愛
「・・・え・・・。
・・・なんで?・・・山南さん?」
カンナが、そうつぶやいたのは、
つい先ほどのこと。
カンナが屯所の狭い庭でただぼーっと空をみあげていたとき、へたりと足音が聞こえ、
その直後、総司の姿を目にした。
そして、それと同時に、
カンナひとり見送ったはずの山南が
総司の一歩うしろで微笑んだ。
そして冒頭に至る。
「敢菜。・・・ただいま。」
そう言う山南を揺れる瞳で見つめた後、
カンナは、ただ黙ってその場を駆け足で立ち去った。
翌日、早朝。
前川邸
山南は、清々しい表情で畳の上に腰をゆっくりと据える。
それを、幹部らは浮かない顔でただじっと目を逸らさずに見ていた。
「・・・総長山南敬助。
先日の行為を、・・・我々は脱走と見なした。
脱走は、局中法度の第2条に反するため、今ここに、切腹を申しつける。」
副長である、歳三が、淡々と言って見せる。
誰も望んで等いない、このときがやってきた。
山南の、切腹の時。
「敢菜。・・・来い。」
歳三は、カンナの気配に気付き、襖の陰に向かって声を掛ける。
「いやだ。 ・・・」
「来いっ。」
歳三は、襖を開けて無理矢理カンナの手を引っ張って部屋に入れる。
カンナは決して山南を見ようとはしなかった。
そのとき、山南は微笑んでカンナに声を掛けた。
「敢菜。ありがとう。
私にとって、あなたは癒しの場でした。
貴方と、温かい茶をすすり、他愛のない話をする。
唯一、心の温まる時でした。
・・・本当にありがとう。」
(・・・だから、・・・貴方に嘘を付いたままではいられない。
・・・誠の武士として、潔く針を千本、飲みましょう・・・。)
カンナは、ようやく山南の顔を見た。
山南は、それを確認してから、背筋をぴんと伸ばし、着物の上半身を、
右肌、左肌と順に払った。
その様子は、どんな武士よりも潔く、武士らしい。
「沖田君。頼みました。」
「わかってます。」
山南の要望により、介錯人となった総司は、刀身を抜き、それを山南の頭上へと持っていく。
「・・・では。」
山南は、切腹刀を左腹の上で止めた。
瞬間にして、ぴんと張りつめた静寂がその一室を埋めた。
・・・と思えば、幹部らが、息を呑む音がその空気を乱す。
山南は、とうとう腹に刀を入れた。
カンナの耳には、腹を刺す音がいっそう大げさに大きく聞こえ、無意識に目を瞑った。
「馬鹿野郎。・・・ッ目を逸らすんじゃねぇ。」
歳三は、掠れ、かすかに揺れる声でカンナにそう言い聞かせた。
歳三は、自分自身にもそう言い聞かせていた。
(・・・目を逸らすな。
俺たちが見てやらねぇで、誰が、この人の生き様を見るってんだ・・・。)
山南は、新選組の決まりどおりに刀を右へとずらし、一文字にかき切り始めた。
山南の口端からは、かすかに、苦しみの息が漏れている。
山南の手が止まった。
「・・・っどうぞ・・・」
山南が、掠れた小さな声を出したと思えば、
いつの間にか、山南の首は、床に転がっていた。
カンナは、泣くまいと、歯を食いしばり、静かに屯所を出た。
この山南の切腹は、誰もが苦しんだ。
切腹を申しつけなければならなかった歳三も、介錯をしなければならなかった総司も、
それらを見守ることしか出来ずにいた他の幹部も。
そして、山南と親しかったカンナはもちろん、山南を慕っていた隊士達までもが悲しんだ。
山南は、こんなにもたくさんの者に愛されているのを知らずに、この世を去った。