第26話 ミリアの嫉妬
軍病院の廊下を、カイは小走りに駆けていた。
さっきまでクレアの病室に付き添っていたが、看護師を呼ぼうとして外に出たところだった。
冷静に考えれば、呼び出しボタンを押せばよいのだが、入院経験が無いことと、クレアと尿瓶という組み合わせが刺激的すぎて、慌てて飛び出したのだった。
表情には安堵と羞恥心、それにどこか複雑な影が残っている。
その前に、壁にもたれかけていたミリアが立ちはだかった。腕を組み、険しい瞳をまっすぐにカイへ向ける。
「……あんた、何をしてるのよ」
「え?」
「捕虜の女を、まるで大切な仲間みたいに扱って……どういうつもり?」
ミリアの声は震えていた。怒りだけでなく、言葉にできない感情が混じっているのをカイは感じた。
「彼女は怪我をしてるんだ。敵か味方かは関係ない。放っておけるわけないだろ」
「関係ない? あんた、本気で言ってるの?」
ミリアは一歩詰め寄り、拳を握りしめた。
「帝国にエリアスを殺されたのよ! あたしの大切な人を! あの女も同じ帝国軍じゃない!」
カイは言葉を失った。ミリアの怒りは痛いほど伝わる。しかし同時に、彼の胸の奥には譲れない思いもあった。
「……でも、目の前で苦しんでる人を無視したら、俺は後悔する」
「後悔? それで私に後悔しろっていうの? あんたは私と子を作る立場なのに、敵の女のことばっかり……そんなの許せない!」
ミリアの声が廊下に響いた。彼女は唇をかみ、涙を堪えるように顔を背けた。
「……エリアスの代わりになれるかもしれないと思った。でも違った。あんたは結局、帝国の女に心を奪われるのね」
カイは必死に言葉を探すが、何を言っても彼女を慰めることはできそうになかった。
その沈黙こそが、ミリアにとって最も許しがたい裏切りに映るのだった。
カイはミリアにそう言われても、クレアのもとを毎日訪れた。
病院の白い壁に囲まれた静かな病室。窓辺に置かれた花瓶には、カイが買ってきたばかりの野花が生けられている。
クレアは視線をそこに向け、ため息をついた。花など、戦場に咲いている間に踏みつぶされてきたものだと軽蔑していたはずなのに、今はなぜか目が離せなかった。
そのとき、扉がそっと開き、少年が顔を覗かせる。
「具合はどうですか、クレアさん」
ぎこちない声。だが、瞳には真剣さが宿っていた。
「……子供が看病の真似事か?悪くはない。動けないのは変らんがな」
いつものように皮肉を返すが、以前よりも棘は弱かった。
カイは苦笑しながら、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「それでも、顔を見に来たんです。僕が来れば、少しは気が紛れるかと思って」
その言葉に、クレアは思わず唇を噛む。敵の少年兵に気を使われている自分――滑稽で、同時に胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
沈黙が流れ、窓から差し込む午後の日差しが二人を包み込む。やがてクレアは視線を逸らしたまま、低くつぶやく。
「……どうしてそこまで世話を焼く。私は敵だぞ」
「敵だからって、傷ついた人を放っておけません」
迷いのない言葉。
その青臭さに鼻で笑いながらも、クレアの胸にかすかな痛みが走る。
――まだ、こんな感情が自分の中に残っていたのか。
女としての自分を捨てたはずなのに、少年の真っ直ぐな視線に心が揺れる。
「……本当に、馬鹿な子供だ」
呟きは自嘲であり、同時に、胸の奥に芽生えつつあるものを誤魔化すためでもあった。
カイは小さく笑い、持ってきた本を机に置いた。
「今日は、これを一緒に読みませんか。退屈だと思って」
クレアは目を細めた。敵国の少年に心を許すなど、裏切りにも等しい。だが、自分の中に残っていた人間らしさを否応なく思い出させる存在でもあった。
そして、花の香りがふと漂う。――クレアは気付く。
こうしたカイの行動、それがやがてクレアの心に変化をもたらす。
ある日、彼女はアーノルドを呼んだ。
病室に入るなり、アーノルドはクレアに嫌味を言う。
「どうした、喋る気になったか?」
クレアは鼻で笑った。
「カイは青臭い……だが、人間らしい考え方だな。私には縁遠い感情だ」
彼女の声は嘲りに満ちていたが、どこか空虚でもあった。
しばし沈黙が落ちる。カーテンの隙間から差す夕陽が、彼女の頬を赤く染める。やがて、クレアはため息を吐き、目を細めた。
「……帝国は、フェニックス計画の存在を掴んでいる。仲間の拠点を漏らすわけにはいかないが、それ以外の情報を話そう」
唐突な告白に、アーノルドは瞼を狭める。
「捕虜の口から自ら漏れる情報ほど信用ならんものはない」
「そうだろうな」
クレアはあっさりと認め、かすかな笑みを浮かべた。
「だが、戻ったところで私に待つのは出世ではない。責任を押し付けられ、使い潰されるだけだ」
その言葉の裏に、自嘲と諦念がにじむ。
「ならばせめて……毎日、顔を出し、私の名を呼ぶあの青臭い少年のために。少しは役立ってやろうと思っただけだ」
アーノルドは黙したまま、長い視線でクレアを見据えた。その眼差しに疑念と、そしてわずかな理解が入り混じる。
老将は最後にひとつ息を吐いた。
「……本当に青臭いのは、どうやらお前も同じらしいな」
クレアは応えず、天井を見つめるだけだった。
一通り情報を話すと、アーノルドは退室した。
また一人になったクレアは、ベッドの上で身じろぎもできず、ただ天井を見つめていた。そして、静まり返った病室の空気にふと我へと返った。
視線を横に動かすと、窓辺の小さなテーブルに、カイが置いていった花が活けられている。ありふれた野の花に過ぎない。だが、素朴な色合いと、まだ瑞々しく咲き誇る姿が、ひどくまぶしく映った。
「……子供の、気まぐれな贈り物、か」
口の端をわずかに吊り上げ、自嘲の笑みを浮かべる。
だが胸の奥には、不意にざわめきが広がっていた。
任務に身を投じ、女であることを捨てたはずの自分が――あの少年の心配りひとつに、かすかな温もりを覚えている。
それが何よりも恐ろしかった。
「まだ、女のつもりでいるのか、私……?」
呟きはかすれ、誰に聞かせるでもない問いとなった。
冷酷であるべき特務の大佐が、今さら胸を鳴らすなど笑い話にもならない。だが、その笑いが喉から漏れると同時に、瞳はほんのわずか揺れていた。
花瓶の花弁が微かに揺れる。
風もないはずの病室で、それはまるで、封じ込めていたはずの感情が顔をのぞかせた証のように思えた。
クレアは瞼を閉じ、深く息を吐く。
だが、その吐息の奥底で芽生えたものは、もう見なかったことにはできなかった。




