい頼まれてるからさ。
また後でな。」
藤堂は、それだけを言って、有り余った体力を使うように雨の中を、颯爽と走り去っていった。
その後ろ姿を見て、嵐が去ったとため息を吐く。
藤堂も明るくは振る舞ってはいるが、人一倍悩み苦しんでいる。
話を聞く限り、藤堂は新選組から去ったことを後悔しているようにも思えた。
斉藤も、御陵衛士に混ざって毎日を過ごすことに苦痛を感じていた。
新選組結成当初から仲間として共にいる者達に自分の偽った姿を見せるということが苦痛だった。
斉藤は今までそんな苦痛を知らなかった。
どんなに仲間の処刑を受けても、自分を偽っても、苦痛を感じたことはなかった。
斉藤はそんな自分にどこか違和感を感じていた。
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刀を雨で濡らさないように歩いている斉藤の背は雨で濡れていた。
斉藤は、羽織でも着てくれば良かったと後悔する。
ふと、目の前を覆っていた傘を持ち上げて雨模様の空を見上げると、
よりいっそう雨は強く傘を打ち付けてくる。
斉藤は眉間に皺を寄せ、道のりの長さを確かめようと先に目を向ける。
ところが、行く先を阻む山のように架かっている橋が、それを邪魔する。
小さく舌打ちをする斉藤の目に入ったのは、細く小柄な男だった。
警戒して進んでいくと、見覚えのある美しい金髪が見えた。
(敢菜か?)
斉藤は、こんなにも細く小柄だったろうかと目を疑った。
その者を目の前にして、確信した。
同時に、悔しさがこみ上げてくる。
斉藤は、時間の流れが止まった感覚に陥って、息をすることもできなかった。
カンナが掌を強く握りしめたと思えば、斉藤の時は流れ始めた。
斉藤は再び歩き出す。
雨が傘を打つ音を聞きながら傘を閉じた。
そして、音を立ててカンナの隣りに立てかけた。
カンナはうつろな目で後ろの気配を振り返った。
カンナは無意識に斉藤の袖を掴もうとする。
しかし、斉藤はそれを許さず、目も合わせることなくカンナに背を向けた。
斉藤は、カンナの視線を背中に感じ、苦痛に耐えた。
傘の守りが無くなり、濡れ始めた刀を斉藤は気になどしない。 いや、できなかったのだ。
冷たい雨が身体を打っている。
痛いほどに打ってくる雨は、斉藤にとって救いの雨だった。
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カンナは振り払われた手をジッと見つめる。
指先は冷たくかじかんでいたが、一瞬でも斉藤に触れた人差し指だけはジンジンと痛みを持っていた。
カンナは、橋に立てかけてある傘を腕に抱いて、歩き出す。
持ち手を掴めば、ほんの微かにぬくもりは残っていて、カンナはそれに頬を寄せた。
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カンナは、傘をささずに屯所へ戻ってきた。
屯所入り口でたたずむ姿を見つけて、ようやくカンナは声をしぼりだす。
「総司?」
「やっと戻ってきた。
三番組の林君に聞いたら、敢菜は途中で別れたって言うし。
最近は、一段と治安が悪いって言うのに。」
普段は見せない顔を見せる総司。
カンナはそれに戸惑った。
「ごめん。」
「やだなぁ。
君があやまるなんてさ。
ただ僕は君に怪我をされたり、風邪でもひかれたら困るってだけ。
君がいなかったら、誰が3番組をまとめるの?
誰が、あの鬼副長の愚痴をきいてやるのさ。それと、僕の相手は?」
カンナは頭から水を滴らせながら、眉をさげた。
「・・・ふっ・・・全部、俺の仕事だ。」
「そ。わかったら、早く着替えて暖かくすること。
まったく。 傘を持ってるのにささないなんてどうかしてるよ。」
「雨にあたりたい気分だったんだ。」
カンナの表情は微かに緩む。
「なんなの?それ。
理解できないなぁ・・・。」
「出来なくて良い。」
カンナは、総司に微笑みかけながら、屯所に入っていった。
あの傘を両腕に抱いて。