悲劇 其の一
私は、守りたかっただけだ。
大切な、かけがえのない家族を。
七月十八日 夕方
「では、カンナさん。行ってきます。」
「うん。楽しんできて。久しぶりに親友に会うのでしょう?」
「はい。」
笑って返事はするものの、嬉しそうではない。
むしろ、通武の笑顔は何処か悲しみを帯びていた。
もう既に、このとき、おかしいとは思っていたのだ。
しかし、今までの生活が幸せすぎて、平和すぎて、気持ちが緩んでいた。
そのため、本来気付くであろうことに気付けなかった。
「行ってらっしゃい。」
「近いうちに戻ります。 ・・・行ってきます。」
何故、手を振ってしまったのだろう。
このとき、無理にでも引き留めていれば・・・・。
何時だっただろうか。
七月一九日の早朝だった。
私は、珍しく自然と目が覚め、寝着のまま縁側へ出て薄暗い空を見上げた。
心の中がざわついて、どうにも落ち着かないのだ。
私は刀を抱きしめ、頬をすり寄せた。
その時、どこからともなく何かの大きな音が鳴り響いた。
カンナはその音の正体を掴むまで少々時間がかかったが、風に乗って漂う火薬の匂いと
久しぶりに嗅ぐ、生々しい血の臭いにその正体をだいたいだが、掴んだ。
それと共に、どうしようもない不安がこみ上げ、早く行かなければと身体が先に動く。
何故なのかは分からない。
ただ、何か大切なものがこの世からすっと消えていってしまうような、そんな感じがした。
カンナは着物に素早く着替え、刀を背にくくりつけ、かつさんの反対を押し切ってまで駆けだした。
私には正直、何が起こっているのか、この足が何処に進んでいるのか全く検討が付かない。
それに未だ京の都に慣れない私にはここの地理などさっぱりな筈で。
考えなければ・・・・。
・・・えっと・・今は元治元年の七月一九日・・早朝・・・
それから・・・大砲・・・・あぁっ・・もう少しで出てきそう・・・・・・・。
・・・あ・・・玄瑞は、どうしてる?・・・あれ?・・玄・・瑞?
あっっ!!
「・・・っ禁門の・・変!」
だとすれば、玄瑞が・・!
早く!・・・早くっ!!
だんだんと男達の必死に生きようとするうめき声や、刀のぶつかり合う音、それから、
先ほどと同じ、大砲の音が大きくなってきた。
どうやら、この足に全てを任せて良いらしい。
しかし、やはり、この足では速さに限界があった。
ようやくここまでたどり着いたは良いけれど、もう日が昇りさんさんと太陽が武士達を照らし付けていた。まだ間に合うか!?
・・とにかく私は玄瑞・・いや・・通武のもとへ行きたい。
久坂玄瑞・・・確か、鷹司邸へ行けば会えるはず。
・・・・こっち!
カンナは立ち向かう者全てを切り伏せ、無事に鷹司邸にたどり着く。
・・・どこ!?
・・・・気配がするかも・・。
カンナは思うままに足を進めた。
カンナは敵に出会うことも、斬り合いになることも恐れはしなかった。
しかし、一つだけ恐れていることがある。
・・・どうか無事でいて欲しい。
それだけがカンナの頭の中を占めていた。
この向こうにいる。
カンナは直感した。
ただ、会いたいがためにカンナは勢いよく襖を開けた。
すると、カンナの直感が当たっていたようで、通武はその部屋のど真ん中にいた。
しかし・・・
通武は既に、ぐったりとしていて、通武の座る床には血が水たまりのように広がっている。
血の量にも驚いたが、まだまだその血は止めどなく流れて、いっそう水たまりを広げていた。
「通武っっ!!!!!」
カンナは血で汚れるのも気にせず、通武に駆け寄り抱き起こした。
やはり、自刃だった。
歴史はそう簡単には変わらないものだ。
最初から決まっていたことのように人が傷つき死んでいく。
自分の無力さに腹が立った。
「・・っ通・・武ぇ!・・通武っっっ!!!」
カンナはとっさに通武の腹の傷口を刺さったままの小刀ごとおさえ、何度も何度もその名を呼んだ。
近くにいるのだからわかる。
微かにでも息はあるのだ。しかし、夏であるというのに、通武の指先やつま先は氷のように
冷たくなってきていた。
「ねぇ・・。通武・・・・。お願い・・生きてよ。」
「・・・・・っ・・カンナ・・・・さ・・。どうして・・・このような・・とこ・・ろに。」
微かに通武の声がした。
驚きよりもまだ生きていることへの嬉しさの方が勝っていた。
「通武っ!!」
「ははっ・・・そんなに・・・叫ば・・なく・ともっ・・。」
「どうして?・・・切腹なんて。」
いつの間にか、カンナの目には涙がうっすらと滲んでいた。
「私は・・武・・士・・ですから・・。」
武士なんて身分、どうでも良かった。
切腹なんて、ただの自殺では無いのか・・。
「家族なのにっ!・・・大切なのにっ!!」
「カンナ・・さん・・。どうか・・笑って・・いて・・・ください。
・・泣かないで・・ください。」
気付かぬ内に涙が溢れ、通武の頬まで濡らしていた。
笑えと言われても、カンナには無理なお願いだ。
この状況で、笑えというのか?
「うるさいっ・・。生きていれば、笑顔など何時だって・・。」
「ははっ・・。そうです・・ね。・・生き・・られる・・でしょうか?」
カンナは大きく頷いた。
諦めて欲しくなかった。しかし、分かっていたのだ。もう手遅れだということを。
だから、こんなにも涙が溢れる。
「・・・最期に・・・カンナ・・さん・・・」
「最期じゃないっ!!」
通武は穏やかな笑みを漏らした。
「聞いて・・・くだ・・さい。」
そう言われてしまっては、黙るしかない。
カンナは溢れる涙を止めようとはせず、黙り込んだ。
「・・っ・・カンナ・・・。・・私は・・・・貴方が・・・好き・・です・。
貴方の・・笑顔がっ・・言葉が・・・私を・・・闇・・から・・・引きずりだして・・くれた。
・・幸せ・・でした・。・・初めて・・人を・・愛し、過ごすことが・・・幸せ・・だと知りまし・・た。・・・本当に・・感謝しても・・しきれぬ・・・ようで・・。」
カンナの目には先ほどとは比にならぬほど涙をためている。
・・・っ通武・・・。
生きてよ。死なないでよ。
家族でしょう?・・・この先生きていれば、・・もっとたくさんの幸せを知れるんだよ?
「通・・武ぇ・・。」
「泣かないで・・・と・・言った・・でしょう。」
涙を止める方法なんて・・知るわけないでしょう?
「生きて・・・。置いていかないで・・」
通武はふっと笑い、冷たくて大きい手でカンナの頬を優しく包んだ。
「カンナ・・。良いですか・・・?・・・よく・・聞いて・ください・・・。
・・・早く・・・ここを出て・・かつさん・・と・・安全な・・ところ・・へ。
・・京は・・・焼かれて・・・しまい・・ます・・。」
「無理にきまって・・・」
「カンナっ!・・時間が・・ないんです・・。・・私を・・捨てて・・いきなさい!
・早く・・早くっっ!!!」
いつの間にか駆けだしていた。
でも、通武は傍にいない。
通武の必死な声に突き動かされた。
・・・・・っ・・私は・・通武を・・・・捨てた。
最低だ。
家族といえるまでに、愛していたのに。大切だったのに。
ただただ、走った。
泣きながら必死に走った。
自分の侵した罪から逃げるように。
通武の死を認めまいと。否定したかった。
帰ればまた、あの穏やかな顔で笑いかけてくれる。
そう、信じたかった。
カンナさん。・・・どうか、どうか・・幸せに生きて下さい。
誰にも負けぬぐらい・・。
「・・・・っ・・カンナさん・・。・・私は・・っっ・・いつだって・・・
貴方を・・・・愛して・・います・・から・・・っ。
・・・幸せ・・に・・いき・・て・・・・ー」
久坂玄瑞・・・通武 は静かにこの世を去った。
通武は、一人で死んでいった。
しかし、カンナが去るとき、通武はカンナにある冊子を託した。
その中には、今までに詠んできた句と切腹の前に詠んだ辞世の句が綴られている。
通武は息を引き取る前、あることに気付いたのだという。
ー・・・あぁ・・カンナさん、私は忘れていたようです。
・・私は決して、一人ではないということを。愛しい、家族が居ることを。ー
そして、通武が一番に願ったこと。
ーカンナさん、必ずや・・幸せに生きて下さい。・・・もう悔いなど、ありはしません。
カンナさん。 本当に・・・大好きでした。ー