黄昏
坂本に出会ってから3日後の夕方、カンナは一人で島原を訪れていた。
カンナは、幾松のところに行くことにしている。
坂本にもそう言いつけてあるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「幾松さん、坂本は来てるかい?」
「さき、きてはったんどすけど、なんやら、恐い顔してはって。
カンナはんによろしくと言って走っていってしまはりましたんや。
無事やええけんど・・・。」
幾松は、焦っていた。
いつも冷静でいる幾松がこんなにも焦っているのは珍しい。
とっさに、危ないと思った。 何者かが坂本を狙っている。
「ちょっと、探してみるよ! ありがと、幾松さん!」
カンナは走った。
一度しか会ったことのない者の身を案じて。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
微かな人の気配を追って、カンナは走った。
未だに慣れない草履は脱いだ。 そうしなければ、速度が落ちる。
次第に、ぴんと張りつめた空気がカンナの肌を刺激した。
「おまん、何やっちゅう!
人を何十、何百と斬りおうて、楽しいはずがなか!」
カンナが見たのは、酷く歯を食いしばって瞳を揺らしている坂本と、
瞳の奥に狂気を宿した獣のような長身の男だった。
「楽しいさぁ。奴等の上げる悲鳴が叫び声が、この俺を高ぶらせる。
鼻につく血の香りも、俺の肌を染める紅い血も、俺を興奮させていけねぇ。」
・・・狂っている。
カンナは無意識にこのふたりの前に姿を現していた。
「ははっ・・・。悲しい奴。
この世の流れに乗れず、一人で彷徨ってやがる。」
「あ?なんだと?」
獣の様な男は、カンナに鋭い眼光を浴びせた。
しかし、カンナは息ひとつ荒げることはなかった。
「人斬りでも俺を知らない奴がいたのか。
しょうがねぇ。教えてやる。
金髪異人の新選組隊士、敢菜とは俺だ。」
カンナはわざと戦いを誘った。
坂本から目を外させるためだ。
「なに?・・・っは。そうか。探す手間がはぶけたな。
どうやら、敢菜ってやつが邪魔らしくてな。消せって言われたばかりなのさ。」
「そっち側の人間か。
もしかして、人斬り以蔵かい?」
”人斬り以蔵” 本名は岡田以蔵。 坂本と同様土佐の出で、昔は、坂本の親友だったとか。
未来で、本で読んだ。
「はっ・・・鋭い奴だ。
厄介だな。 土方以外に頭の切れる奴がいるたぁ・・・。
・・・痛くねぇように斬ってやんよ。 その方が、楽だろ?」
「そうはいかねぇな。
俺は、まだ龍馬と酒を飲んでねぇし、人の恩も返せてねぇんだ。」
手を差しのべてくれたトシ、俺の幸せだけを願ってくれた通武とかつさん。
俺に自分の背を預けてくれた一ちゃん、それから、俺を認めてくれた新選組の奴等。
あんたら全員に恩を返せるときは一生来るかもわからねぇ。
「恩? そんなのは存在すらしねぇさ。
俺は、一人で生きてきた。上司がいて部下がいようが、そんなのは上辺だけだ。
本当の俺は、いつもひとりさ。」
こいつは、前の俺と同じだ。
一人で、助けを求めて、誰かを待とうが、誰も来てはくれなかった。
「”誰そ彼と われをな問いそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ”
この詩を知ってるか? 今のあんたにぴったりな詩だ。
”ーあの人は誰ですかーと私のことを問わないでください。
九月の露に濡れながらも愛しい人を待ち続ける私のことを”
・・・なんて、ピッタリだろ。 人の顔も見えづらい暗闇の中、あんたは静かに誰かの助けを待ってる。」
岡田は、瞳の奥の狂気は消えかかっていた。
その代わりに、岡田が狂気でずっと隠してきた冷たい蒼い炎がカンナの目には見えた。
岡田は、刀を抜いて、カンナに向かってきていた。
カンナは、刀の刃が肩に触れる前に、素早く刀を鞘から抜いて手首を返し、岡田の刀身にすべらした。
すると、岡田の刀はみるみると軌道を変えて、カンナの髪結い紐をかすった。
カンナの美しい金の髪は、みぞれが降ったかのような音を立てて腰までおりた。
金の髪は屋根と屋根の間から漏れる沈みかけた陽の光を反射し、うすい橙色に輝いている。
岡田は、尻から地につき、憎らしくカンナを見上げる。
しかし、岡田の顔は一瞬にして崩れた。
何を思ったのだろうか。岡田は、暫く息が出来ずにいた。
坂本は、息を呑んでカンナに見入っていた。
「今のあんたは弱い。
いくら、狂気で自分を騙そうとしても、いつかはその狂気が剥がれてあんたの本質が顔を出す。
あんたは、本能のままに生きればいい。・・・本当のあんたは強い。」
カンナはそう声を掛けた後、呆然と立ち尽くす坂本を連れてそこを立ち去った。
そのとき、岡田の狂気は、既に剥がれ落ちてきていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「礼を・・・言わんといけんのう。」
坂本は、静かにぼそりと言った。
「はぁ?礼だぁ?
そんなのはいらねぇさ。
俺も、新選組ってことを隠してたんだ。 お互いさまよ。」
カンナは清々しい笑顔を作って見せる。
だが、坂本にはそれが見えなかった。
「ちょうど黄昏時・・・か。」
カンナは、そうしみじみ思う。
黄昏時。
以蔵にも、助けてくれる奴の顔を見ることが出来ればいいが。
・・・そういや、トシに手を差しのべて貰ったのも、黄昏時だったか。
俺には見えた。はっきりと、トシの顔が。
だから、俺は今こうして生きている。こうして、しっかり道を歩んでいる。
俺はきっと、トシなしでは生きちゃいない。